3年前の週の予定表を見た。
思った通りだった。
その日にすべてのことがガラッと変わった。
もちろん起こる直前まで、その後に起こることなんか1ミリも想像できなかった。
心の中では、一刻も早くこの作業が終われー、終われーと念仏のようにひたすら唱えて、やる気など1ミリもなく、そんな中で突然起こったことだった。
本当に突然だった。
突然その人が私の目の前に来て、必要なものを手渡して去って行った。
あまりに急すぎて、ポカーンと最初はして、そこからはジワジワと嬉しいやら照れるやら色んな気持ちが入り乱れた。
今思うと、その人が手渡してくれた行為そのものは、別に私に好意があったとかそういうんじゃなくて、他にも私と同じ状況の人がいたのなら同じことをしただろうし、私が特別とか気になるとか、そういうんじゃなかっただろうと思う。
でも、その一瞬の出来事で私の生きる世界はガラッと変わった。
仕事が始まってちょうど3週間くらいで、すべては不慣れな上、誰とも話すことがなくて孤立していたこともあって、その時だって誰とも関わり合うことがありませんように!!!とおかしな願い事をしていたくらいだった。
それはその職場にいた間ずっとそうだったけれども、その時だけだった、人生の中で本当に人と話さない仕事をしたのは。
誰とも話さない仕事は本当にその状況も苦手で、毎日毎日何でこの仕事に行くことになったんだろう?とはずっと思っていた。
何か絶対に理由があるはずだけれど、それって何だろう⁇って思っていた矢先の出来事だった。
今はもっとはっきりとそのように思うけれども、その仕事に就いたのは他でもない、その人に出逢うことだった。
冗談抜きでそう思う。
今の英訳の仕事と比べたらはっきりとわかる。
今の仕事は良くも悪くも、私の持っている手札をふんだんに使いこなして、英訳のようでいて実際は交渉事や組織の悪しき習慣にメスを入れるみたいなことをひたすらしている←やりたいのとは全く違うけれども、そういう内容の仕事がやってくる。
当時の仕事は、私はほぼほぼ何もしなくても良かった。
もちろんコピー取ったり資料をファイリングしたり何かを入力したりとかいうことはしていたけれど、そういうのは別に私じゃなくても本当にいいし、むしろ私なんかはどちらかと言えば不向きな仕事内容で、他に適任者なんていくらでもいたと思う。
コピー機の使い方1つ、ファイルの背表紙に名前をつけるためのテプラの使い方1つ、冗談抜きできっちりと1から教えてもらわなきゃ何もできないぐらいに私の知識も能力もそこになかった。
今なんか誰に教えられたわけでもなく、上と交渉するために資料も即席で作れば、対面でもガンガンと色んなことを言って上を動かすみたいなことをしているわけで、まるっと真逆の現象が起きている。
一度仕事のやり方を教えてもらえれば、あとは黙々と与えられたことをすれば良くて、その「黙々タイム」の全ては、その日を境に「その人観察タイム」にとって変わった。
周りから隠れるようにしてその日の作業をしていた私は、突然の出来事に本当に驚いたけれども、そこからはジワジワと色んな気持ちが湧いて、気付けばその人の姿を探していた。
ガン見してバレたら嫌だと思って、私は作業するフリしてその人の足元を見ていた。
鮮やかな色のスニーカーを履いていたその人の足元を追いかけて、そのスニーカーが視界に入ってくる度にドキドキしていた。
スニーカーの向きを見て、今なら私から見て背を向けてるとわかると頭を起こして、その人の姿を見ていた。
手は動かしていたけれども、途中からはその人を見るのに超絶忙しくなって、自分でも一体全体何をしているんだろう…?と思った。
そんな風に様変わりをした自分に、「あれはイケメンゆえに普段から慣れた行為だろう」と必死に言い聞かせた。
私にはものすごく特別なことだったけれども、相手はイケメンだし、そうした特別なことには慣れていて何も特別ではなく普通のことなんだと思った。
そこから数ヶ月した後、職場の唯一仲良くなった人にその話をしたら、「えー、そんな気の利く方じゃないと思うけれども」と返されたけれども、たしかに根回しや気配りをガンガンと超自然にやります!な人ではないかと思うけれども、それでもやっぱり私が特別だったわけでも何でもなく、同じ状況の人がいたのならその人は誰であっても同じことをしてあげただろうと思う。
私には超特別でも、その人からしたら普通なことだったんだろうなぁと思う。
なんならその普通のことをしただけで、私がそこから2ヶ月くらいすると今度はごはんに誘ってくるという超絶面倒くさいことをしてきたわけで、百害あって一利なしだっただろうと思う。
今ならわかる。
私にとってその瞬間の出来事が特別になったのは、出来事そのものじゃない。
その人自身が私にとって本当に特別な人だったから、そうなった。
魂の為せる技だと思う。
仮にその時他の人たちがそのように同じことをしてくれたとしても、私は「嬉しい!」とはなっても「♡\(*ˊᗜˋ*)/♡」みたいな心情にはならなかったと思う。
ジワジワとその喜び悦びが広がっていって、そこから先の私はどこまでもテンション高くなっていった。
[喜び…何かを外側からいただいてよろこぶこと
悦び…心の中のよろこびの感情で、自分の中から自然に湧き上がるよろこびのこと
どちらのよろこびも神がかり的なものと関係するらしい。]
当時の職場にその人並みに超静かな男性社員がいたけれども、そして個人的に喋ってみたいタイプの雰囲気を持っている人だったけれども、その社員のKさんにはそんな風には感じることもなければ、ごはんに行きたいなんて一度も思ったことがなかった。
Kさんの方がその人と交わした挨拶の回数よりも多く交わしていたし、強面な感じなのに廊下や階段ですれ違うとKさんから「お疲れ様」と言ってくれるぐらい意外と挨拶をしっかりとする人で、事務所でのツンケンした感じとは全然違っていた。
だけれど、Kさんを見て何かを思うことも感じることもなかった。
その人にだけ特別なことをあれこれ感じて、それが何なのかはずっとわからなかった。
今もはっきりとわかったのとは違うけれども、すべては「魂の関係」としてまとめて、それで自分は納得するようにしている。
もしあの日、その人が私の前に現れなければ、私はその人の存在に気付けなかった。
その人も他の人も職場にはいたけれども、あまりにも誰とも喋らない職場すぎて、私は自分の存在を消すようにして日々そこにいた。
だから、その人を意識するとかいうような心の余裕なんて全くなくて、いかに喋らない静かな雰囲気に慣れるのかが私の何よりもの課題だった。
その一瞬の時を境にすべては変わった。
その人がいる世界は、どこまでも「生(せい)」に溢れていた。
毎日「生きてるってすごい!」と感動した。
そういう世界を見せてもらえたのは、他ならないその人の存在のおかげだった。
これを書きながら、その時から1年少し経ったある日の会話を思い出した。
もう永遠に聞くことのない話だと思うけれど、その人と私とが何かということを聞く入口のところまで聞いて、そしてその話はそれっきりになっていることを思い出した。
ある時にまずは夜のファミレスで言われた。
夜のファミレスでは、そこにはいない、そしてただの一度も話題にしたことのないその人のことを、霊視ができるヒーラーさんが突然ベラベラと私にどんな人なのか伝え出した。
それはもう度肝を抜かれたなんてもんじゃなかった。
しかもヒーラーさんと会うのは、その時が3回目とかだったと思う。
会ったこともなんなら私が話題にさえ出したこともないその人のことを、ヒーラーさんはまるでよく知っている人かのように特徴をあれこれ話し出した。
視えていた、感じていた、んだと思う。
私の脳内模様がヒーラーさんに視えてたのとは違って、恐らくだけれど、その人の魂的な気配や存在感をヒーラーさんはキャッチしていたんじゃないのかなと思う。
当時の様子を書いたブログを読んで、1つ書いてないことがあったと気付いた。
恐れ多くて書くのをわざとやめた。
反対に言われたことの1つはすっかり忘れていて、今読んでより一層書かなかったことは多分合ってるだろうと思うようになった。
ちなみに忘れていたことは、ヒーラーさんは実は2回目に会った時もすでにその人の存在に気付いていたこと。
3回目に会った時、ヒーラーさんはわりと会ってすぐにその人の話を私に切り出してきた。
私が当時書かなかったのは、ヒーラーさんがどうしてそれを私に言ってきたのかの理由の方だった。
ヒーラーさんは「集中できない」と言った。
私にヒーリング関係の専門知識を教えようとそれに集中したいのに、ヒーラーさんから見てその人の気配が多分凄まじくて、どうにもこうにも集中できないみたいだった。
だからヒーラーさんは「言ってもいいですか?」みたいな切り出し方に始まり、吐き出すようにしてその人のことを私に伝えてきた。
私は自分の脳内が丸見えみたいだと最初勘違いして恥ずかしがったけれども、よくよく考えると、私の脳内の話ではない風だった。
明らかにヒーラーさんが意識を合わせているのは、目の前の私ではなく、何か違うところのように見てとれた。
本気でその人のことが視えてるの!?と思うくらいに、色んな特徴を次から次へと口にしていた。
前回(2回目)から気付いていて、おそらくだけれど前回も集中できないくらいにその人のことが視えていたんだと思う。
私の脳内模様が視えてるのではなく、その人の魂的な気配を強く感じていたんだと思う。
そしてその度合いが強すぎて、私に何かを教えるのに差し支えが出そうなくらいに気になっていたんだと思う。
なぜそう思ったのかと言えば、ヒーラーさんは私の知らないその人の内容を話し出したから。
組織の中のその人や会社の売上の話までしていて、組織の中のその人の役割的なものは聞いてても違和感はなかったけれども、売上については私が知る由もなくて、私は私がその職場に行く前のことを知っている人に内容を確認したぐらいだった。
もはや私の脳内模様ではなく、明らかにヒーラーさんは何か別のものを視て感じていた。
私はその辺りの仕組みは全く知らないけれども、感覚として似ているのは、その半年後くらいに今度はヒーラーさんが私の部屋に山で行方不明になったおじいちゃんの霊がいると言った時の様子に似ていた。
相手の気配を感じてそれを口にする、それはおじいちゃんの時もその人の時も似ていた。
前置きが長くなったけれども、思い出した会話は対面ではなく電話での会話だった。
それは2019年になってすぐくらいの時だったと思う。
時期が曖昧になってきたけれども、いつの時かヒーラーさんから言われた。
その人と私というのは、特殊な関係にあって、霊的な視点から言えばきちんとした説明が成り立つけれども、当の本人、特にその人側は何が起こっているのかおそらく言葉で説明もできないだろうし、本人も何が何だかわからない状況だろうことをヒーラーさんから言われた。
私が聞きたいと言ったのかその辺りの記憶もおぼろげだけど、ヒーラーさんから返されたのは、「電話では話せません。直接会った時に武士俣さんに説明します」的なことだった。
ヒーラーさんは基本的に何でも教えてくれる。
電話越しにも教えてもらった専門知識はたくさんあった。
けれども、その人のことだけはヒーラーさんは絶対に電話ではダメだと言った。
当時のどこかのブログにも書いたように思うけれども、ヒーラーさんが配慮していたのは私じゃなくてその人の方だったと思う。
何かよほどの事情がなければ「絶対に対面!」などと言わないヒーラーさんがそう言うってことは、本当によほどの事だったんだろうと今になって思う。
もうひとつ。
今となれば聞いておけば良かったな…なんて思うけれども。
当時山で行方不明になったおじいちゃんの霊が私の部屋にいて、そのおじいちゃんの言葉をヒーラーさんが通訳をして、私が今度はそれをご家族に伝えることをしていた。
そんなやりとりが為されていたある時のこと。
おじいちゃんから聞きたいことが他にあるだろう?聞かなくていいのか?と言われたことがあった。
家族に伝えるための情報は一通り聞いて、あとは特に聞きたいことはなかった。
特にないと答えると、その人とのことは聞かなくていいのか?という質問だった。
本気でその時も度肝を抜かれた。
死者の霊魂が何かを伝えてくるなんていうのもそもそも普通にありえない話だけれど、そこにさらにプラスして、一度も話題にしたことのないその人のことをあの世の世界の人の口から言われるなんて、どんな世界ですか?と思う。
当時は色々とぶっ飛んだことが満載すぎてあまりそれについて深く考えなかったけれど、今思うと誰かの存在をそんな風に霊的世界から伝えられるなんて普通にありえない。
ヒーラーさんとおじいちゃんだけじゃなく、初めてホロスコープ鑑定を受けた時の鑑定士さんからもその人のことを教えてもらった。
そんなにも第三者からあれやこれやと伝えられた人なんて他には誰もいないし、そうしたこと全てを思うと、やっぱりかなり特殊な関係の人なんだと思う。
3年前と同じ日の朝、新潟は雨が降っていた。
3年前ももし雨が降ったとするなら、あの日に起こったことは1つとして起こらなかったんだろうなぁと予想した。
天気さえも晴天でなければいけなくて、何ひとつずれてはいけないことたちが完璧に重なって、そして私の生きる世界にその人の存在を知らせてくれたんだなと思う。
3年前のその日は見事な晴天だった。
起きたことと青空がとても似合っていた。
その日だったと思うけれど、その人は日に焼けて、事務さんの1人から「〇〇ちゃん(その人のあだ名)焼けたね〜。言ってくれたら、日焼け止め塗ってあげたのに」と言われていた。
その会話やその内容がものすごく羨ましくて、そんなこと絶対に言えない自分が恨めしかった。
不思議だなぁと思う。
3年分の時間が経過して、色んな新しいものが人生に入り込んできて、今は当時とは違う日常に身を置いているのに、そんなこと微塵も感じさせないくらいに当時のことがありありと思い浮かぶし、そんなにも時間が経ったというのが信じられないくらいに、当時の景色や記憶が一瞬でよみがえる。
まさかあの日を境に色んなことが変わることも、1人の人が心の御守り的に存在してくれることも、何ひとつ想像できなかった。
魂の関係は、現実世界は悲しいくらいに交わらないけれど、心の中では御守り的に存在しうる、そういうものなのかもしれない。
色んな気持ちが去来する。
書きたいことや伝えたいことは他にもたくさんある。
あるはずなのに、上手く言葉が出てこない。
今ふと思った。
これをその人が読む時、その人の脳裏には何が浮かぶんだろう、って。
3年前のあの光景とか出てくるんだろうか。
幽霊社員並みに存在感のない私にどうやって気付いたのかは想像もつかないけれども、なんなら読んでも何も思い出せないかもしれないけれども…。
「私は幸せでした。」
今パッと出てきた言葉はそれだった。
思い出すことは何もなくても、読んでても「えー!そうだった?」みたいになっていても、もうそれは究極なんでも良くて。
そういうことじゃなくて、その時のことを思い出すと、私はいつの時も幸せ気分になれて、その時ももちろん幸せで、そしてその後も何百回何千回と思い出しては幸せになれるおいしい思いをしてきて。
そういうことを自然と積み重ねた3年だったんだと気付いた。
そりゃ不満もたくさんあるし、私は別にブログ要員を目指してるのでもないし、こんな訳の分からない関係?接点?を望んだつもりも1ミリもないけれども、それはそれとして、やっぱり当時のあの一瞬のやりとりはその時もその後もずっとずっと私を幸せな気持ちにさせてくれる、それには変わりない。
すごいマジックだった。
今、タイトルは何にしよう?と思った時に出てきたのが、青空とスニーカーの色だった。
魂の思い出図鑑みたいなのがあるとするなら、あの日の風景を私は青い空とその人の足元とで記憶に刻んだんだと思う。
だから、いつもどういうわけかその時の風景として、青空とスニーカーの色がポンと出てくる。
青空とスニーカーの色は、幸せの象徴になっている。
生きているうちに、サイドA(その人側)とサイドB(ブシマタだから私がB側)で、それぞれどんな風に景色が見えていたのか、シェアリングできたら面白いのになぁと思っている。
またスルーされても、自分の希望を口にするのは自由だから、私はあくまでも私スタイルで自分の希望を口にしていたい。
本気で互いのサイド話を交換したら面白いだろうになぁ…。
もちろんいつでも交換会ウェルカム!!!!!
