2021年1月17日日曜日

2016年の下書きとの再会


雪の間に咲き残る花たち

1週間前の大雪寒波の日の帰り道



世の中の自宅にWi-Fi持ってないiPhoneユーザーの人たちは、どうやってアップデートしてるんだろう?


私は基本的にコンビニに行って、迷惑なくらい結構な長い時間駐車場に車止めて、ドコモのWi-Fi拾って、そこでアップデートする。


そして迷惑料とも呼べない小さな買い物をして帰る。


そうやってきたけれど、今回のアップデートは全然上手くいかなくて、何としてでも長い時間安定したWi-Fi環境が必要で、そこで電源もあってWi-Fiもあるという条件が揃うネットカフェに久しぶりに行ってきた。


2年とか3年ぶりじゃないかと思う。


ちなみに実際にアップデートしてわかったけれど、今回のアップデートはかなり大掛かりなもので、安定したWi-Fi環境でも普通に1時間半以上かかってiPhoneが壊れるのかと思ってヒヤリとした。


私には意味がわからなかったけれど、初代iPhoneの時に私の電話はなぜかかかってきても出ようとすると勝手に切れたり出てるつもりなのに反応しなくて相手はずっと鳴らしっぱなしだったりと、明らかにおかしな反応をした時があって、さすがにまずいと思ってApple Storeに行った。


今じゃ考えられないくらいにありがたいことだったけれど、当時の私は歩いて行こうと思えば歩いて行けるくらいの近さにApple Storeがあるところに住んでいて(実際にその近くまで歩いて行ったことも何回かある)、Apple Storeも予約して普段の外出と変わらない感じで行ってきた。


そこで衝撃の内容を伝えられて帰ってきた。


とりあえず即機械交換にしてもらえたけれど、担当者の人が「お客さんの場合、iPhone機械本体ではなくて中のシステムに異常があります。だから、これからも何かしら問題が起こらないとは言い切れないので、何かあったらまたご連絡ください」みたいなことを言った。


とりあえず機械は交換したけれども、新しいから大丈夫ということでもなかったようで、ギョッとした。


こういうことって普通にあるんですか?と聞いたら「今回初めて当たりました。過去に見たことがないので、正直どうなってるのかよくわかりません」ぐらいなことを言われて、それは決して隠蔽とかではなく本当にないスーパーレアケースなんだとわかった。


システムが壊れているというのは何なのか未だにわからないけれど、今回アップデートがまさかそんな1時間半以上要するものだとは知らなくて上手くいかなかった時、真っ先にiPhoneがダメなのかもと不安になった。


当時のiPhoneではないけれども、実は今のiPhoneも写真機能で普通には起こらない事象が発生しているから、それもiPhoneセンターみたいなところに電話して聞いたら修理対象のようだけど、代替え機もないのにどうやって携帯なしで過ごすわけ?と思ってそのままにして早何年。


機械関係のハズレ具合が続いているから、せめてアップデートすることで余計なトラブルを回避できるならしますします!と思って使っている。


これだけで1記事になりそうなiPhone話はさておいて、ネットカフェでの話。







ついでに先週受けた占星術講座の動画が1週間程度見放題で見れるから、iPhoneをアップデートしている間それを見て過ごそうと思っていた。


最初は見ていたけれどすぐに飽きて、そしてふと「USBがあったはず!」と思って仕事に持って行っている筆入れをガサゴソしたらUSBが出てきた。


これはチャンス!と思って、12月に受けた個人鑑定の時に先生に頼みこんでもらった、3年前の初級講座の音源をiPhoneからYahooメールに転送して、それをダウンロードしてUSBに落とそうと決めた。


容量はそこそこ大きいけれど、iPhoneのよくわからない機能のおかげで無事に音源やら鑑定動画を送ることができた。


その時にふと、USBに入っている2016年の頃に書いて保存しておいたブログの下書きを開いてみた。


名古屋から新潟に戻ってきて、しばらく家にいた頃、突然ネット回線のない日々になって、それでいつかはネットを引くことになるならその時にまとめてアップしようと、気が向くままに書いておいたものだった。


あの時が一番本当の意味での引きこもりだった。


3週間くらいまではカウントしていたから覚えているけれども、本当に私は一歩も家の外に出なかった。


親は私が帰ってきたことを周りにひた隠しにしていたし、私もどこに出る用事もなく、そして元々家にいることが好きだから、たとえ両親とのギスギスした空気があってもそれでも外に出たいと思わなくて、家に居続けることは全く苦ではなかった。


ちなみにこれは子どもの頃からそうだし、アメリカやドミニカに住んでいた頃も用事がなければ外に出ないのは今と変わらなかったし、名古屋にいて普通に働いていた時なんかも3連休以上になると「徹底的に引きこもるための準備」を連休前にして連休中は一歩も外に出ないことを計画するところから楽しむくらいだったから、だからその時も家の外に出ないことは私は苦ではなかった。


