おいせさん手帳第17回目
担当:ノム
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5月21日
内なる子どもの興味のまま、行動してみませんか?
太陽が双子座へ
今日から双子座のシーズンの始まり。双子座は、好奇心旺盛なエネルギーです。
見るものすべてが新鮮な“子どもの目”を取り戻してみませんか?
いつもと違う道を冒険するような気持ちで選んでみる。
思っていることを、人目を気にせずに喋ってみる。
公園の芝生を裸足で歩く。自分の中にいる内なる子どもと遊ぶように過ごしてみましょう。
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私が話す時の基準の1つに
「これを言ったら相手はどう思うだろうか」
というのがある。
それは相手への気遣いではなくて、自分がどう思われるかとか、相手が私を非難したり否定したりしないかという心配からくる。
その辺りの慎重さや神経質な感じは、子どもの頃からの癖で筋金入りだから、表面上適当に取り繕えても心の中では実はすごい警戒していたり相手の様子や態度を観察している。
そんな私がノムと話す時はガラッと変わる。
まずは、「こんなこと言ったら…」とかいう心配をすることがほぼほぼない。
もし気になるような何かを言う時は、「もしかして気になってしまうかもだけど」とか「こんなこと言って不快にさせたらごめんね」とか、こうして言葉にして書こうとすると何という風に具体的に言っているのか思い出せないけれど、何かしら前置きをしてから言っている。
それはノムも同じで、ひと呼吸置く言葉を言ってから本題に移っている。
もちろんいきなりそんな風になったのとは違うけれども、お互いに気にして、気にしながらの言葉も互いに伝え合って、確認し合って、その積み重ねの中で「話して大丈夫」という絶対的と呼んでもいいくらいの安心感を手に入れた。
今でも相変わらず確認する時はするし、何か前置きの言葉があった方がいいと思う時は前置きの言葉を言う。
なんだけど、言いながら実のところ、心の深い部分では「大丈夫」と確信しながら話し始めてるような気がする。
ノムと話す時というのは、ほぼほぼ雑談がない。
ごくたまに「何を食べた?」とは聞いても、気付けば常に中身の濃い話をしているから、実のところノムの日常の細かいことはほぼほぼ知らない。
ノムが家にいることや何かを書くこと描くこと、ぽつんと一軒家が好きなテレビ番組の1つなこと、ごはんはミッチーが作ってくれること、2人のお風呂の順番、マニアックなことはあれこれ知っているけれども、多分だけど、世の中でよくされるタイプの雑談はしない。
ほとんど全ての会話は、「自分の中にあるもの」を中心に繰り広げられる。
それは日常の中にある出来事の場合もあるけれど、それだって導入にしか過ぎず、そこからどんどん自分の深いところに潜るような話を延々と2人でする。
私は仕事の悩みや困ったことをあれこれノムに話すけれども、それも多くの場合ノムの知恵が欲しくてとか、そこから感じる自分の内面を放ちたくて、それで話している。
単なる愚痴とはだいぶ様相が違う(ノムはどう見ているかは知らないけれども)。
2人でする話は、どこからどこまでも自由で枠がない。
枠があるとするなら、「自由に話すこと」になるかと思う。
2人の中の暗黙の了解がある。
「否定しないこと、傷つけないように気をつけること」
別にそれは相手がノムだからとか、相手がぶっしーだからとかいうことじゃない。
相手が誰であろうとそれだけは自分でも気をつけるように普段から心がけているし、ノムもそれを日常的に実践していることは話を聞いていたら伝わってくる。
だからこそ安心して話せる。
否定されないって知っていたのなら、本当にどこまでも安心して自分の思ったことや感じたことを話せる。
これをアップする何日か前にノムからメールが来た。
「ぶっしーにも送りたい! ってまた衝動。」と言いながら、ノムが昔書いたという小説が送られてきた。
ノムいわく10000文字近くあるとのこと。
それを躊躇せず送ってもらえたのもとっても嬉しかったし、そして私は私で「ノム昨日は小説をありがとう❣️あれはね、夜中目覚めた時とか週末の夜明け前とかに読もうと計画中!読んだ後にもう一眠りできる状況下で読みたいなぁと。」と返した。
