2020/09/27
虹の空
「もどかしい」
これだ!と思った。
私は今の状況がもどかしいんだなと、言葉がポロッと出てきてようやく自分の気持ちがわかった。
9月のはじめくらいから3年前のことをポツリポツリと書いてみて、色んな感情が湧いた。
3年前に記録として残したノートも開いてみた。
3年経ったとは思えないくらい、当時のことが鮮明に自分の中に残っている。
1週間前、姪っ子含む妹夫婦が来た時に色んなことを思った。
その時のことはまた別の記事に下書きで書いているけれど(また途中のままアップしない可能性もあるけれど)、その時に思ったことはこの3年の間に一度も抱いたことないものだった。
相手から何の反応も連絡もないことに対して、「このまま繋がらないんだ」と思った。
私は時間の経過と共に、どういうわけかこのブログは読んでもらえてると知って、そしてそこからさらに「いつか本当にやりとりができる日がくるかもしれない」と真面目に信じた。
祈ったとか願ったみたいなレベルでも、本当にそのように思った。
だけど、3年という月日が流れて、「繋がらない選択」をその人はしたんだと、ものすごく冷静に思った。
これだけは私も確信しているけれど、その人と私とはとにかく何かしらこの世のものとは思えない強固で特殊な関係性があるんだと思う。
魂とか輪廻転生とかを使って説明したら初めて説明がつくもの、そういう類いのものだと思う。
ぶっ飛んだことも数々あったし、まるで作り話みたいなありえないこともたくさんあった。
あれは目に見えない引力みたいなのが働いているとしか思えない。
私の場合は自分の中も自分を取り巻く世界も、双方ですごいたくさんの変化や摩訶不思議なことが起こりまくった。
その人の中や世界ではどんなことが起こっていたか知らないけれど、少なくとも同じくらい影響があったと考えるなら、その人にとっても相当凄いことが色々あったんじゃないかと思う。
だから、もしかしたら日常やら非日常みたいな日常を綴っている私のこのブログは、答え合わせみたいな役割があったのかもしれない。
「へぇー、あいつのところはあんなヘンテコなことがある」っていうのを見るためだけに読んでるほど暇じゃないだろうから、時間割いてまで見る理由は他にもあったと思う。
けれど、だからと言って個人的に連絡を取り合うような関係は欲してない、そういうところが3年もするとものすごく輪郭が太くなって見えてくるようになった。
このよくわからない関係とも呼べない関係みたいなものは今後も継続する可能性はあっても、普通に連絡を取り合うとか電話するとか会ってごはん食べるとか、要は普通の知人レベルの関係みたいなものは今後も期待できない、それをなんだか強烈に感じた。
そして、今回ばかりはどういうわけか私も「もうそれはそれ、仕方ない」というような気持ちになっている。
話は変わるけれど、この間占星術講座の時のクラスメイトだったノムのゲイの恋人ミッチーのこの1年の星読みをした。
「ゲイの恋人」なんていちいち銘打って説明するのもおかしいけれど、「ノムの恋人」とだけ書くと情報が片手落ちみたいなところがあるから、わざとそうやって書いた。
ミッチーには誕生日プレゼントとして、星読みと使い勝手が良さそうな計量スプーンをプレゼントした。
ノムもいるもんだから、ノムはわざわざミッチーがプレゼントを開ける瞬間の写真や様子を文にしてLINEを送ってくれた。
ものすごく楽しいやりとりをミッチーとノムとできた。
今の私は滅多に星読みもしないし、誰かにプレゼントを用意することもないけれど、そういう1つ1つの準備が本当に楽しくて、こういう非日常的な日常は自分の心をすっかり満たしてくれる。
そして気兼ねなく誕生日プレゼントが用意できたり、自由に誕生日メッセージを書けることの素晴らしさを改めて思い知った。
ミッチーにはそうしたことが普通にできるのに、その人にはそういうのしたくてもできないんだなと思った。
しかも、ミッチーの宛名を書く時に、電話を何回かしたことがあるのにも関わらず、LINE電話ゆえに正式な電話番号を知らなかったことも今回初めて気付いた。
でも知らなくてもやりとりできてるから何にも困ってないし、電話番号以外の手段でいくらでもやりとりできてるから「大丈夫」って自信がある。