2020年6月25日木曜日
たられば妄想
吉本ばななさんのエッセイを読んでいた時だったと思う。
そんなことが書いてあったのか、書いてあった内容から私が想像したのかは忘れたけれども、初めてのタイプのたられば妄想をした。
もし過去の自分が過去とは違う選択をした場合の苦しさを想像してみた。
ごはんに誘う、手紙を書く、書いたものを渡す。
これらをしたことで、とんでもない修行並みの重苦しい時間がやってきたし、相手の不快感なのかなんなのかを引き出して、さらには子ども並みの無視をされて、心がこれ以上ないくらいに折れて、色々散々な結果とそれに伴って心も大変なことになったはなったけれども、それは当初から予想していたもので、上手くいかなくてもその上手くいかないことを引き受けると決めて動いていた。
想像以上の心の折れ方だったし、相手の無視もこれまたこの世でこれ以上の打撃なんかありませんというくらいの破壊力で、私が覚悟していたさらに上を行き過ぎていた。
それでも、今となれば当時の選択はそれで良かったと思っているし、実際にもたらされた方の大変さの方は私はなんだかんだと引き受けることができていたんだなと本を読んで気付いた。
今気になって、その時に読んでいた部分をもう一度斜め読みしてみたけれど、本の中の言葉ではなく、そして本が引き金ということもなく、どういうわけか私は突然「たられば妄想」を始めたみたいだった。
話を戻す。
「もしごはんに誘わなかったら、もし手紙を書かなかったら、もし手紙を渡さなかったら」
現実とは反対のこちら側を選んだ時の想像をしてみた。
私はこれまでそちら側も想像したことがないわけではないけれども、いつもそれは苦しさを想像したのとは違っていた。
今回はそれらを選ばずにいた時の苦しさを想像した。
選ばずにいて、傷付くことはなかったかもしれないけれども、何も伝えなかった後悔をずっとずっと持ち続けることの方を初めてリアルに想像した。
話は少し変わるけれども、思い出した。
その少し前に、数日前に仕事であったことを思い出したんだった。
数日前、私は完全に嵌められて騙されたみたいな事態になって、私一人が上層部の怒りをひたすら受けるというとんでもない状況下にいた。
本当に必要な確認だったし、悪いことをしたのではなく周りの人たち人たちみんなの言葉を代弁しての話だったにも関わらず、なぜか不要かつ不本意な怒りを引き出して私にもろに当たるということになって、でもそれを知ってその人は私を上のところに1人に行かせたんだと知ったら、怒りも沸いたけれどもそれ以上に悲しかった。
そんな酷いことを自分が逃げるためとは言え、私にしてもいいって思ったわけで、顕在意識は知らなくても無意識のうちにその選択がその人の中で為されて、そんな風に軽くそして痛い状況に私一人を押しやってもいいと判断されたのが本当に悲しかった。
そんな時に朝ドラの台詞を思い出した。
主人公とソリの合わない弟浩二が母親に「母さんは父さんの何が良かったの?」みたいなことを聞いた。
母親である菊池桃子は名家から嫁いだ人で、何も道楽でお気楽すぎるそれ故に苦労も絶えない唐沢寿明のところに嫁がなくても他にも嫁ぐ場所なんかいくらでもあっただろうに…と浩二は思っての質問だった。
菊池桃子は答えた。
「たしかに父さんは騙されてばっかりだけれど、人を騙したことは一度もねえ。父さんは人に騙されることはあっても人を騙すことだけは絶対にしねえ。そういうところかな」
そんなセリフだったと思う。
仕事の時のことをそれに当てはめた時、私は騙されたけれども相手を騙したり窮地に追いやったのとは違うから、そちら側にならなくて良かったなぁと心底思った。
そんなことを思った時に、私は当時「伝える」ことを、それはすなわち「自分に正直になる」「自分に嘘をつかない」ことを選んで、それゆえの苦しさや傷はたしかにあったけれども、反対に伝えずに自分に嘘をついて何も言わず沈黙を通したとするなら、あの激情を抑え込んで生き続けることの方が実は辛かったんじゃないかと思った。
騙す騙されるとかいうのとは違うけれども、自分の意と反対のことを選んだとするなら、そちらの方が何十倍も私の場合は苦しかっただろうと思う。
何せダメ元で全ては動いていたから、相手の反応は想定通りと言えば想定通りだった。
それは想定内ゆえに最初から覚悟していたし、そうなるって本気で予想していたから、そこから生まれる色んなことも最初から引き受けると自分の中で決めていた。
でも反対の方を選んだとするなら、そうはならなかった。
ごはんに誘わなくてもそれは今となってはどちらでも良かったけれども、むしろ誘わないことで得られただろう最後まで良い空気だけをその人との間には保たれたと思うから、そちらはまだ私にとっても他の素敵な選択肢があったわけで、そちらはどちらも…という気持ちがある。
だけれど、誘ったことで無視されて、無視された翌々日には転勤を社内の人から知らされ、本当にどうにもこうにもならないと知った私は突然手紙を書き始めたわけだけれど、もし誘わなければ無視もされず、でもかと言って手紙は書かなかったと断言できる。
あれは究極の状況すぎて、今伝えなければ何も伝えられないと思っての苦肉の策だった。
本当に世にも不思議な手紙だったけれども、ラブレターみたいなロマンチックな雰囲気は全くなく、あんな手紙、私ももう生涯を通じて誰にも書かないと思う。
手紙がなければ伝えることももちろんしなかったし、そしてこんな風にブログも書かなかった。
とにかくあったこと全てをなかったことに私はしたと思う。
自分に嘘をついて、その嘘から生まれるやり場のない気持ちを、一生持ち続けたんだろうと思う。
自分に対する不信感と、そしておそらくだけれど魂側の打撃は半端なかったと思うから、それの方が心にも体にもきついものが来たんじゃないかと思う。
そちら側をもし引き受けたとするなら、私はそちらの方が現実にここまでやってきたことよりもきつかったし耐えられなかった気がする。
ごはんに誘ったり手紙を渡したりしなければ、たしかに無視もされず最後なんかはこれ以上ないくらいの笑顔で見送って相手からも可も不可もない笑顔くらいは返されたと思う。
けれども、代わりにこんな風にブログを書くこともなければ繋がりも見えず、そして後悔しまくったのではないかなと思う。
魂側の意に反するというのは、ものすごく打撃がある。
この3年ほどを見ていたらわかる。
魂の意に反すると、私の場合はわかりやすいくらいに体や心に絶不調という名の不具合が、それも長いこと寝込まないといけないくらいの不調に襲われるからすぐにわかる。
その人に何かを伝えるのは、人間としてというより魂が輪廻転生してまで果たしたかったもので、それを無視なんかした日にはものすごく大変なことになっていたんじゃないかなと予想している。
「なくしちゃいけないもの」
2020年下半期の魚座のしいたけ占いに出てきた言葉。
私がこの3年間必死に守ろうとしていたのが何かわかった。
その人の存在というのは本当に不思議だったし、今もどの立ち位置にあるかなんて上手いこと言葉では説明できない。
だけど、少なくともいつのどんな時も私の中にいて、私にとっては生きるモチベーションで、さらには神仏のごとく困った状況になるといつもその人に向かって「助けて!」と謎のヘルプを無意識に飛ばして、救いの手を求めた。
実におかしなことをしているし、自分でも時々「変なの」と思っている。
その人との間に起こったことの話を他の人に良くは言われないと、私はめちゃくちゃに怒った。
悪くも言わないけれど、良くも言われない、むしろダメ出しかそんなことってある?みたいな否定的意味合いの問いかけをぶつけられたりもした。
その人と私は何でもないし連絡さえ取れないのにこんなこと言ってどれだけ痛い人なのかとも思うけれども、それでもやっぱり私はその人のことがとても大切でその人のいたひと夏の時間は他に代えられない、一生大事に心の中にしまっておきたいものになっている。
結局死ぬまでの間にもう一度会えなかったとしても、「いつか会えたらいいな」という気持ちを持つことが私の明日への命を繋ぐもので、強烈に辛いことや痛ましいことがあっても、それでも次の一歩を踏み出す時にその人の存在が必ずある。
その人がいてくれる、ただそれだけのことが私の中の大事な何かに繋がっている。
「なくしちゃいけないもの」
その言葉を見て、真っ先に今書いたようなことを思った。
たられば妄想をしても仕方ないけれど、もし私がブログを書かなかったとするなら今はどうなっていたんだろう…。
今でこそすごい速さでiPhone越しに文字を打ち込んでいるけれども、元々はパソコンで打って、USBに入れて、ネットカフェに行ってアップしていた。
そんな面倒をしてまでアップしていたのは、今だってiPhoneで文字を入れてアップしていると言うと周りに驚かれるけれど(と言っても、2人ないし3人ほどにしか言ったことない)、とにかくその手間暇をいとわずにやるのは、その人がいるからに他ならない。
元々長文を綴るクセはあったけれども、その人が現れるまで私は1年半近くブログを書かなかった。
困ることもなければ、もうこのまま再開しない気がしていた。
そろそろ再開して3年になるけれど、まさかその人がいつからかずっとチェックしてくれるなんて思ってもいなかった。
奇妙なやりとり?やりとりとも呼ばない、ある意味常に平行線で交わらないものだけれど、それでもそんな未来は1ミリも私は想像せずに始めたことだった。
私は、当時の私は、ミクロの可能性に賭けた。
そしてそれは今だから言えるけれども、そのミクロの普通に考えたら絶対に起こらないことに対して起こるかもしれないと思ったのは、「もしその人と私とが魂的な繋がりが本当にあるとするなら…」という、全く根拠ともならない根拠を思って賭けてみた。
魂的な繋がりだとするなら、ブログの存在に気付いてもらうこともブログが読まれることもブログを通じて何かしら繋がることも可能なんじゃないかと仮説を立てた。
やってもやらなくても変わらないのなら、やってダメな方が自分も納得できると思った。
あんなにも嫌そうにしていたから、見ることなんか絶対にないだろうというのも思っていた。
だからブログを書くことはそんなにハードル高くはなくても、本当にその人が見てくれるなんてのは全く想像できなかった。
書かなければ永遠に可能性はゼロでも書けば可能性がゼロ%ではなくなるよね?という程度の話で、そのミクロみたいな可能性を私が本気で信じたのかと言えば、それは信じたい気持ちは100%あっても起こるだろうと予想する気持ちはゼロ%だった。
もしブログを再開せずにいたとするなら、3年前の秋になったばかりのまだ半袖を着ていた日に、本当にすべてが終わったと思う。
その人は思いっきり私に背中を向けていたけれども、その背中を向けて全力で拒否しますみたいな最後の姿は今でもはっきりと覚えている。
その人の世界の中でどんな風に私がいたのかは知らないけれども、私は少なくとも後ろ髪引かれる思いで最後の姿を拝んでその場を後にした。
その人側は2年なり3年勤めた場所だから、そういう意味でその風景を見たとしても、その中に私がいるかいないかなんて関係なかっただろうと思う。
もっともその人の席からは私の席は見えない位置にあったから、私がいてもいなくても風景的にさほど差はなかったと思う。
そんな風にしか思えなかったから、だからこそブログがその人と繋がるツールになるとは思わなかった。
これがドラえもんとドラミちゃんがテレビ電話をしていて「そんなすごい道具があるんだ〜」と子どもの時に思ったような時代背景なら、その人がいなくなった時が最後になったと思う。
今みたいにネットが当たり前にあって、個人もブログを書けるからこそ、こういう手段に頼れる。
未だに不思議な感じがするけれども、何はともあれ繋がることができて本当に良かった。
「繋がる」と書いていて違和感があるけれども、便宜上ここではそう書く。
ここでも書かない選択を想像してみたい。
ブログを書くことは、本当に1つとしてボタンが掛け違ってはいけないことだった。
1つでも現実の出来事が違っていたのなら、間違いなく私はブログを書くことはなかった。
今思えば、ブログ以外には手段がなかったから消去法的にブログになったけれども、何て言うのだろう…、反対に何もせずなんとなくいいなぁぐらいに思う程度であれば私は最後まで静かにして送別会もがんばって参加して、とりあえずニコニコして、本当に一言二言だけ言葉を交わして最後の時を迎えたように思う。
そんな風ならブログは100%書かなかったと断言できる。
書かなくても困らなかったし、何か追加で伝えたいとかいうのも思わなかった。
ブログを書くことになる流れの中には、その人のこの上ない無視や拒絶感が大きく貢献していて、っていうかよくそんな中で書いたなと思うけれども、とにかく色々誤解されたり勘違いされたくなかった。
せめて本当のことをそのまま書きたかった。
今でもあの時の自分はとても動物的だなと思うけれども、とにかくひたすら言葉を綴った。
自分の中から出てくるままに書いた。
ということを一切せずに今を迎えたとするなら、こんな風にブログという場所でその人はその人のペースで私を知ってくれることもなかったんだなと改めて思った。
本当のところの目的は知らないし、読んだからと言って何がどうなるということもない。
でも書かない場合の現実が今あるとするなら、全く違った今だし、そしてその人のことは私の中でも違う風に残る、少なくとも今みたいに心の支えみたいな存在とは違ったんじゃないかなと思う。
迷惑万雷みたいな話だけれど、その人が心の中心にいることで私はどこかでいつも心強くいられるし、心のお守り的になっているところがある。
逆に会っていたとするなら、迷惑がられて追加で心が折れたかもしれないけれど、こんな不思議な形で自分の思っていることを吐き出せて、そしてその吐き出したものをその人の目に触れてもらうなんてことは起こらなかったと思う。
まさかブログが私にとっての救いの道具になるとは思ってもみなかった。
すごい繋がり方とすごい可能性の上に成り立っている話だけれど、この3年近い時間はその人の存在なくしては本当にありえなかった時間だった。
表立っては何もなくひたすら「無」の時間だったけれども、それでも私はこんな風に繋がれて?とにかく何かしらの接点が持てたのは本当に今でもとても嬉しいこととして受け止めている。
しかも私が無理なくやれることで接点を持てたのは大きい。
これが書くことがそもそも苦手とかならこんな風にはならなかったわけで、私はただただ出てくるままに書くだけだから、最初こそかなりの勇気が必要だったけれども、今は書きたい時に書きたいように書けている。