これは自分でなんとなく思っていることだけれど、外に出ると基本的に情報が多すぎるからそれに疲れるというか処理するのに時間も体力も気力も使うんだと思う。


自分1人の時間がないと発狂しそうになるのは、多分そういうことも関係している気がする。


そんな風にして引きこもっていた当時、時々書きたいことがあるとパソコンを開いてひたすらWordに打ち込んでいた。


本当に何てことない内容だったけれども、私は好きこのんでそれはしていた。


いくつか開いて数行ずつ読んで、今回全部を少しずつアップしていこうと決めた。


今度はUSBからブログの管理ページに全ての文章を転送して下書きとして保存した。







いくつか読みながら、本当にそれらを残しておいて良かったと思った。


書いたのは今から4年半以上前のもの。


2016年の初夏から夏にかけて書いていて、あとは秋の終わりくらいに1つ書いてそこで止まっていた。


2016年から見たら今はまた大きく時代も世の中も変わったけれども、文章の中にある私や私の見ている世界は今と何ら変わっていなかった。


全然古臭くなく、今も普通に話したら面白い話題だなぁなんて自画自賛したくらいだった。


世間や一般的に賞賛される又は推奨される生き方は全くできていなかったけれども、文章の中に現れる私の世界は全く曇っていなかった。


どこまでも真っ直ぐでちっぽけででもそれが等身大の自分で、当時の自分が愛おしいと思った。


働かないことを選んだ私は、それは生きることをもどこか投げ捨てているみたいなところがあった。


何を甘ったれたこと言ってるんだ?と叱られたとしても、やっぱりどう考えても限界は限界だったんだと思う。


健康な体も難解なことでなければ社会の中でそこそこ対応できる力もあるにも関わらず、働かないというのは社会的にアウトな人だと思われる。


でも、私からすると、普通に働けることの方がある種怖いことだと思う。


世の中には素晴らしい企業や団体も存在しているし全部を否定するつもりは全くないけれども、やっぱり資本主義社会で一般企業で利益追求型で生きていくとなったのなら人間の心はどこかしら無理みたいなことをしないといけない。


成果を出して当たり前の世界で生きていると、私は確実に息がつまる。


成果を出せなかった時、失敗した時、何かやらかした時、そういう時に「それでも自分は大丈夫、生きていていい存在、愛される存在」くらいな強力な肯定感がないと安心できない。


今でもまだまだいくらでも検証できるけれど、私が働くことに対してどんどん抵抗して無理になったのは、多分その根底からの不安と何かしていないと価値のない自分とが本気で耐えられなくなったからだと思う。


これだけ色んな仕事をしてきて思うけれど、私という人はかなり能力が高い部類の人だと思う。(自分で言うことの可笑しさにはどうか目をつむってください)


エリートとかいうことではなく、与えられた仕事に対して不器用なりに全力で向かうし、覚えるまで努力するのは子どもの頃からの習慣で自然と身についているし、わからないことは素直に聞くし、聞いたらお礼を言うし、内容をメモすることも忘れない。


働き方はどうであれ、私はどの職に就いても誰もやりたがらないとか多くの人たちがクレームを出してしまうとかいうようなことも、なんだか知らないけれど普通にやれたり、やたらとお客さんに好かれたり、なんやかんやと求められるものに対してきちんと呼応する。


関係ないけれど、これは完全に生まれた時のホロスコープに出ていて、いわゆる「できる人」と呼ばれる相を私は持っている。先月受けたホロスコープの個人鑑定で知った。


辞めた後、戻ってこないかと言われることも多かったし、自分でも驚くくらいに社会への適応はそこそこ高かった。


だけど、そればっかりしていると私の心は死んだようになっていく。


人の期待に応えて快感を得るタイプの人もいれば、私みたいに心が枯渇するタイプの人もいる。


私は自分のダメさも嫌というほどに知っているから、そのダメ人間な自分の方をとことん受け入れないと途端に息苦しくなる。


自分を偽っているつもりはなくても、表に出ている周りから受け入れられやすい自分だけでは生きていけないから、影に隠れた方の自分もちゃんと存在していてその自分の居場所がないと自分は倒れてしまう、ということを繰り返す引きこもりニートのような時間を経てようやくわかった。


その最終段階手前のまだまだ苦しかった時の自分の目線や考えがその2016年の下書きの中にあった。


なんてことない日常を、自分の目線で切り取って、怒ったり不思議に思ったり、なんだかんだと面白いことをあれこれ言ってた。


本当の本当に、これで良かったんだなと最近になって思えるようになってきた。


生き方不器用すぎるけれど、その自分こそが財産だし、斜めから何かを見てしまうのも自分に与えられたものの1つだと言い切れる。


そんなわけで、これから少しずつ気が向いた時に2016年に書いたものの下書きをアップしていく。


さらに余談だけど、当時付けたタイトルがどれもこれも面白くて、社会から離脱している時の方がネーミングセンスがあるんじゃないかとさえ思った。


11年待ちのコロッケ、とか。


感覚のない暦、とか。


ラーメンの悲劇と馬刺しの喜劇、とか。


もっとどうでもいいことだけれど、1時間半以上かけてiPhoneをアップデートしてバックアップも取ってきたにも関わらず、さっき「写真」に行ったら「32日間以上バックアップされていません」とかふざけたことが表示されて、「バックアップって何を私はバックアップしたの?」となっている。


相変わらず機械音痴発揮( ̄∀ ̄;)


言い訳みたいで嫌だけど、自分のことを能力高いとは思ってないし(じゃあ書くなという話)、人よりもできることもないわけではないけれど、多くの人が難なくしてるだろうアップデート1つまともにできないとか、そういう風にできないこともたくさんありすぎて、できることとできないことを足すとトントンかなトントンであって欲しい、くらいに本当は思っている。


上に書いたことは、そのように書いた方が何かとスムーズだからそう書いただけ。


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