そういう特別なやりとりをする時に、「その人はそういうのを一切望んでいないんだな」っていうのをものすごく痛感する。
望まれていない自分、望まれていない個人的なやりとり…。
そういうことがやたらとクローズアップされた3年経過の今になっている。
書いても書いても反応がないから、もう十分やれることはやったからもういいかな…、と思い始めている自分がいる。
この先会うことも話すこともないなら、色んなことを割り切って考えたらいい。
私のブログにどんな意味があるのかはわからないけれど、読んでもらえることはこれからも良かったらどうぞ、と差し出すような気持ちだし、だからと言って相手の読む自由に対して何か反応してください、なんていうことを迫ることはしたくない。
自分が逆の立場ならそんなの迫られても困るし嫌だから、そっとしておいて欲しい。
とにかく、ブログのことと普通のやりとりをすることは切り離して考えた方が私が楽だし、変な期待や願いをそこにのせてしまうと自分がしんどいだけだから、もうそういうのは先は見えないわただただ悲しいわで本当にそれは嫌だと思うようになってきたから、これから先はいかに自分が無理がなくて少しでも心地よさを自分に与えられるかを軸にしようと思う。
当時の感覚もこの3年で起こった色んなことも私の中で変わらない不動のものとなったから、もうそれでいいんだと思う。
そして、魂のことや人生の設定やら、私が望むようには本当になっていない、そのように動いていかない現実を前に、私は良くも悪くもあきらめている。
たくさんのことを望んでいるわけじゃないのに、色々叶わない現実はとことん私を打ちのめしたし、それに執着すればするほど自分が超絶しんどくなる。
そういう現実なんだと受け入れていく方が実は自分が楽なんだとわかり始めて、私は望むよりも受け入れることを始めた。
妹たち家族を見ていて、私が欲しいのはそういうものだったなぁとつくづく感じた。
一度妹夫婦、姪っ子、私の4人で近くを散歩したことがあった。
3人にだけわかる合図なのか掛け声があって、それが指令されると妹と弟は繋いでいる姪っ子の手を上げて、姪っ子は宙ぶらりんみたいになる時があった。
写真はその瞬間をちょうど収めたものだった。
場所が変わっても、はたまた何日か会っていない時間があっても、その3人にだけわかるルールは健在していて、ずっと変わらずにある。
妹と姪っ子は先に新幹線と電車を乗り継いでやってきて、弟は後から車でやってきた。
車で来る時に妹は何を持ってきて欲しいとかを弟に頼んでいた。
それは姪っ子のおもちゃだったり薬だったりしたけれど、それは2人にしかわからない説明で「わかった」となるのがすごかった。
それこそが普段積み重ねている日常なんだと羨ましい気持ちで私は眺めていた。
弟が到着した日は、妹夫婦は弟の趣味の釣りに出かけて、姪っ子は面白くない釣りには見向きもせずジジババと3人で大きな公園巡りに出かけた。
私は家で1人ゆっくりとした。
家族が1つになったりはたまた別々に行動したり、実に自由な家族のルールが妹家族にはあった。
姪っ子もジジババと3人で出かけるのに慣れているから、そしてそちらの方が確実に自分のツボにハマる場所に連れて行ってもらえるから、喜んで出かけて行く。
この時だけは、両親<ジジババ、になる。
そういうごく当たり前のようなものと、その人と私との間に横たわるものは全然種類が違いすぎて、望むことさえ間違っている気がした。
そういうのを相手も望むなら今は違うだろうし、望まないからこそここまで徹底して関わらないことを選び続けているんだろう…、それが悲しいほど現実でリアルなことだった。
ノムやミッチーとの関係とも全然違うし、他の男友達との関係とも全然違う。
とにかく独特すぎる感じがその人と私との間にあるのが、それが対その人とのことではスタンダードなんだろうと思う。
一番烈しく印象を残す人には変わりないけれど、現実の距離は他の誰よりも遠いなぁと思う。
そして人間関係の距離は一方的に何とかできるものじゃないから、すべては為すがまま為されるがままにするしかできない。
自力で何とかできないものは、無理に扉を開けるんじゃなくて、開かなければ開かない扉を受け入れるしかない。
色々書いたけれども、私は今でもその人に心から感謝している。