その書く行為がその人と繋がると思うと、もっと書くことそのものが特別な立ち位置になる。
書くことでその人と繋がれる、「無」から「有」になれるのはとてつもなく大きい。
形がユニークすぎても、もはや何でもいい。
「たられば妄想」として書き始めたけれども、何日にも渡って書いていたら、色々と変わってしまった。
もはや何の話なのかも着地点が見えなくなってきた。
着地点は見失ったままでも、その人とどんな形でも接点を持ちたいとか、自分の思っていることや感じていることを伝えたいのは変わらない。
先々なんてわからないから、とにかく今の今感じていることを大事にしていきたいと、書いていて改めて思った。
まだいた頃に、なんとか個人的にやりとりしてみたい!ってなったのが最終的にごはんに誘うというとんでもなくハードルの高いものになって(男友達と当時仲良くしていた子の旦那さんのアドバイスだった)、それが不発となって無視されたことで何とか本当のところを伝えたいというのが手紙になって、そして色々書けなかったことや新たに出てきたものを目に見えない可能性に賭けて発信してみようと試みたのがこのブログになった。
その時その時なんか全く先の見通しもなければどうなるかどれ1つわからないものばかりだったけれども、そして結果は思わしくないもの満載だったけれども、それでもその時その時の気持ちを最優先できて良かった。
もうここまで来たから、私は自分の気が済むまでブログから発信することは続けようと思っている。
そして、それが何にも繋がらなくても、唯(ただ)一つ、自分の気持ちを大事にしたことだけは残るから、それはそれでいいかと今は思う。
自分を大事にすることは、その人の出現によってできるようになったことの1つになっている。
その人と出逢った大きな目的の1つは、自分を知って自分を大事にすることなのかもしれない。
釈然とはしないけれども、私の叶って欲しいこととは違うことだけれども、それでも確実に変わったのはそこだと断言できる。
これからも窮地に立てば心の中で「助けて!」となるだろうし、その人がブログチェックする以上に私はブログそのものの閲覧歴チェックをするだろうし。
生きているうちに本当にもう一度会えるなら、私の人生はスーパー御の字になる。
それを夢見て、また引き続きたられば妄想もブログを書くことも続ける予定。
そんなことが書いてあったのか、書いてあった内容から私が想像したのかは忘れたけれども、初めてのタイプのたられば妄想をした。
もし過去の自分が過去とは違う選択をした場合の苦しさを想像してみた。
ごはんに誘う、手紙を書く、書いたものを渡す。
これらをしたことで、とんでもない修行並みの重苦しい時間がやってきたし、相手の不快感なのかなんなのかを引き出して、さらには子ども並みの無視をされて、心がこれ以上ないくらいに折れて、色々散々な結果とそれに伴って心も大変なことになったはなったけれども、それは当初から予想していたもので、上手くいかなくてもその上手くいかないことを引き受けると決めて動いていた。
想像以上の心の折れ方だったし、相手の無視もこれまたこの世でこれ以上の打撃なんかありませんというくらいの破壊力で、私が覚悟していたさらに上を行き過ぎていた。
それでも、今となれば当時の選択はそれで良かったと思っているし、実際にもたらされた方の大変さの方は私はなんだかんだと引き受けることができていたんだなと本を読んで気付いた。
今気になって、その時に読んでいた部分をもう一度斜め読みしてみたけれど、本の中の言葉ではなく、そして本が引き金ということもなく、どういうわけか私は突然「たられば妄想」を始めたみたいだった。
話を戻す。
「もしごはんに誘わなかったら、もし手紙を書かなかったら、もし手紙を渡さなかったら」
現実とは反対のこちら側を選んだ時の想像をしてみた。
私はこれまでそちら側も想像したことがないわけではないけれども、いつもそれは苦しさを想像したのとは違っていた。
今回はそれらを選ばずにいた時の苦しさを想像した。
選ばずにいて、傷付くことはなかったかもしれないけれども、何も伝えなかった後悔をずっとずっと持ち続けることの方を初めてリアルに想像した。
話は少し変わるけれども、思い出した。
その少し前に、数日前に仕事であったことを思い出したんだった。
数日前、私は完全に嵌められて騙されたみたいな事態になって、私一人が上層部の怒りをひたすら受けるというとんでもない状況下にいた。
本当に必要な確認だったし、悪いことをしたのではなく周りの人たち人たちみんなの言葉を代弁しての話だったにも関わらず、なぜか不要かつ不本意な怒りを引き出して私にもろに当たるということになって、でもそれを知ってその人は私を上のところに1人に行かせたんだと知ったら、怒りも沸いたけれどもそれ以上に悲しかった。
そんな酷いことを自分が逃げるためとは言え、私にしてもいいって思ったわけで、顕在意識は知らなくても無意識のうちにその選択がその人の中で為されて、そんな風に軽くそして痛い状況に私一人を押しやってもいいと判断されたのが本当に悲しかった。
そんな時に朝ドラの台詞を思い出した。
主人公とソリの合わない弟浩二が母親に「母さんは父さんの何が良かったの?」みたいなことを聞いた。
母親である菊池桃子は名家から嫁いだ人で、何も道楽でお気楽すぎるそれ故に苦労も絶えない唐沢寿明のところに嫁がなくても他にも嫁ぐ場所なんかいくらでもあっただろうに…と浩二は思っての質問だった。
菊池桃子は答えた。
「たしかに父さんは騙されてばっかりだけれど、人を騙したことは一度もねえ。父さんは人に騙されることはあっても人を騙すことだけは絶対にしねえ。そういうところかな」
そんなセリフだったと思う。
仕事の時のことをそれに当てはめた時、私は騙されたけれども相手を騙したり窮地に追いやったのとは違うから、そちら側にならなくて良かったなぁと心底思った。
そんなことを思った時に、私は当時「伝える」ことを、それはすなわち「自分に正直になる」「自分に嘘をつかない」ことを選んで、それゆえの苦しさや傷はたしかにあったけれども、反対に伝えずに自分に嘘をついて何も言わず沈黙を通したとするなら、あの激情を抑え込んで生き続けることの方が実は辛かったんじゃないかと思った。
騙す騙されるとかいうのとは違うけれども、自分の意と反対のことを選んだとするなら、そちらの方が何十倍も私の場合は苦しかっただろうと思う。
何せダメ元で全ては動いていたから、相手の反応は想定通りと言えば想定通りだった。
それは想定内ゆえに最初から覚悟していたし、そうなるって本気で予想していたから、そこから生まれる色んなことも最初から引き受けると自分の中で決めていた。
でも反対の方を選んだとするなら、そうはならなかった。
ごはんに誘わなくてもそれは今となってはどちらでも良かったけれども、むしろ誘わないことで得られただろう最後まで良い空気だけをその人との間には保たれたと思うから、そちらはまだ私にとっても他の素敵な選択肢があったわけで、そちらはどちらも…という気持ちがある。
だけれど、誘ったことで無視されて、無視された翌々日には転勤を社内の人から知らされ、本当にどうにもこうにもならないと知った私は突然手紙を書き始めたわけだけれど、もし誘わなければ無視もされず、でもかと言って手紙は書かなかったと断言できる。
あれは究極の状況すぎて、今伝えなければ何も伝えられないと思っての苦肉の策だった。
本当に世にも不思議な手紙だったけれども、ラブレターみたいなロマンチックな雰囲気は全くなく、あんな手紙、私ももう生涯を通じて誰にも書かないと思う。
手紙がなければ伝えることももちろんしなかったし、そしてこんな風にブログも書かなかった。
とにかくあったこと全てをなかったことに私はしたと思う。
自分に嘘をついて、その嘘から生まれるやり場のない気持ちを、一生持ち続けたんだろうと思う。
自分に対する不信感と、そしておそらくだけれど魂側の打撃は半端なかったと思うから、それの方が心にも体にもきついものが来たんじゃないかと思う。
そちら側をもし引き受けたとするなら、私はそちらの方が現実にここまでやってきたことよりもきつかったし耐えられなかった気がする。
ごはんに誘ったり手紙を渡したりしなければ、たしかに無視もされず最後なんかはこれ以上ないくらいの笑顔で見送って相手からも可も不可もない笑顔くらいは返されたと思う。
けれども、代わりにこんな風にブログを書くこともなければ繋がりも見えず、そして後悔しまくったのではないかなと思う。
魂側の意に反するというのは、ものすごく打撃がある。
この3年ほどを見ていたらわかる。
魂の意に反すると、私の場合はわかりやすいくらいに体や心に絶不調という名の不具合が、それも長いこと寝込まないといけないくらいの不調に襲われるからすぐにわかる。
その人に何かを伝えるのは、人間としてというより魂が輪廻転生してまで果たしたかったもので、それを無視なんかした日にはものすごく大変なことになっていたんじゃないかなと予想している。
「なくしちゃいけないもの」
2020年下半期の魚座のしいたけ占いに出てきた言葉。
私がこの3年間必死に守ろうとしていたのが何かわかった。
その人の存在というのは本当に不思議だったし、今もどの立ち位置にあるかなんて上手いこと言葉では説明できない。
だけど、少なくともいつのどんな時も私の中にいて、私にとっては生きるモチベーションで、さらには神仏のごとく困った状況になるといつもその人に向かって「助けて!」と謎のヘルプを無意識に飛ばして、救いの手を求めた。
実におかしなことをしているし、自分でも時々「変なの」と思っている。
その人との間に起こったことの話を他の人に良くは言われないと、私はめちゃくちゃに怒った。
悪くも言わないけれど、良くも言われない、むしろダメ出しかそんなことってある?みたいな否定的意味合いの問いかけをぶつけられたりもした。
その人と私は何でもないし連絡さえ取れないのにこんなこと言ってどれだけ痛い人なのかとも思うけれども、それでもやっぱり私はその人のことがとても大切でその人のいたひと夏の時間は他に代えられない、一生大事に心の中にしまっておきたいものになっている。
結局死ぬまでの間にもう一度会えなかったとしても、「いつか会えたらいいな」という気持ちを持つことが私の明日への命を繋ぐもので、強烈に辛いことや痛ましいことがあっても、それでも次の一歩を踏み出す時にその人の存在が必ずある。
その人がいてくれる、ただそれだけのことが私の中の大事な何かに繋がっている。
「なくしちゃいけないもの」
その言葉を見て、真っ先に今書いたようなことを思った。
たられば妄想をしても仕方ないけれど、もし私がブログを書かなかったとするなら今はどうなっていたんだろう…。
今でこそすごい速さでiPhone越しに文字を打ち込んでいるけれども、元々はパソコンで打って、USBに入れて、ネットカフェに行ってアップしていた。
そんな面倒をしてまでアップしていたのは、今だってiPhoneで文字を入れてアップしていると言うと周りに驚かれるけれど(と言っても、2人ないし3人ほどにしか言ったことない)、とにかくその手間暇をいとわずにやるのは、その人がいるからに他ならない。
元々長文を綴るクセはあったけれども、その人が現れるまで私は1年半近くブログを書かなかった。
困ることもなければ、もうこのまま再開しない気がしていた。
そろそろ再開して3年になるけれど、まさかその人がいつからかずっとチェックしてくれるなんて思ってもいなかった。
奇妙なやりとり?やりとりとも呼ばない、ある意味常に平行線で交わらないものだけれど、それでもそんな未来は1ミリも私は想像せずに始めたことだった。
私は、当時の私は、ミクロの可能性に賭けた。
そしてそれは今だから言えるけれども、そのミクロの普通に考えたら絶対に起こらないことに対して起こるかもしれないと思ったのは、「もしその人と私とが魂的な繋がりが本当にあるとするなら…」という、全く根拠ともならない根拠を思って賭けてみた。
魂的な繋がりだとするなら、ブログの存在に気付いてもらうこともブログが読まれることもブログを通じて何かしら繋がることも可能なんじゃないかと仮説を立てた。
やってもやらなくても変わらないのなら、やってダメな方が自分も納得できると思った。
あんなにも嫌そうにしていたから、見ることなんか絶対にないだろうというのも思っていた。
だからブログを書くことはそんなにハードル高くはなくても、本当にその人が見てくれるなんてのは全く想像できなかった。
書かなければ永遠に可能性はゼロでも書けば可能性がゼロ%ではなくなるよね?という程度の話で、そのミクロみたいな可能性を私が本気で信じたのかと言えば、それは信じたい気持ちは100%あっても起こるだろうと予想する気持ちはゼロ%だった。
もしブログを再開せずにいたとするなら、3年前の秋になったばかりのまだ半袖を着ていた日に、本当にすべてが終わったと思う。
その人は思いっきり私に背中を向けていたけれども、その背中を向けて全力で拒否しますみたいな最後の姿は今でもはっきりと覚えている。
その人の世界の中でどんな風に私がいたのかは知らないけれども、私は少なくとも後ろ髪引かれる思いで最後の姿を拝んでその場を後にした。
その人側は2年なり3年勤めた場所だから、そういう意味でその風景を見たとしても、その中に私がいるかいないかなんて関係なかっただろうと思う。
もっともその人の席からは私の席は見えない位置にあったから、私がいてもいなくても風景的にさほど差はなかったと思う。
そんな風にしか思えなかったから、だからこそブログがその人と繋がるツールになるとは思わなかった。
これがドラえもんとドラミちゃんがテレビ電話をしていて「そんなすごい道具があるんだ〜」と子どもの時に思ったような時代背景なら、その人がいなくなった時が最後になったと思う。
今みたいにネットが当たり前にあって、個人もブログを書けるからこそ、こういう手段に頼れる。
未だに不思議な感じがするけれども、何はともあれ繋がることができて本当に良かった。
「繋がる」と書いていて違和感があるけれども、便宜上ここではそう書く。
ここでも書かない選択を想像してみたい。
ブログを書くことは、本当に1つとしてボタンが掛け違ってはいけないことだった。
1つでも現実の出来事が違っていたのなら、間違いなく私はブログを書くことはなかった。
今思えば、ブログ以外には手段がなかったから消去法的にブログになったけれども、何て言うのだろう…、反対に何もせずなんとなくいいなぁぐらいに思う程度であれば私は最後まで静かにして送別会もがんばって参加して、とりあえずニコニコして、本当に一言二言だけ言葉を交わして最後の時を迎えたように思う。