ノムはそれに「ぶっしー、メッセージありがとう! 光栄だなんて、こちらこそ光栄だよー! その、読みたいシチュエーションも完璧!笑 なんというか、もう、小説世界にチューニングしてくれているって感じてほんとにうれしいし、すごい感性だなあって思う😍」と返してくれた。
こういうノリ、いいなぁと心から感じる。
自分の創作したものを人に届ける、ってすごい勇気がいる。
人生の中でもハードル高めのことの1つと言える。
私は普通に読むシーンを想像してそのように書いたけれども、それだっていつもなら言う言わないをものすごく迷う。
ノムならそれに乗ってくれるというのがわかるから、だからそんな風に返信することができる。
躊躇せず不安にもならず、思ったまま思ったことを言えるのって、大人になればなるほどその価値の重みを感じるし、そういう人に1人でも生きている中で出会えたのならウルトラスーパーラッキーになる。
私は予告通りノムの小説を週末の朝、外は明るいとわかるぐらいだから5時前頃に一度目覚めた時に読み始めた。
双子座の新月を過ぎて3時間くらいの、土曜日の朝早くに、まだぼーっとした頭でピンクの文字を目で追った。
ぼーっとしたままだけど、どんどん物語の中に吸い込まれていく。
しかも、何も見ずの状態で、変な時間に目覚めてその後二度寝ができる環境下で読みたい!と思った私の野生の勘は大当たりで、まだ起き上がっていない時間に読んでその後にもう一眠りするにはこれ以上ないしっくりくる話だった。
細胞にやさしく語りかけるみたいな感じで、ノムに聞いてこのブログで紹介するなりリンク貼るなりしたいなぁと思う。
まだはじまりのところしか読んでいないけれども、その中に「死ぬ間際に思い出す会話」みたいな言葉が出てくる。
ノムとの会話のどれかは間違いなく「死ぬ間際に思い出す会話」の1つに出てくる気がする。
本当は、おいせさん手帳の当日にアップしたかったけれども、その日もその翌日も寝落ちして書けなかった。
だけど今回はどうしてもアップしたいことで、その中の「思っていることを、人目を気にせずに喋ってみる。」の部分に焦点を当てて書ききりたかった。
本当はもっともっと言いたいこともあったけれども、あれこれ講釈を垂れるよりも、ただただ思いついたまま書いたこのスタイルの方がしっくりくる。
今朝(5/23)の新聞のコラムに、私とそんなに年の変わらない映画監督が、コロナによって信じていたものが色々覆されて何も信じられない時代になってきたみたいなことを書いていた。
何も信じられない、何もかもが嘘の上に成り立っていて今はそれが暴かれている、そういう流れだというような内容だったかと思う。
私はそれを流し読みしながら、猛烈に「違う」と思った。
私は逆だった。
たしかに色んなことが明るみに出てはいるけれども、その中でも絶対的にあるものがある。
嘘や虚構の上に成り立っていた多くのものももちろんあるけれど、それでも確実に残るもの、それでもいつでも真実を貫き通すものがある。
「思っていることを、人目を気にせずに喋ってみる。」
これができるというのは、どれだけの大きな可能性で希望だろうと思う。
そこにプラスして、それをシェアできる誰かが現れることを私は本気で信じていたし、今も信じている。
実際にノムという人が現れて、お互い好き放題に喋ってシェアしている。
まさに奇跡のような瞬間に巡り合って、そして可能性や希望は現実のものとして今目の前にある。
ありのままをシェアできる誰かがいるんじゃないか…という希望を捨てたくなかった自分に、「願えば叶う」こと、「信じたもの勝ち」な世界をノムは見せてくれた人だった。
絶望感たっぷりの自分の人生に私は光をどうしても見出したかった。
絶望するために生まれてきたわけでも生きているわけでもない。
どこかに明るいものや心安らぐものがあるはず、そしてそれを共有できる誰かもこの世に必ずいるはず、それを信じ続けた自分に降って湧いたプレゼントだった。
ノムの書く文章にこれまでもたくさん触れてきたけれども、今回のおいせさん手帳の言葉には別格の想いがある。
もしかして、おいせさん手帳が存在しなければ、今回のノムの言葉もこの世にこんな風には生み出されないままだったかもしれないし、そしてそこからこんな風に私が色々と感じることもなかったかもしれない。
すべては贈り物だなと思う。
(今から約10年前に書いたとのこと)
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