その人に出逢わなかったのなら、私の人生はまるっと別モノになったと思う。
その人のいない世界に今もずっと自分が生きていたのなら、今の自分は本当に存在していなかった。
断言できる。
その人が私の人生に現れてくれたことで、私は自分の人生を生き直す機会に恵まれたと思っている。
自分の凍った心に熱をそっと吹き込んでもらって、見えていないものを見えるようにしてくれて(本人はもちろん無意識だと思う)、自分の中で封印していた様々なものがムクリと起き上がって、そして自分と自分の人生をどこまでも見つめた。
それは人生投げやりな自分がもう一度きちんと生きたい、という気持ちをものすごく自然に引き出してくれたのがその人だった。
私の毎日は、その人に会うためにあって、それだけが楽しみで毎日毎日生きていた。
明日(2020/09/28)仕事に行くのがかなり憂鬱で(なぜなら冷静になればなるほど、今担当している仕事が会社にとっての爆弾だと知って、それをまた派遣の立場で指摘して摘発するみたいなことをするのかと思うとひたすらやりたくない)、唯一の楽しみは仕事が終わったら期日前投票のために役所行くついでに駅の近くをプラプラすること、みたいな今とは全く違う。
3年前は何がなくても、とにかくその人に会えることが生きる活力でモチベーションだった。
生きるってこんなにシンプルなことなのかと超感動していた。
そして、その時に本当に全身全霊で理解できたんだと思う、何がなくても、何かしてなくても、本当に生きているそれだけで価値があるということ。
それは自分を見てそう思ったんじゃなくて、その人を見てそう思えた自分を知って、それで理解できたことだった。
私にとって、その人がイケメンで背が高くてスタイルが良くて良い会社に勤めていて安定していて…みたいないわゆる婚活市場で重要視されることには本気で興味がなかった。
私はそういう視点から言えば、その人など一番遠ざけたい、私からしたら何を相手にもされない人に自分を近づけなきゃいけないのか全く理解できない、そういうタイプの人だった。
これまで何度思ったか計り知れないけれど、魂系の人に出逢わせてくれるのなら身分相応な人にしてください、って数えきれないほど思った。
それか魂の目的らしく、外側のことに惑わされず自分の自己信頼と自己受容を推し進めなさい、という意味でわざと私が卑屈になりそうな人が送り込まれたんじゃないかとさえ思っている。
性格や心はそこまで悪くはないと思うけれど、私はそんなにも相手が「武士俣史子さんと知り合いでよかった!」などと思ってもらえるような価値はそうそうないわけで、せめて何か相手にプラスととらえてもらえるようなものを私にも授けてください、と思わずにはいられなかった。
それはそうと、そんなことも飛ぶくらいにその人に会える毎日は、キラキラしていた。
まさに細胞ごと取り替えの人生生き直しプロジェクトのようだった。
本当にこの人!という人に出逢えたのなら、本気で人生が変わる。
がんばらなくても、自然と生きる意欲が湧いてくる。
何か特別なことがなくても、しあわせを感じられるようになる。
生きている素晴らしさを実感する。
そして生きている者同士が同じ時代の同じ空間にいる奇跡に気付かされる。
そういう作用は自分1人の力で何とかするのは難しくて、その人がいてくれたからこそ私の場合は大きく変わった。
生きる楽しみや喜びをこれ以上ないくらいに与えてもらった。
本人はそんな気なくても、私には十分すぎるものをもらった。
だから本気で今でも感謝している。
そしてそういう人と出逢えて、なんかよくわからないけれどブログを手段みたくして何となく繋がりみたいなのが生まれて、でも何にもならない今という時が本当にもどかしい、というのが冒頭に書いたこと。
書いてて色々モヤモヤしたけれど、他にもっと書きたいこともある気がするけれど、とりあえず間を開けずにアップしよう。
本当に書く必要のあるものならまた後でいくらでも言葉は出てくるだろうし、気のせいならそのまま何もアップせずに終わると思う。
3年前の最後の日と同じ時間、私はのんびりと昼寝をしていた。
哀しみはなくなって、のんびりと昼寝できるくらいに自分は普通に元気なんだと知る。
0 件のコメント:
コメントを投稿