そんな風ならブログは100%書かなかったと断言できる。
書かなくても困らなかったし、何か追加で伝えたいとかいうのも思わなかった。
ブログを書くことになる流れの中には、その人のこの上ない無視や拒絶感が大きく貢献していて、っていうかよくそんな中で書いたなと思うけれども、とにかく色々誤解されたり勘違いされたくなかった。
せめて本当のことをそのまま書きたかった。
今でもあの時の自分はとても動物的だなと思うけれども、とにかくひたすら言葉を綴った。
自分の中から出てくるままに書いた。
ということを一切せずに今を迎えたとするなら、こんな風にブログという場所でその人はその人のペースで私を知ってくれることもなかったんだなと改めて思った。
本当のところの目的は知らないし、読んだからと言って何がどうなるということもない。
でも書かない場合の現実が今あるとするなら、全く違った今だし、そしてその人のことは私の中でも違う風に残る、少なくとも今みたいに心の支えみたいな存在とは違ったんじゃないかなと思う。
迷惑万雷みたいな話だけれど、その人が心の中心にいることで私はどこかでいつも心強くいられるし、心のお守り的になっているところがある。
逆に会っていたとするなら、迷惑がられて追加で心が折れたかもしれないけれど、こんな不思議な形で自分の思っていることを吐き出せて、そしてその吐き出したものをその人の目に触れてもらうなんてことは起こらなかったと思う。
まさかブログが私にとっての救いの道具になるとは思ってもみなかった。
すごい繋がり方とすごい可能性の上に成り立っている話だけれど、この3年近い時間はその人の存在なくしては本当にありえなかった時間だった。
表立っては何もなくひたすら「無」の時間だったけれども、それでも私はこんな風に繋がれて?とにかく何かしらの接点が持てたのは本当に今でもとても嬉しいこととして受け止めている。
しかも私が無理なくやれることで接点を持てたのは大きい。
これが書くことがそもそも苦手とかならこんな風にはならなかったわけで、私はただただ出てくるままに書くだけだから、最初こそかなりの勇気が必要だったけれども、今は書きたい時に書きたいように書けている。
その書く行為がその人と繋がると思うと、もっと書くことそのものが特別な立ち位置になる。
書くことでその人と繋がれる、「無」から「有」になれるのはとてつもなく大きい。
形がユニークすぎても、もはや何でもいい。
「たられば妄想」として書き始めたけれども、何日にも渡って書いていたら、色々と変わってしまった。
もはや何の話なのかも着地点が見えなくなってきた。
着地点は見失ったままでも、その人とどんな形でも接点を持ちたいとか、自分の思っていることや感じていることを伝えたいのは変わらない。
先々なんてわからないから、とにかく今の今感じていることを大事にしていきたいと、書いていて改めて思った。
まだいた頃に、なんとか個人的にやりとりしてみたい!ってなったのが最終的にごはんに誘うというとんでもなくハードルの高いものになって(男友達と当時仲良くしていた子の旦那さんのアドバイスだった)、それが不発となって無視されたことで何とか本当のところを伝えたいというのが手紙になって、そして色々書けなかったことや新たに出てきたものを目に見えない可能性に賭けて発信してみようと試みたのがこのブログになった。
その時その時なんか全く先の見通しもなければどうなるかどれ1つわからないものばかりだったけれども、そして結果は思わしくないもの満載だったけれども、それでもその時その時の気持ちを最優先できて良かった。
もうここまで来たから、私は自分の気が済むまでブログから発信することは続けようと思っている。
そして、それが何にも繋がらなくても、唯(ただ)一つ、自分の気持ちを大事にしたことだけは残るから、それはそれでいいかと今は思う。
自分を大事にすることは、その人の出現によってできるようになったことの1つになっている。
その人と出逢った大きな目的の1つは、自分を知って自分を大事にすることなのかもしれない。
釈然とはしないけれども、私の叶って欲しいこととは違うことだけれども、それでも確実に変わったのはそこだと断言できる。
これからも窮地に立てば心の中で「助けて!」となるだろうし、その人がブログチェックする以上に私はブログそのものの閲覧歴チェックをするだろうし。
生きているうちに本当にもう一度会えるなら、私の人生はスーパー御の字になる。
それを夢見て、また引き続きたられば妄想もブログを書くことも続ける予定。
2020年6月22日月曜日
㉒【おいせさん手帳】小さな声たち
2020 紫陽花
おいせさん手帳第22回目
担当:ノム
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
6月22日
自分の中の、もっとも繊細な部分を大切に。
太陽が蟹座へ
昨日の双子座の新月を経て、本日より蟹座の始まり。
日々の出来事をいつも以上に繊細に“感じる”ひと月となるかもしれません。
自分の中にいる、幼子のようにナイーブな部分を意識してみましょう。
“最も傷つきやすい私”は今どう感じている? どんな場所で過ごしたい?
心に耳を澄ませれば、その答えは必ずやってきます。その小さな声を大切に!
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「自分の中の、もっとも繊細な部分」と聞いて、それぞれの人は何を思い浮かべるんだろう…。
“最も傷つきやすい私”
その私こそが自分にとっての一番大切なものや一番の正解を教えてくれる存在だと私は思っている。
ちなみに今は夜の9時7分。
今月ってあとおいせさん手帳ってなかったんだったかな…?と思って見てみたら、今日だった(驚)!
すべて思うがままにに書き進めてみようと思う。
今回のノムのメッセージを読んで、実は真っ先に目に飛び込んできたのは「小さな声」だった。
「小さな声」は本当に慣れるまで相当拾いにくい。
例えばこんな風。
友達と会う約束をしていたとする。
「なんか会うの面倒になって行きたくないな」と小さな声的な気持ちは思う。
だけどそれを掻き消す勢いで
「いやいや、前々から約束していたから行かないわけにいかないでしょ」
「どう言い訳して行かないことにするの?」
「行かないなら行かないで、次の約束をどう切り出すの?」
とか、まぁ次から次へと色々出てくる。
そのうち、「面倒だから行きたくない」という率直で素直な自分の気持ちさえも忘れてしまって、とりあえず支度して行ったりする。
これは行かないのも行くのも別にどちらが正解で不正解とかはないと思う。
ただ、「行きたくない」とか「面倒くさい」という自分の気持ちを聞けたのと無視したのとでは全く予後が違う。
自分操縦法じゃないけれど、自分自身をこじらせるのが一番面倒くさい。
行くにしても断るにしても自分のことを動かさないといけない。
ある時から私は、人の機嫌よりも自分の機嫌をとることの重要さに気付いた。
とにかく1にも2にも自分を何かしら動かさないといけない。
そうした時の一番のコツは、自分の機嫌をとること。
どういう選択をするにしても、自分自身の声をきちんと聞いたかどうかでずいぶんと違ってくる。
例えばこれが「行きたくない仕事」ならもっとわかりやすい。
行きたくなくても行かないといけない時、「おまえ何グズグスしてんだよ!」って自分に吠えるより、「自分がんばってるね」と寄り添う方が私なんかはがんばれる。
そこは反対の人もいるだろうから、より自分に合う方法を各自が選べばいいと思うけれども、どちらにしても自分の生の声をそのまままずは黙って聞くことが何よりも自分を受け止める大きな一歩だと私なんかは思っている。
小さな声は常に小さいし弱々しいし主張力も低い。
だけど必死で訴えてはいる。
その声を拾ってくれるまでずっとあきらめずに訴え続けてくる。
「したくない」とか「あの人ムカつく」とか「何それが誰それが許せない」とか「すべてイヤー」とか、そういう負のエネルギーに満ち満ちている自分の声を聞くようになると、少しずつ何かしら化学変化のような変化が起きてくる。
どんな自分も自分なんだから、その自分を否定しないでいると、とりあえず自分との居心地は良くなってくる。
「小さな声」っていうのは、基本的に面倒くさい自分だったり、怒りんぼな自分だったり、意地汚いことを考える自分だったり、言い訳ばかり並び立てる自分だったり、ビビリな自分だったり、弱々しい自分だったり…、とにかく色々と受け入れ難い自分の場合が多いけれど、その自分も全部含めて自分なんだよね…というのが腑に落ち始めた頃から、その分だけ生きやすさが増したように感じている。
とにかくそういう自分を少しでも多く大事にできるようになりたいなぁと、年を重ねれば重ねるほど思うようになってきた。
追記:今回が22回目で、22日で、さらに22:22にアップするという、ゾロ目祭りな感じの足並みが揃うのがなんだか嬉しい。
2020年6月20日土曜日
2020夏至の前
色んなみどりたち
久しぶりに3年前に必死で探し求めた情報のネットサーフィンをした。
当時は毎日暇さえあれば検索していて、全身全霊をかけて情報を探し求めていたと言っても過言じゃない。
とにかく何でもいいからヒントが欲しかった。
ヒントや情報を手にしたからと言って、現実世界が変わるわけでも私の望みが叶うわけでもなかったけれど、それでも私は情報を求めた。
当時の自分を思い出しながら今の自分との差に気付いた。
当時はものすごく知りたがっていた。
相手が何を思って何を感じていたのかを知りたかった。
どんな些細な情報でもいい、どんな風に感じてどんな風に見えていたのか、本当の本当に全部が嫌だったのか、そういう色んなことを知りたかった。
3年くらい経つ中で私の中が変化した。
相手がどうかというのは、あんまり気にならなくなった。
気にしてもしょうがないというのも勿論あるけれど、相手がどうであろうと私は何も変わらないってわかったら、それはどちらでもいい…、そんな風になってきた。
相手にとって私が何でもなくても、はたまた嫌われていても、たとえ無関心であっても、私の中の気持ちが動いたことには変わりなくて、あんなにも日々忙しく心が動いたり感動したりした時は後にも先にもない。
そして、あんなにも全力で自分が生きていること、そして相手も同じ時代の同じ空間に生きていることに感動しまくりな日々もなかったから、それは今でもとっても特別なことだったと思っている。
そういう私側のものは、外のことがどうであろうと何も変わらないってわかったから、だから同じような情報を画面越しに見ていても自分の感覚がまるで違うことに気付いた。
私は私なりに自分の扱い方と自分の気持ちとの接し方と色んなことに対する距離感みたいなのを会得した3年だったと思う。
2、3日前の仕事中のこと。
部長の逆鱗に触れたのか、私は怒りを引き出したみたいだった。
ちなみに言うと、百歩譲って、正社員の人ではなく派遣の私が質問・お願いをしたからスーパー不機嫌を引き出したかもしれないけれど、私は何一つ間違ったことを尋ねたわけでもお願いしたわけでもない。
現実に不可能なスタイルの資料作成が今後出てくると知ったから、それに対しての作り方の指針を出して欲しいというのをお願いした。
それも、人によって指示がまちまちなのは本当に困るから、関係者各位できちんと共通の指針を出して欲しいと。
こんなのは私が本来言う立場にないのも百も承知で、でも肝心の正社員の人は傍観と陰で愚痴愚痴言うだけだから、そして今回はその作成が私に降ってきそうだからこそ、私は言いに行った。
冗談抜きで丸2日その作成につい最近かかって、なんならこれまでの総時間数は軽く1週間以上はかかっていて、そんなのをまた指針変更しまくりで上の意見に毎回振り回されるのは真っ平ごめんで、そしてその手の資料が今後も半永久的に不定期に作られるから、それでお願いに行った。
上の意見は部門によって全然違うから、しかも今回話を出した上の人以外は特段そのことに配慮して言ってるのとは全く違うから、それでその配慮して言ってる人に沿うのは私は全くいとわないけれども、それならそうとその基本線をその他の人たちにもきちんと共有して欲しくて、それでお願いしたものだった。
(ちなみに、後からわかったけれども、多分嵌められたと思う、今回だけは。私が必要があれば確認もお願いも普通にやっちゃう人と知って、だけど自分はそれができないから私1人を動かして、最終的に武士俣意見のようになって話が動いていて、ものすごく気分が悪かった。もちろん私個人の意見じゃなくて、関係者共通の意見・お願いだったけれども…)
そんなやりとりの最中、とにかく何か部長の怒りを引き出す結果になって(ちなみに部長も上から相当つつかれてる案件だから、余計虫の居所が悪すぎたと思う)、その後私はしばらくガクブルと本当に体が震えて止まらなかった。
あまりにも受けた怒りの感触が強すぎて、席に戻ってから30分くらい冗談抜きで何もできなくて、仕事してるフリして、ひたすら深呼吸と自分に大丈夫と言い続けた。
その後他の人に質問に行かないといけなくて、その人は温和な人だしいつも通りだったけれども、それでも私はずっと足がガクガクと震えていて、久しぶりに本当にモロに体が反応するくらい、怖くて恐ろしくて、体の中から怖かったり1人で向かうことの心細さだったり、そういうのが噴出しまくりだった。
関係ないけれど、男の人たちってこういう感覚をどう処理しているんだろう?と思った。
部長は時々それをするから、他の人たちも当然その圧力的な空気を受ける。
みんなどうやってこの本気のガクブル感に対応して落ち着かせているんだろう…とまだまだ震えが止まらない私はそんなことも思った。
前置きがうんと長すぎたけれど、しばらくしてから私は気付いた。
3年前のある時、私はその人に仕事の伝言に行った。
ごはんを誘った後で何の返事もなくとても気まずかったけれども、仕事の伝言ゆえにやらないわけにもいかず、それでその人に言いに行った。
その時の自分の感覚を思い出した。
部長の圧力的な空気とは違ったけれど、その人もその人で怒りなのか不快感なのか、無視を決め込んでいて、とにかく私がそこにいて話しているのに、まるで私は存在もしていなくて独り言を喋っている人みたいになっていた。
心は一瞬でボキボキと折れまくった。
その時のことを思い出してわかった。
今回の部長とのやりとりは、恐怖なのか心細さなのか、とにかく体にモロに来たけれども、その人の時は体ではなく完全に心が傷みまくっていた。
心が本当に泣いていた、そういう反応だった。
部長の件は嫌だったけれども、心は大丈夫というかダメージはないと言っても良かった。
その人の時は、体もすごく反応して一瞬でズドンと重しが載せられて身体中が悲しみに包まれる感覚はあったけれども、それ以上に心がズタズタだった。
今書いてて思い出したけれど、今の仕事で用事があって席まで行って話しかけているのに、私の方を見なかったり、一瞥だけして耳だけ聞いてる風にする人たちに時々当たる。
毎回失礼だなという感覚よりも、それをされるとショックな気持ちが最初に湧く。
用事があるから席まで行って話しかけてるのにな…と思う。
私はショックな気持ちにそんなには興味を持ってなかったけれども、今書いてて気付いたのは、そのショックな反応はその人とのやりとりが発端なんだということ。
毎回チクリと胸が痛む感覚は、その時の感覚の名残りだと思う。
これまで無意識のうちにその感覚を思い出していたんだろうなぁと思う。
でも今書いてて同時に思った。
もし今度誰かにそれをされた時は、その人のことを思い出そうって。
それをする人たちに1ミリもテンションは上がらないけれども、そこにその人の姿を重ねたらまた何か違う発見がありそうだし、こうやって書いてて楽しみにさえなってきた。
そんなことされても嬉しくはないことには変わりないけれども、その人をそうやって思い出すのはありだなと思う。
そして、それを思い出す時は心の中でそっとタイムトリップをしようと思う。
あの風景も今となっては幻でも、もう一度過去に戻ってまたは未来に行って手にすることは二度とできないから、もう一度あのシーンを愛でようと思う。
何度でも何度でも自分が飽きるその日まで愛でようと思う。
夢を見た。
変な夢だった。
妹がどこか遠くに旅立つ、それもあと数時間でそうなるという風だった。
その中にはまだ小さな姪っ子がいた。
抱っこするにもひょいと持ち上げられる体の大きさで、2歳前くらいかと思う。
色んなことが遠去かっていって、変化して当たり前なのにその当たり前について行けてない自分がいた。
そして、ポツンとなるみたいな、たくさん人は周りにいるのに、その中で私は心の中は寄りどころがないみたいになってポツンとしていた。
その辺りで目が覚めて、そのポツンとなっている感覚も夢から引き継いだままだった。
率直にさみしいと思った。
色んなものが目まぐるしく変わる中で、自分だけは変わらない。
変わらないのは別にどうということもなかったけれども、そうやって年をとる時に、その人がいてくれないことが本当の本当にさみしかった。
付き合ってるのでもなければ、メール1つさえできていないのに、なんならもう生涯会うことは不可能なのに、目覚めて寝ぼけている私、それは寝ぼけていても逆に深いところの意識が明確に意識に上っていた状態だと思うけれども、年をとる、時間が流れていく、色んなものが変わっていく、その中にその人の姿がどこをどう探してもなくて、そういう世界に自分はこれからもずっと生き続けるんだと知ったら、言いようのない激しいさみしさに襲われた。
1人も平気だし、そうやって今も日々生きているから大丈夫なはずなのに、そのさみしさと言ったら、普段感じるさみしさの比じゃなかった。
未来が無味で、どこまでも交わらない、いくら周りに人がいてくれても自分は1人でその人はいなくて、それが死ぬまでそうだとわかって、夢の私はそれを真摯に真っ正面から受け止めようとしながらも、どこまでも自分1人だけがポツンとしていて、生きる時間の残りの長さとそれの孤独とを見た時に、普段見ることのない猛烈な「無」になってしまって戸惑ったりさみしかったり、はたまた何もないところに生き続ける脆さ(もろさ)や不安定さなんかを感じた。
起きている時の私なら「会えないんだから当たり前じゃん」と一蹴して終わる。
だけど、寝ぼけた私は本気の未来を見て、その中で生きるって本当にさみし過ぎるとものすごく強く感じていた。
何が楽しくてこの先生きるんだろう?とさえ思っていた。
その人のいない世界を改めて痛感した。
3年かけて、その人がいない世界でも大丈夫な自分を作ることに精一杯だった。
自分でもがんばったと思うし、それなりに効果も出た。
大丈夫な自分とは裏腹に、本当はいつもいつもさみしいって感じてるんだろうなぁとも思った。
その人のいない風景も見慣れてきたし、その人のいない日常も淡々と過ぎて慣れてはいる。
それでも本当のところはいつもさみしくて心許なくて、仕事でも私生活でもなんでもがんばるから、残りの人生のどこかでその人にもう一度会わせてください、って本気で願っている。
夢の中で、人が周りにいても耐えられないくらいにさみしくなった時、その人が私の人生にいてくれたらいいのに…って思った。
もはや夢なのか現実なのかよくわからない感覚だったけれども、そのさみしいものを引きずりながら生き続けるのは本気でイヤ!と思いながら目が覚めた。
しばらくボーッとしていたけれども、さみしいからと言って他の誰かといることのイメージも願いも想像できなくて、また何をそんなにもわけのわからないことを思うのか、私のさみしいの答えの先にはその人しかいないことに気付いた。
現実的に起こりそうにもないくせして、私はその人以外の誰かを思い浮かべてさみしいのとも、はたまた1人がさみしいのとも違っていた。
その人がいないことが本当にさみしいんだな…、ってその感覚だけが起きてからもずっと残っていた。
2020年6月17日水曜日
㉑【おいせさん手帳】しあわせの中身
おいせさん手帳第21回目
担当:私
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
6月17日
生きていくための自分だけの絶対的な条件。
紫陽花の見頃
紫陽花というのは、地に根を下ろすと毎年きれいな花を咲かせますが、花を活けるために切ると、何日ももたなくなってしまいます。私たちの体も日々何かに根を下ろして、命が育まれています。楽にそして自分らしく生きられる条件がどんなものか自分に聞いてみましょう。一生付き合う自分のために絶対に譲れない条件が必ず存在しています。
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生きていくための絶対の条件ー
真っ先に思い浮かんだのは、「自分の内面を見ること」だった。
この話の中にあるように、紫陽花というのはあんなにきれいな花を毎年咲かせるのに、一度切り花として切られて飾られると、本当に何日も持たずにすぐ枯れてしまうらしい。
言われてみれば、紫陽花の切り花なんてほとんど見たことがない。
なのに、大地に根を下ろすと、紫陽花の期間は基本的に何週間でも花を付けているし、そして毎年毎年梅雨の時期になると決まって咲く。
植物たちのその生命力の神秘さと強さにはいつも驚かされる。
だから「生きていくための条件」について書こうと思った。
紫陽花が土に根を下ろすことが必要なように、私には何が必要だろう…って。
ところが、得意の布団の上でうたた寝チックに半分寝落ちしているうちに、「しあわせな光景」がいくつも浮かんできて、そうこうしていたら、そのしあわせな光景を箇条書きプラスショートストーリー的な説明を付けたら、それが良い気がしてきた。
だから今回は路線変更。
✳︎誰かを心の中で想えること✳︎
これは本当にしあわせ度が高い。
心の中に誰かがいてくれて、その人を想えるというのは、それも呼吸するかのごとく自然と想えるのは、とっても素敵なこと。
そういう人に引き合わせてもらえるのは、人生の中でも1番の贈り物って呼んでもいいかもしれない。
✳︎今年も紫陽花を見に行く計画をひっそりと立てて、心待ちにできること✳︎
冒頭の紫陽花の写真は、去年のあじさい公園のスナップ。
新潟に帰ってきた最初の年、ペンジュラムがハローワークに行く代わりに私に案内してくれた場所だった。
本当にきれいで、あれから4年連続行っている。
今年が5年目になる。
今年もあの紫陽花たちを見に行けるのかと思うと、とっても楽しみ。
毎年の季節の楽しみがあるって、贅沢な未来の計画なんだと気付いた。
✳︎本気アンド本音のメール✳︎
私の英語の師匠のトムさんからメールが来ていた。
なんだったかな?と思って開けたら、先週お願いした件への返信だった。
トムさんへのお願いは、トムさんの名前を出して、トムさんが教えてくれたことを若造に伝えたいけれど、良いかどうかの確認に対しての返事だった。
2週?3週?くらい前から、専門用語の英単語について、社内の中ですったもんだしている。
なんと、何も考えずに、上が「じゃあ次からはこの言葉で!」と言って、それというのが正しく使える時がかなり限られた文の時だけで、素人がそのまま使うと「おいしいトースト」が「おいしくトースト」というトンチンカンな英語になるもので、非常にまずいことになりつつある。
そんな悪の根源を今から新しい会社の歴史に刻むなんて私は絶対に嫌で、ぎゃあぎゃあ騒いだ。
トムさんにスーパーヘルプを求めて、この上ない素晴らしい回答を得た。
その内容を、私の立場で言うと適当にあしらわれる可能性大ゆえに、トムさんにトムさんの名前を出させて欲しいとお願いした。
トムさんからは二つ返事で大丈夫と返ってきて、代わりに上役たちの目に触れることのないようにそれだけは気をつけて欲しいと綴られていた。
その理由というのが本当に感動的で、おおよそこんな風だった。
自分の保身のために言ってるのではなく。
もし上役の目に触れると、トムは何をまた勝手なことを言っているんだ?首を突っ込むのはやめろ!と言われ、最終的にこれまでみたいに陰ながら私や私のいる英訳関連の部署の助っ人ができなくなるから、それを避けるために名前が上の目に触れないようにして欲しいとあった。
あまりにもかっこよすぎて、鼻血ブー状態だった。
おかげで、社内の超しょうもない、本当に色々終わっているちっぽけでくだらないことがどうでもよくなった。
そうだった、そうだった、心が通うコミュニケーションと、個人の感情を抜きにした「今ここでの最大の利益は」という視点で仕事のクオリティを上げることに尽力するのが私は好きだったと思い出した。
くだらないことは、やっぱりくだらない考えの人が絡んでいて、それは全然テンションが上がらないどころかモヤモヤの種にはなっても気持ちを上げてはくれない。
もう何と思われてもいいから、そこからは離れることに、一線を置くことに決めた。
✳︎日常の愛とやさしさ✳︎
東京にいるヒーリングメイトのノムからLINEが来た。
6月に入ってから本当に気持ちが落ちて疲れてなんだかいつまでもジメジメとした重鈍い感覚に支配されてる風で、普段なら超楽しみなノムとの電話も乗り気にならない、鬱々とした感じが続いていた。
ノムは恋人ミッチーが作ってくれたブロッコリーとチーズのトーストや、ミッチー手作りの夕飯の写真、花の写真、木漏れ日的な陽が映った家の中の窓の写真、あり2匹が食べ物を運んでいる動画、そしてノムが描いた花の絵の写真をいくつも送ってくれた。
それを見て、食欲ない時に食べるおかゆやうどんみたいな、あのタイプのやさしさがじわじわと心に染み入った。
あの弱った時に五臓六腑(ごそうろっぷー今読み方を初めて知った)に染み渡る、じわじわと温かさや熱が体のすみずみに伝わる感覚をノムの写真と動画と短い私を気遣う言葉からもらった。
それだけでしあわせな気持ちになれた。
✳︎お祝いの日に気をもまなくてもいいこと✳︎
日付を見て気付いた。
昔のある時期なら、その日はお祝いをする日だった。
本来お祝いはおめでたいからお祝いで、ウキウキワクワクするものだと思う。
だけど、いつからかその日は気の重たいものとなって、楽しみとは程遠い形に転じた。
お祝いどころか自分のメンタルを保つのに精一杯だった。
そんなことを思い出したら、今はその心配を1つもしなくていいというめでたさを思った。
そして、そのことに思い悩む苦しさや虚しさから完全に解放されてる今の自分を見て、本当に今しあわせだなとしみじみと思った。
若い頃、「しあわせになる」ってなんだろう?とずっとわからなかった。
そして、しあわせというのは「なる」ものだと思っていた。
今思うのは、しあわせは「感じる」ものだし、しあわせを感じるにはどれだけ心が柔らかくて感知するセンサーがあるかだと思う。
そして、その感じる力は、ある程度訓練することで鍛えられるし手に入る。
ないものは数え上げてもキリがない。
そしてないものや手に入らないものは、追い求めても、それが夢や喜びに向かうものは別だけれど、自分を疲弊させるものなら、追いかければ追いかけるほどしあわせから遠のく。
生きていくのに絶対にしあわせが必要とは思わない。
しあわせを感じられないぐらいに落ち込んだり悩んだり泣き通したりしたことなんか、数えきれないほどある。
それでも息が絶えないわけだから、大きくしあわせから外れても身体的に生きてはいけるというのは、自分の人生を見たらわかる。
でも、少しでもしあわせを感じられると、生きている毎日が潤う。
心がやさしくなって、自分といるのが楽チンになる。
感動する力も高まるし、その時の自分は、表面はわからないけれども心の内では笑っている。
ニコニコしている。
ふと思った。
しあわせは自分で作れるって。
トムさんからのメールを読んで、それがはっきりとわかった。
トムさんから今回のようなメールをもらうには、いきなりはもらえない。
もらうまでのこの数ヶ月、私は私でトムさんとの人間関係を築いた。
トムさんがそこまでぶっちゃけたことをメールに書いてくれたのは初めてだった。
そんな内容を送ってもいいと判断してもらえるだけのやりとりを私としたから、そうやってメールが私の手元にやってきた。
もう1人の呆れるくらいにいい加減な人との対応を見たら天と地ほどの差がある。
もし私がいい加減な人と同じことをトムさんにしていたのなら、トムさんは絶対に私のことを信用しなかったと思うし、今回のメールなんかは火種にしかならないから送ることはおろか書かれることさえなかったと思う。
そうしてもいい、その判断の材料となるものは、普段の自分が作っている。
もちろん普段から良い風に思われようとかいう意図で動いているのとは違う。
だけど、色々やりづらいのは嫌だから、とにかくその時その時でやれることはする。
しあわせはそうしたことの上に舞い込んでくるのかもしれないなと思った。
2020年6月14日日曜日
自分ストライキ&静養ー2020夏至前
この週末、唯一外に出た時間
(外=家の隣りの田んぼ)
大量のカエルファミリーがいた🐸
(大量写真は気持ち悪いから、掲載自粛)
地味にしんどい。
そして、立ち上がるまで自分で自分を隣りで見守るしかないんだなと思った。
何がなんだと言うほどのことはない。
少しずつ、「それ嫌だな」とか「それ勝手すぎでしょ」とか「それ、私はさりげに傷付くんだけど」とか、そんなのがいくつもいくつもやってきた。
別に嫌がらせもされてなければ、特段困ったことも起こってるのとは違う。
だけど、じりじりと自分の中の繊細な部分が蝕まれる(むしばまれる)感じだし、知って良かったとも思わない。
知ったことは、多分知ることよりもそれによって浮上する自分の気持ちを見ることが必要だったんだろう…と頭では理解できても心は全面的に拒否ってる。
久しぶりの長期の自分ストライキが起こっているんだろう…と、ようやくその理解に入り始めた。
2週間くらい、異常なほど疲れていて、それが残業もなくなったのに疲れているからビックリして、誰ともあまり喋りたくなければ、気を使うことにも敏感になり出してる自分を見て「休もう」と思った。
「休息」とか「静養」が一番の薬なんだと思う。
今こうして書けることすら「できてる」ことに感動している。
2日間、廃人のように、寝る・食べる(作る)・起きたらネットサーフィン、そのどれかをグルグルと繰り返していた。
明日から始まる1週間の目標は、「1週間後、今日よりも1でもパワー回復したら御の字」ということにすぐ決まった。
普段目標なんか立てない。
だけど、今回ばかりは、少しでも自分が上向いたら「上向いたな」と気付いてあげることが本当に大事になるだろうと思って、それでそのような目標にすることにした。
あとは、明日月曜日は「カラス」のタイトル付けをまた朝の出勤時にしようと思っている。
馬鹿みたいな話ではあるけれど、私はいつもかなり面白がってやっていることの1つに、出勤の途中に広大な田んぼが広がる農道で、ほぼ毎朝カラスを見かける時に、そのカラスを見て色んなタイトルを付ける。
・カラスの朝食
・カラスの当番
・カラスのたそがれ
・カラスのデート
・カラスの見張り
・カラスの集会
・雨の日のカラス
こういうことを思い付くと、ぎゅうぎゅうに詰まった脳内にちょっとした空気穴みたいなのができて、ちょっとだけ気が緩む。
明日はそれをして行きたいなと思う。
明日も明日でなかなかなヘビーな話をしないといけないだろうから、ヘビーというよりも、色々捉え方にクセのある人に真意が伝わるように話さないといけないから、する前から気が重たい。
この地味にしんどくて布団の上に転がっている時の自分は、動物が敵や危険から自分の身を安全な場所に隠して、そこで傷が癒えるまでじっと耐えるみたいな、そういうイメージに近い。
ネットサーフィンをしている途中途中で、自分のブログの具合も見ていた。
この24時間で、とある記事がかなりな回数でアクセスされてると知った。
それはとある人にエールのように、その人の御守りみたいなメッセージになったらいい…と願掛けをして書いた文章だった。
それが本当に当人に届いているといい。
自分がした何かがそうやって誰かの心にそっと響くものだとするなら、本当に嬉しい。
今の朝ドラ『エール』の中で出てきたセリフで、この間メモしたもの。
主人公裕一の母役が菊池桃子で、裕一の弟の浩二は母と父(唐沢寿明)と暮らしている。
浩二が自分の性格だったか悩みだったかを母にこぼした時、母が返した言葉。
「いいのよ、人それぞれだから。
浩二は浩二でいればいいのよ」
私は浩二じゃないけれど、私も私でいたらいい、それを自然とまた思えるようになる時までしばし静養第一でいこうと思う。
【写真】カラスのタイトルが思い浮かぶ農道
2020年6月11日木曜日
⒇【おいせさん手帳】傘との一期一会
遅刻寸前のくせして、出社直前に駐車場で
傘の写真撮影会決行
٩( ๑•̀ᴗ-๑ )و
↑社会人として色々間違えてる人
おいせさん手帳第20回目
担当:私
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
6月11日
一期一会の出会い。
傘の日
雨降りの日が多い、梅雨ならではの雨の愉しみ方があります。まずは、お気に入りの傘を用意します。その中でそっと雨だれの音に耳を澄ませてください。そこにはあなたにだけ届けられた一期一会の雨の音楽があります。ポタポタ、ぴちゃん、ばしゃばしゃ、色んな音があなたを愉しませてくれます。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
今回は最終的に採用された方のタイトル「雨との一期一会」の方が好きだなと、仕事の昼休みでのんびりしている今思う。
私は元々傘を差すことは好きじゃない。
面倒に感じてしまう。
名古屋にいた頃、それならお気に入りの傘を買ったのなら雨の日の傘持ちも楽しくなりそう!と思って、さんざん傘探しをした。
今思い出したけれど、1本とても気に入った紺の傘があった。
色味が本当にきれいな紺で、柄のところが木製で、シンプルさと上質さを兼ね備えたとっても素敵な傘だった。
それを買う買わないを最後まで迷ったのは、そのきれいな紺と値段だった。
諭吉でもまだ足りない金額の傘で、それが100%の納得があったのなら全然払う気満々だった。
たった1つだけ気になったのは、そのきれいな紺だった。
傘を差す時というのは、私の場合、本当の雨の日になる。
ポツポツくらいじゃ差さないことも多い。
ということは、確実な本降りの雨で、それはイコール天気も悪く空の色も暗い。
空の色が灰色で重たいところに、傘まで紺ならどんなにどんよりするんだろう…と思った。
しかも諭吉1枚では足りない超高級傘を一度買ったのなら、私のことだからその後気に入らなかったとしても、値段に心が揺れて納得しないまま使い続ける可能性が高かった。
そこがどうしても引っかかって、デパートの明るくてにぎやかな雰囲気で差す紺色の傘が、どうしても雨の日も楽しそう…というイメージを最後まで私には思い浮かべられなかった。
何度も何度もその売場に行くたびに見た傘だったけれども、とうとう買わずに名古屋を去った。
新潟に戻って、働き出してわりかし早い時期に傘を探したかと思う。
名古屋と違って、新潟で傘無し生活はありえなかったから、とにかく傘を色んな店に行って見て回った。
私は一度「買う!」と決めると、それも傘とか日記帳とか長年使うことになるものの時は、「これだ!」というものに当たるまで10数軒、20数軒、全く気にならずに何軒でも何週間、下手すると1年とかかけて見て回れる。
その時もたしか何軒も回ったかと記憶している。
ただ、新潟の冬は待ったなしだから、そう長くは時間を取れなかった。
いつの時か忘れたけれど、あるお気に入りの雑貨屋さんでその傘を見つけた。
本気で一目惚れだった。
実際にその場で差して、これなら絶対に雨の日に楽しい気持ちにしてもらえそう!と瞬時に想像できた。
しかも、年齢が上がってもずっとそれを気持ち良く、柄やデザインに気後れせず差せそうとも思えた。
値段は忘れたけれど、2000円か3000円くらいで、それも迷う理由なんか1つもないくらいに気に入った。
その傘を買って、それからいくつもの季節を過ごしている。
相変わらず傘を使う日は気持ちが上がるし、柄を見て心が躍る。
こういう傘の日もいいなぁといつも思う。
ただ相変わらず傘を差すのは面倒で、この傘になってからも、本当に雨がしっかりと降っている時にしか使っていない。
濡れる<面倒くさい、の構図は未だに崩れていない。
後記:なんと!上の文章は、今日の昼休みに15分くらいで一気に書き上げたもの。これ、なんちゃって特技認定してもいいかも✧( *ˊᵕˋ)ノ
2020年6月9日火曜日
3年後の風景
真っ先に出てきたのは、紙に書かれたその人の名前だった。
自分でも最初にそのシーンが出てきた時、ものすごくビックリした。
それはまだ建物に入る前のことだった。
来客用入口には、何かあったら連絡くださいみたいな、中身の文章はまるっと忘れたけれども、とにかくそんなことが書かれた紙に、社内の人と思しき名前があった。
私は勝手に名前から、50代くらいのおじさんよりおっさんの方が似合いそうな風貌、もしくは職人気質な頑固オヤジみたいな人を想像して、社内のお偉いさんなんだろうと思いながらその名前を見ていた。
見た時間は本当に一瞬で、数秒にも満たなかったと思う。
だけど、今回当時を思い出した時、何度もそのシーンを思い出してわかった。
普段人の名前を全くと言っていいほど覚えなければ、名前を見て何かを思ったり感じたりすることはほぼほぼない。
しかもその名前は、全国どこにでもある名字だし、武士俣と違って、読めないなんてことは100%ない。
下の名前も特別に強烈な印象を残すものとは違う。
そちらも読み間違いとか100%ないだろうし、音も変わったものではない、普通にある名前だった。
だから名前自体は何の特徴も特にはないのに、私はどういうわけか猛烈にその名前を鮮明に記憶して、だけど意識の中での私は初日に向けてものすごく緊張していたから、名前どころではなく、そんなことを思ったことさえ忘れて、そして社内に入った。
その日は今思えばフルキャスティングで大御所たち全員がいた。
数ヶ所派遣に行ったから余計とそこが特別だったのが今ならわかるけれども、まず関係者の面々全員から名刺をもらうことはない。
私の記憶が間違っていなければ、そこが初の全員から名刺をもらった職場だった。
その日4枚の名刺を1人1人から手渡されたけれど、あの入口の貼り紙の主を見て驚いた。
Σ(꒪◊꒪ )))) ?\(ΦдΦ)/?(@_@)?
えぇっ!?この人が!?〇〇〇〇さん!?
その人は、おじさんでもおっさんでも頑固オヤジでもなく、もちろんガテン系よろしくでもなく、本気のイケメンだった。
最近出てきた若い俳優の子の顔にとても似ているけれど、普通にテレビに出ていてもおかしくない、正統派イケメンだった。
名刺と本人とを見比べて、思わず私は交互にガン見したかもしれない。
それくらい、名前の印象と本人とにギャップがありすぎて、ものすごく驚いたことも覚えている。
顔といい背格好といい本気のイケメンで、私が人生で出会ったイケメンたちの中でナンバー1と呼んでもいいくらいのイケメンぶりだった。
イケメンはさらに爽やか笑顔で「〇〇です」と自己紹介して、色々意表を突いた入口の名前の人物の登場だった。
そんな風にして始まったその人との出逢いだった。
これは今だからわかること。
何一つ印象に強く残る名前じゃない(←言い方が失礼だけれど、わかりやすくするために)。
なのにものすごく強くそのシーン、それも名前を見た時の自分の心の動きが強烈に残るというのは、それはもう通常とは違う出会いであることを示していた。
当時はそんなこと全くわからなかったし、指折り何社目みたいな派遣先の1つでしかなかったし、そして「事務職」という私には始まる前から不安しかない不慣れ感満載な仕事で、色々それどころじゃなかった。
だけど、3年という年月を経てわかった。
当時の多くのことは忘れているし、思い出すこともほとんどない。
なんだけど、最初に建物で日かげっぽくなっていてでも「朝」とわかる空気感の中で、その人の名前を見て色々思い巡らせたこと、そのシーンがとびっきり強く残っている。
周りの風景や外の空気感や陽の具合まで覚えてるなんて、普段のポンコツ記憶力からは考えられない偉業なわけで、それだけその人の名前を見た時の感覚は他に類を見ない、とっても特殊なものだった。
そんな風に誰かの名前が強く残るなんてことは、思い返せばその人が人生初なんじゃないかと思う。
きちんとお知らせとしてやってきた感覚だったと今になって思う。
魂メイトの登場!!!
パンパカパーン*¨*•.¸¸☆*・*¨*•.¸¸☆*・゚
ってな具合に、あの名前の景色は私の記憶に瞬時に刻まれた。
それをまさか3年後にものすごく強く思い出すなんて想像さえしていなかった。
あの日の風景やあの日目の前にその人が私の前に現れる感じとか、その時はある日のある風景でしかないと思っていた。
時間が経てば普通に忘れて、新しい明日と共にどんどん忘却の彼方に葬られる、そういうものだと思っていた。
ところが3年経った今、それがどれだけ特殊で特異で特別だったのかがよくわかる。
今日の10時過ぎにパソコンの時計を見た。
ふと思った。
その日その人は、社内で唯一と言っても良かったかもしれない、仲良しさんにLINEを送った。
私の名字がツボだったようで、それをわざわざ知らせたようだった。
その時その人は何を思ってそのLINEを送ったんだろう。
意味なんてなくて、単なる思いつきだっただけなのかもしれない。
これは私の勝手な想像だけど、私にとってもその人の名前がどういうわけかインパクト超絶強かったように、その人にとっても私の名前、正しくは名字はインパクトが強かったのかもしれない。
だけど、そもそも「武士俣」なんて、人が一生のうち1人に会うか会わないかぐらいの激レア名字だから、それで反応したに過ぎないかもしれない。
全ては謎に包まれたまま、3年が過ぎた。
3年が過ぎたからと言って、何が昨日と今日で変わることもなければ、連絡するような仲にもならないのは3年前と何ひとつ変わらない。
私はいつも「いつ連絡くれてもスーパーウェルカムなのに٩(ˊᗜˋ*)و」と思っている。
とか思っても、なんならこうして発信しても、音沙汰ゼロなのは、普通に考えて「連絡したくない」んだろうと思う。
魂たちは、今生再会さえ果たせば、ミッションコンプリートなのかもしれない。
そして、また再会したければ、「じゃ、来世で!」ということなのかもしれない。
魂側もせめてせめて身の丈に合った魂メイトにしてくれたらいいのに、相手は正統派イケメンというだけで、しかも人生で出会った一番のイケメンとかいうような人なわけで、状況はおいしいとかめでたいのとは違う。
近寄りがたく、近付きがたく、仲良くなるなんて夢のまた夢状態だった。
他にもう少し書きたかったけれども、強力な睡魔には勝てない。
2020年6月3日水曜日
⒆【おいせさん手帳】心の限界の声を聞き届ける
おいせさん手帳第19回目
担当:ノム
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
6月3日
自分の心をおしはかる1日に。
測量の日
測量には位置関係を測るという意味と、「おしはかる」という意味があります。
誰かの心情をおしはかる際にはきっと、五感を使い、
その人の言動を繊細に捉えることを自然としているのではないかと思います。
その“おしはかり力”を自分に向けたことはありますか?
心に聴診器をあてるように耳を澄まし、自分の気持ちに寄り添ってあげて。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
書きたい気持ちと疲れた体とせめぎ合いながら書いている。
今日の文章は、最初から「これを書こう!」って決めていたテーマがあった。
今日のテーマは「自殺」。
4月の終わりに、いつもお世話になっている車の整備工場の雇われ代表的存在のNさんが自殺で亡くなった。
それから何度となくNさんのことを思ったし、Nさんの死という名の不在も思ったし、自殺についても考えた。
お願いされて考えてるのとは違って、どうしても考えてしまった。
さらに考えたところで何も変わるものはないし、何がどうなるわけでもない。
もはや何でそんなことを考えるのかもわからずに考えていたけれども、この1ヶ月ちょっとの中で思って、そして今の地点で言うと「考えを改めたこと」について触れたい。
Nさんの死は、私にとって人生哲学的なものの大きな転機となった。
ちょっと楽にもなれたし、今回の気持ちの変化がNさんがもたらしてくれた最後のメッセージなのかな…なんていうのも思っている。
Nさんの死の前も後も、要は今も、基本的に私は自殺はしたくないものだし、自ら命を落とすというのは人としてやっぱりよろしくはないと思っている。
ちなみに私が自殺したくない理由はただ1つ。
もう一度今の人生と同じかもしくはこれ以上辛くて苦しい体験をしたくないから。
自殺願望というよりも、生きていることがしんどくて辛過ぎる時間が数々あった私は、極端なくらいに「生きたい願望」の薄い人だった。
何が楽しくて今日という時間が与えられていて、そして今日という日を全うしなきゃいけないのか、私には色々理解するのが難しかった。
30ぐらいまでは死にたいと思ったことは回数としてたくさんあったし、実際に中学2年生の頃、自殺未遂とまでは言わないけれども、テレビドラマに出てくるみたいに手首を切ってみた。
今なんかのほほんとしているけれども、当時は本気でしんどかったし、あれは人生で5本の指に殿堂入りできる苦しさや辛さだったから、今でも死にたいと考えまくっていた時間を決して忘れたりはしない。
その体験は私にとって大人になった今も1つの大きな通過点だったなぁと感じている。
30過ぎてから私の自殺願望がきれいさっぱりなくなったのは、他のなんでもない、『神との対話』という超有名どころのスピリチュアル本を読んでからだった。
その本の著者はある日突然目に見えない世界の住人とコンタクトが取れるようになって、そこから色んな情報を得て、その得たものを書いたのが『神との対話』だった。
その中で自殺についても取り上げられていて、そこに書かれていた内容が衝撃だった。
もしうっかり自殺して死んだ場合、次の人生はさらに重たいテーマを課せられる、今生よりもさらに生きにくさや辛さが増すとあった。
それ見た瞬間に、ピタッときれいに自殺願望は消え去ってくれた。
生きたいという意思も弱かったけれど、死にたいとはそれ以降思わなくなった。
反対に、絶対の絶対にもう一度今の人生よりきつい人生を送るなんて嫌だから、何が何でも生きようと思った。
それは今も変わらない。
その点に変更はないけれども、自殺に対して思うことが変わった。
Nさんの死を目の当たりにした時、死ぬことさえも人には選ぶ権利があるということを初めて本当に思った。
死ぬことは今ここに書いた理由で薦めないけれども、そしてこれまでの私は生きるのが辛い死にたいと嘆く人がいたのなら、「いや、来世もっときつくなるからやめた方がいいよ」って全力で伝えるけれども、そこはそのままなんだけれど、Nさんのことを見て1つだけ考えが変わった。
Nさんは62歳か63歳だった。
奥さんも子どももいるし、仕事だってきちんとある。
家もあるし、人が持ってるといいなぁと言われそうなものは全部あるように見えた。
町内会長になるくらい人望も熱かったと思う。
仕事だって完全に任せてもらってるようにはたからは見える。
年も年だから、お迎えは早ければ1年としないうちにくる場合だってある。
おそらく前日まで仕事をしていたかと思うから、体の具合が悪かったというのはゼロではなくてもそれが理由というのは考えにくい。
60年以上がんばって生き続けてきて、もう終わりの方が近い年齢に差し掛かっているのに、それでも生きるより死ぬことの方を選ぶことの方が楽な時もあるんだとNさんの死をもって思った。
生きることの方が死ぬことより辛い、苦しい、そういうこともあるんだと、Nさんの死はそれを私に告げた。
そして、本当に限界だと感じるなら、死ぬことも選ぶのはありだと初めて思えた。
私は選ばないけれども(なぜなら次の人生がさらにキツイのは嫌だから)、それでもこれまでの60年分の毎日よりも今日1日をやり過ごすことの方ができないと感じたのなら、死ぬことを選ぶのは仕方ないのかもしれない。
Nさんがもっと若かったら考えも違っていたと思う。
だけど、60年以上生きて、色んなものを手にして、もちろん手にするために色んなことを積み重ねてまたはあきらめて、それで今日という日を日々迎えることをしていたのに、ある日それはもうどうやっても無理になってしまう。
そういうこともあるんだと知った。
寡黙型の人ゆえ、色々自分の中で思うことはあったと思う。
それがもう限界になって爆発してしまって、自分でも自分を止められないくらいの激情が最後は解き放たれたのかと想像したら、Nさんの自殺は本当にどうにもできない、本人が自分に差し出した最後の切り札だったのかもしれない。
だから「死んじゃダメだ」とか「自殺はいけない」とかそんな簡単なことじゃなくて、そうした声が届かないくらいに追い詰められていたとするなら、死ぬことを選ぶのも人間として大切な選択の1つなのかもしれないな…、と本当に初めてそのように思った。
それ以外の生き延びる方法は実際にいくらでもあるけれども、それでも生きてることがあまりにも辛くて何も考えられなくなったら、死はダメなものではなく、本人がその時自分のためにできる最大のことなのかもしれない。
人の辛さや苦しさは推し量れない。
今回亡くなった若い女子プロの方の死は、正直な気持ち、同情もなければ共感もない。
辛かっただろう状況は私の想像に及ぶような範囲を大幅に超えるものだったとは思うし、それは体験した人にしかわからないものも確実にある。
そこじゃなくて、本当に辛かったのなら逃げたら良かろうに…などと全くやさしくないことさえ思っている。
自分の存在を否定されることの惨さ(むごさ)や陰湿さは、本当に強烈だと思う。
だけど、どうしてそこから逃げることをしなかったのか、どうしてその誹謗中傷が全てと思ってしまったのか、私には正直解せなかった。
発信される周りの大人たちのメッセージは、変な意味で死を肯定しているみたいで、私には全く響かない。
当人にしかわからない痛みがあることは重々承知の上で言うと、私は本気であの年齢的なことを思うと「逃げたらいい」と思う。
さらには、色々あっても時間薬が効いてくれたり、心を癒す方法を自分のために取り入れることは残りの人生で可能なことも知っているからこそ、私には解せなかった。
それは自分が全力でやってきたからこそそう思う。
知らない人たちからの誹謗中傷と知っている人たちからの誹謗中傷はもちろん違うし、数としての規模も違う。
だけど、知っている人たちから日々強烈な凶器となる言葉や態度を向けられても(毎日幾つものことを体験することの年単位)、それでも生きる道はきちんとあるし、傷を癒しきれなくても生き延びる方法はある。
本気でそれをくぐり抜けてきたから、厳しいようだけど、私は同情できなかった。
甘ったれてるとは言わない。
だけど、逃げることも傷から離れることも、または癒されなくても笑える日がくることもきちんとあると知り得たからこそ、自分の中でその死は無しだと思っている。
死人に口なしだけど、みんな誹謗中傷や本人を思いやるところの発信が目立つけれども、誰でもいい、「死ぬな」とピシャリと言う人がいないのか、私はあの一件をそんな風に冷めた目で見ている。
だけどNさんのことは違った。
本当にたくさんの日々の積み重ねをひたすらやってきて(それはもちろん誰しもだけど)、それでもどうやっても逃げることも続けることもできなくなってしまう、そんな気持ちを想像したらやるせなくなった。
だから、Nさんのことを「どうして…?」とはあまり思わないけれども、死を選んでまで守りたい自分の中の何かがあったんだろうと想像する。
Nさんは死を通して逃げたと言うよりも、死を選ぶことで自分の何かを守ったのかもしれないと思う。
だって見るからに自分のことは不器用そうだし、その不器用さゆえにこれまでだって生きづらいことなんかたくさんあっただろうと思うから。
一瞬のことでも、死を決意するほどの何かがあって、それは取り返しのつかない選択であっても、もはや過去の60年以上のそれまでの自分のやってきたことでは挽回できないくらいの何かだったんだろうと思う。
色々矛盾しているけれども、そこまで生きて時間的な終わりがある程度見えてきてもおかしくないのに、それでも死ぬことを選んだNさんには、反対に「死ぬな」とは言えない。
死んで楽になったとは思わないけれども、それでももう死ぬことしか見えてなかったくらいの何かが心の内にあったのかと思うと、最後は死を選ぶのもその人の生き様なのかもしれないとさえ思う。
また日を改めてNさんの死の後思った様々なことを書き綴りたい。
2020年6月2日火曜日
⒅【おいせさん手帳】心を開く
おいせさん手帳第18回目
担当:ノム
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
6月2日
心の扉をいつもよりもオープンにしてみましょう。
横浜港・長崎港 開港記念日
1859年の今日、横浜港と長崎港が開港。以後の貿易の要となりました。
そのような日に乗じて、今日は自分を開く日にしてみませんか?
普段よりも、少しだけ大きな声で挨拶をしてみる。
いつもは飲み込む自分の意見を、一言だけでも伝えてみる。
心の扉を開く鍵をもっているのは、誰あろう自分自身なのです。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
これを書く少し前に英和辞典をパラパラとめくっていた。
どういうわけか「breakfast」が目に留まった。
そして次の瞬間、人生で初めて「ブランチ」なる言葉を知った時のことを思い出した。
私がブランチを知ったのは、17歳の終わりか18歳になってすぐの頃だった。
なんだかこのテーマに関係ないことを考えてる風だけど、よくよく読むとするりするりと繋がって、なんだかいい具合に書けそうな気がした。
だからこのまま書き続けてみようと思う。
私にブランチを教えてくれたのは、1つ年上ののんちゃんだった。
高校に行かなくて良くなった2月くらいから、私は3ヶ月間横浜に住んで、横浜から東京の阿佐ヶ谷まで通った。
阿佐ヶ谷で英語の語学研修を受けていた。
そこの代表の方の持ち物のマンションを借りて、のんちゃんと私ともう1人の女の子とで3人共同生活を送った。
のんちゃんはニュージーランドに1年間高校留学をして、それで卒業が1年遅れたと本人が言っていた。
年上とは思えない気楽な関係を最初から築けた。
当時の年齢の1歳2歳の差はとてつもなく大きかったけれども、のんちゃんはそんなことを微塵も感じさせない自然体の人だった。
出身も大阪とあって、生の関西弁に初めて触れた私は大興奮していた。
ハーフみたいなお人形さん風な顔立ちで本当に可愛い容姿なのに、「違うねん。うちはかあさんが鹿児島で、その血が濃いから顔が濃いねん。ハーフでもなんでもない、純日本人やねんて」と教えてくれた。
しょっちゅうその質問を受けるようで、本当に答え慣れていた。
そしてある時、のんちゃんが「ブランチ」という言葉を何かの折に教えてくれた。
家の中だった気がする。
「朝と昼兼用のごはん、breakfastとlunchを足してbranchになんねん」
ブランチなる響きに私は酔いしれた。
なんて素敵な響きでなんて素敵なスタイルなんだろう…と思った。
その時以降、私は何回も何回も人生の中で「ブランチ」をした。
もっぱら一人暮らしの時に、午前の遅い時間に食べる時は「ブランチだなぁ」と何の意味もなくそう思って食べていた。
「心を開く」
ブランチのことを思い出した時、「心を開く」にぴったりだと思った。
コテコテの和風の田舎暮らしな我が家では、「ブランチ」なんて文化はなかったし、今現在両親と共にいて「ブランチ」はない。
たとえそれがブランチ的なものになっても「遅い朝ごはん」か「早い昼ごはん」になる。
ブランチというスタイルを自分の人生に取り込む行為は、「未知のものに心を開く」ことに繋がるように感じる。
コロナウイルスでstay homeが謳われ、その後は「新しい生活様式」という言葉を皮切りに、ありとあらゆる分野に新しいスタイルが持ち込まれている。
どちらかと言えば、窮屈で不自由なものが多かったりするけれども、そこに心を開く開かないは個人の自由なんだなと思う。
心を開いたら開いた未知の世界に、反対に心を開かなければ開かない未知の世界に、今は否が応でも対峙することになる。
どちらが正解ということもないし、人によって正解は十人十色で無限大にある。
そんな中で、少しでも面白い方に心を開けたらいいなぁと思う。
同じ未知なら、少しでも体験できて良かった!とか、知れて良かった!とか、そういうのがいい。
ブランチに胸を馳せたような、そういう心の開きはいくつになっても体験し続けたい。
この話の最初に出てくるのんちゃんとの共同生活は「横浜」だった。
今日のノムの言葉の中に「横浜港」が出てくる。
偶然な重なりだったにしても、どうしてブランチを思い出して、それと同時にのんちゃんを思い出して、そしてその人生で初めてブランチを耳にしたのが横浜で…、なんという繋がりだろう。
長崎港とは違うけれども、私やのんちゃんに宿を提供してくれた当時の代表の方は「小倉」さんと言った。
これもまた九州の地名だなぁって今いま思い出した。
当時の小倉さんは今の私か私より少し上くらいだったと思う。
小倉さんは、親の家業を引き継ぐことになって、鉄工所だったかの製造関係の会社の社長がいわゆる本業だった。
なんだけど、本人にとってアメリカ留学は大きな転機であり、人生の中でかけがえのない時間だという自負があった。
だから、そちらの道を拓く仕事を開拓した。
本当に熱意と気持ちがなければやれないことだと、本人の口からもそれとなく聞いたし、営業マンのうちの父からもそんなことを聞いた記憶がある。
あの人は、本当に気持ちだけであの仕事をやっていると。
小倉さんも、未知の世界に自分の心を開いた人だった。
それも本業があるにも関わらず、自分の夢をどうしてもあきらめられなくて、すべてに全力で向かった人だった。
私が大学に行っていた間に、小倉さんは事業を畳んだ。
私やのんちゃんをはじめ、各地に旅立ち大学生活を始めた各々は、もうサポートは不要だった。
それぞれがそれぞれの道で自力で立てばいいだけだから、アメリカに行くまでのようなサポートは要らなかった。
だけど、日本にいる親たちはそうじゃない。
うちの父の話だと、小倉さんは事業を畳んだ後も、親たちへの情報提供や相談なんかのサポートは続けたようだった。
今書いてて思い出したけれども、大学を卒業して社会人になった1年目とか2年目、もしくは3年目くらいだったかもしれない、父と私と2人で東京に出向いたことがあった。
小倉さんが有志を募って、自分が世話した学生たちとその親を集めて会を開いた。
もうその時が最後だからということで、小倉さんが開いた会だったように思う。
うちの父は、曲がってることは本当に嫌いなタイプで、当時の事務局の逃げた別の人のことはとても嫌っていたけれども、小倉さんのことは信頼を置いていて、その会には最後だから出ようと私に言って、それで2人で東京に行って、どこかの会場でちょっとしたパーティーみたいな感じの会に出た。
父と私と小倉さんの3人で話した時間があった。
記憶もかなり曖昧だけど、1つだけ憶えている。
小倉さんは私が子どものいる施設に勤めたことを大層喜んでくれた。
小倉さんが私のことをフミコと呼んだかフミコさんと呼んだかは記憶にないけれども、少なくとも2回ないし3回くらいしかゆっくりと話す機会なんてなかったと思うけれども、その時に私が子ども相手の仕事をしたいと、スクールカウンセラー的なことをしたいと言った話をきちんと覚えていて、それで私の当時の仕事に就いたことを心から喜んでくれてた。
父があの時言った言葉が今書いたことで思い返された。
本当に小倉さんという人は、気持ち1つで仕事をしていた人だった。
重責な本業の経営もありながら、留学の道を拓く事業を本気で全身全霊でやっていたことがわかる。
すごい大人に会わせてもらえていたんだな…と40も過ぎた今初めて気付いた。
何の話なのかよくわからなくなってきたけれども、心を開いた先にはいつも素敵な何かが待っている。
そんなことをこれを書きながら思い出した。
2020年6月1日月曜日
星読み・茶封筒・命のバトン
求めていたものが何かを知った。
ずっと見ないようにしてきたけれど、いざその状況を体験すると、まざまざと自分の欲しているものが何かわかってしまう。
また1人で妄想界へと意識は飛んだ。
午後の遅い時間にイケメンエンジニアの硬派さんが「武士俣さん」と話しかけてきた。
はたから見ると、小型のコピー機にコピーしたものを取りに来ただけみたいに映るだろうけれど、硬派さんの体はコピー機の前ではなく私のデスク側にあって、私のごちゃごちゃした机の向こうから私は呼ばれた。
仕事上硬派さんは私に用事があることはまずないから、珍しくまた英語の部品名でも確認したいのかと最初思った。
硬派さんは私が「はい」と言うと、続けざまに「まだ読み終わってないんです」と言った。
私は最初何の話を硬派さんがしているのかさっぱりわからなくて、硬派さんの次の言葉を聞いた。
「ほら、実家で読んだって言ったじゃないですか…」
と聞いて、そこでようやく星読みの話だと気付いた。
硬派さんの話はこうだった。
実家に持って行って読み始めたけれども、あれから実家に帰れていない、だからもう少し時間がかかること、全部読んだら武士俣さんに声をかけます、おおよそそんな内容だった。
それを聞いて一気に自分の心が和らいだし、疑心暗鬼になっていたことも即座に解消された。
なんなら硬派さんに「読んで具合悪くなってない?」と聞いたら笑われて、「そんなわけないじゃないですか!大丈夫です」と返ってきた。
急ぐものじゃないからゆっくり読んでください、と言って二言三言言葉を交わして、硬派さんは席に戻って行った。
実は、ずっと硬派さんが何も言ってこないからどうしたんだろうとは思っていた。
気にはかなりなっていたけれども、どう聞いていいかもわからなければ、もしかして本人が触れて欲しくないのかもしれないし、はたまた全てなかったことにしたいのかもしれないとか、いくらでも悪い方に想像はいった。
何も言ってくれない硬派さんにも怒りに似た感覚も出てきたし、自分の中でああでもないこうでもない…とグルグルして、だからもう何か言ってくるまでそっとしておこうと思った。
それが硬派さんの行動で一気に解消されて、そして短いやりのりの中で本当に大切にしてくれてるだろうことも伝わってきて良かった。
あの分厚いAll手書きの鑑定書は、硬派さんも1人でゆっくり読みたかったり、奥さんには見せられないと思ったのかもしれない。
やましいことなんて1ミリもないけれども、それと相手の受け取り方はイコールとは限らないから、あえて見せないようにしているのかもしれない。
その辺りは知らないけれども、いずれにしてもそこまできちんと扱おうとしてくれてるのはひしひしと伝わってきたし、硬派さんも適当にするのじゃなくてきちんと向き合いたいと思ってる気持ちは話しててわかった。
相変わらずの誠実ぶりだった。
さらに、伝えられたタイミングも、不定期に訪れる私が硬派さんの席に行く時ではなく、わざわざ私の席にまで来てくれたことも大きかった。
硬派さんが私の席に自主的に来てくれたことは数えられるほどしかない。
だから余程のことがなければ、硬派さんは来ない。
何も言ってこない硬派さんを見て、自分の中で星読みしたことをどう捉えていいのかわからなくなっていた。
自分から何か言うことも考えたけれども、それも硬派さんの性格を考えると、さらに変な気を使われそうでそれもなんだかなぁ…と思った。
そんな折に不意にやってきた硬派さんで、本当にそのためだけにコピーを取りにくるフリして来たのはわかったから、それだけでテンションが上がりまくった。←基本単純。
心のモヤモヤの整理が早々と終わると、私はまたもや妄想界へ妄想トリップを始めた。
本当はこういうやりとりをしたかった。
気にかけてくれてるってわかれば、私はそれだけで良かった。
硬派さんに渡した星読み鑑定書と過去のある時に渡した茶封筒とでは、内容も違うし、硬派さんのが本人希望で世に誕生したものなら、茶封筒はお願いもされてなければいきなり渡されて、かなり迷惑なものだっただろうこともわかる。
それもこれも全部全部わかっていて、反応ないことも覚悟して、それでも渡すことを選んだものだった。
後出しジャンケンみたいに、後からブーブー言うつもりもなかったし、色んな意味で最初から仕方ないとものすごい諦めと一緒に押し付けてきたものだった。
頭では全部わかっていたつもりでも、本音はやっぱり違う。
硬派さんとやりとりしたから余計とわかった。
反応が欲しかった。
それも「気にかけてる」と私がわかる反応が欲しかった。
硬派さんがあの分厚い鑑定書を、適当に扱うのではなく、自分なりに秘密の本みたいにして誰にも見られないようにしている工夫がなんだかとっても嬉しかった。
そして、それを言うためにわざわざ私のところに来て、社内メールでもない携帯の個人メールでもない、あえてきちんと面と向かって伝えてくれたことが本当に嬉しかった。
私がいい加減にはしなかったように、硬派さんもいい加減にはしていない。
茶封筒の主だって、もしかしたら硬派さんみたいに大事にしてくれたかもしれない。
多分だけど、ぞんざいにしてる可能性より本人のやり方で大事に持っている気がする。
そうは思っていても、そんなのは私の想像の域でしかなくて、本当のところは何も知らない。
そういうのは本人が伝えてくれなきゃ私には絶対に知り得ない。
硬派さんも元来ベラベラと喋る人じゃない。
間違えても私の席に立ち寄って世間話したりとか絶対にない。
だからこそ、硬派さんが来る時は本当に大事な何かを伝えたり確認したりするためだとわかる。
そういう反応が欲しかった。
もちろん、そんなのハードルが高いのも、私が望み過ぎなのも、そもそも反応ないことを覚悟したことも、ぜーんぶ知っているけれども、本当は反応が欲しかった。
それも、「迷惑だった」とかそういう系の方じゃなくて、私が覚悟決めて書いて渡して良かったと思える反応が欲しかった。
自分側の選択が、これで良かったんだと思える反応が欲しかった。
このままずっとズルズルいくのか、いつか何か流れが変わるのかは知らないけれども、せめて迷惑とか不愉快ではなかったのなら、そうではなかったことを生きているうちに教えてもらいたい。
言葉にできないなら一言「言葉にはできない」とだけ伝えて欲しい。
私にもよくわからないけれども、何の理由もなく、この私のダラダラと長い、起承転結もない文章をそう毎日チェックできるものじゃない。
そうする理由と茶封筒一連の出来事の時の姿が私にはどうしても重ならない。
私はエスパーや霊視者じゃないから何もわからないけれども、ただ少なくとも何かしら意図や意志が働かなければこのようなことにはなってないと思う。
>>>5月最後の日曜日の夜
上のところまで書いていたら癒しメイトのノムから連絡がきた。
そのまま電話することになった。
私は土日ほぼ寝て過ごしていて、日曜の夜でさえもなんだかボーッとしていた。
テンションはどちらかと言うとローテンションで、話したいテーマもなければ、むしろ「今日はこのテーマ!」なんて決めて話すような元気はなく、そうしたらノムも今日は何も決めずにのんびりと話したいということで、すぐに2人の間に同意ができた。
「特に電話する理由はない」「特にこれと言って話したいことがない」、いわゆる不要不急のおしゃべりを、何も決めずダラダラと流れに任せて話せる相手がいるというのは、本当に恵まれたことだとお互いに言い合った。
そんな出だしから、ノムと私のおしゃべりは始まった。
ノムはまるで私のこのブログの下書きを見ていたかのように、こんな話を聞かせてくれた。
ノムは電話の少し前まで録画したドラマを見ていたとのこと。
どういうわけか3年前くらいに録画した昼ドラを見たらしい。
倉本聰脚本の『やすらぎの刻』という、老年期の人たちを題材にしたドラマで、見たことはないけれども、その存在は知っていた。
ノムがどうしてそのドラマを3年越しに見たのか理由はさっぱりわからなかったし聞かなかったけれども、本当にこのブログの下書きの直後の話だったから聞いてて心底驚いた。
ノムが見た回の中で、加賀まりこの友人女性が自殺をして、その自殺する前の日に彼女は加賀まりこに手紙を渡したとのこと。
それを受け取った加賀まりこは、「自分は死ぬ前に誰か手紙を書いて渡せる相手がいるだろうか」と考え、そして考えたけれどもそんな人は誰もいなくてそれがとても寂しいことだというような話を石坂浩二にしたらしい。
それを聞いた石坂浩二も自分なら誰に書くかを考えて、考えた末思いついたのは亡くなった奥さんとのこと(この辺り、いかにも男性だなぁと思う。余談だけど、老人ホームに入る入居者たちはほぼほぼ、男性は奥さんの写真を飾り、女性は子どもの写真を飾るらしい。そして、ボケた時、女性は旦那のことは忘れても子どものことは覚えている傾向にある一方、男性は奥さんのことだけは最後まで覚えているらしい。)。
ノムもうろ覚えだけど…と言いながら、石坂浩二が発したセリフを聞かせてくれた。
石坂浩二は「手紙っていうのは、愛を伝えること。そして手紙を書けるというのは、愛を伝える相手がいるということ」というようなセリフを言ったらしい。
真面目に胸の辺りが震えそうになった。
その後も普通にノムとおしゃべりを続けたけれども、私は慌ててノートを開いてノムが言ったことをメモした。
ブログに続きで書こうと即座に決まった。
ノムと私は最近よくテレパシーの話をする。
冗談抜きで、ノムが今話そうと思っている言葉をその直前に「ノム、〇〇って次言うだろうなぁ」なんてものすごい速さででもぼんやりと浮かべていると、本当にその思った言葉がノムの口から飛び出す。
ノムも同じことを言うし、さらには「なんか今僕が喋っているんだけれど、言わされてるのとも違うけれども、なんかぶっしーの代わりに代弁してる感覚がある」なんて言う時もある。
とにかくそうしたことがちょくちょく起こるけれども、その時は本当にもしかしたら茶封筒の主と茶封筒と私とが繋がるように、ノムがその話を突然したのかもしれない。
さらに言うと、加賀まりこや石坂浩二が考えたように、手紙は誰でも彼でもに書けるものとは違う。
相手がきちんと生きていて、伝えたい想いがあって、そして書く意志と書くための体とを兼ね備えて初めて書ける。
手が不自由だったり、書く気がなかったり、はたまた書けても相手が死んでいたのなら書いても渡せない。
手紙って本当に幾つもの条件が綺麗に揃って、そこで初めて成立するもんなんだなぁと改めて思った。
そして、それがたとえ一方通行でも、そういう相手に出逢えるというだけで、本当に奇跡なんだと知る。
茶封筒は、加賀まりこと石坂浩二のそれぞれの役が発した言葉そのものなんだと、そしてそれはどうやったって届かないものでもそれでもやっぱり価値あるもの、私にとっては生涯価値あるものとして生き続けるんだと思った。
>>>6月最初の月曜日
上のことは、今日6月最初の月曜日に書いている。
この後、ガチな話を全力で書こうと思っている。
茶封筒や星読みからは少し離れるけれども、「生きてるってこういうことなんだ」と思い知る場所に今日は行ってきた。
知り合いの方が4月の終わりに亡くなって、その亡くなった方がいつもいた場所に今日初めて行ってきた。
知ってる人がいないというのはとても変な感じで、いないことの方が違和感だった。
その場所に立ってみて、生きてることの凄さを本当に静かにでも強烈に感じて帰ってきた。
だからこそ、茶封筒も本当にあれは生きてる特権であって、たった1つのボタンが掛け違えば、全てが変わるんだということもまざまざと感じた。
亡くなった方は自殺だった。
生きてるということは、当たり前みたいに感じてしまうし、普段なんとなくのリズムで生きていると「生きてる」ことの自覚さえなくなるけれども、本当はそうじゃない。
あれは今日も生きる選択をしないことには、いくら命が与えられていても全うすることのできない大きなことなんだと思い知る。
だから、手紙を書くことも渡すことも、それは自分も生きていないともちろんいけないし、相手も生きていないともちろんいけない。
その2つが重なって初めて織りなされる。
そういうことも思った。
頭の中は色んなことが去来して上手く言葉にできない。
だけど、ただ1つ。
本当にあの時私は決断できて良かった。
手紙を書くことも、何の面白味もない茶封筒で手渡せたとは言えない押し付けたであっても渡せたことも。
生きてるって、そういうことを現実に本当に叶えてくれる最強ツールなんだと知る。