(先日から、写真が反転してしまう…
本当は2つとも縦の写真)
40歳最後の日。
40歳をどんな風に祝ったのか全く記憶がない。
写真もなければ、今さっきメモのような走り書きの携帯メモを見つけたけれど、それくらいしか記録がない。
うっすらと今思い出したのは、なけなしのお金で花を一輪買って、その時の花が「ご自宅用ですか?」と聞かれて、そうですと答えると新聞紙でくるっと、雑ではないけれど適当に包まれて渡されたのを見て「プレゼント用って言えば良かった」というのを思ったこと。
もう1つは、お金がかけられない分、そのかけられない中でいかにお祝いをするかを真剣に考えた気がする。
あとは、いつか盛大にお祝いするのもありだなと思った。
記憶はそんな風によみがえってきた。
当時のブログを見ると、山で行方不明になったおじいちゃんの霊が出てきた後にあった色んなことをひたすら書いていた。
当時はかなり特殊な文章を書いていた。
書いているのは自分でも、書く内容は私が決めているのとはちょっと違った。
書く内容が手渡されるみたいな感じで、そのやってきたものを記録するように私はひたすら書いていた。
だから自分のことを書くにしても、それは今みたいなスタイルとはだいぶ違って、見えないところで神々の審議会が意図しているみたいなことを感じさせる文章だった。
さらに言うと、当時は色んなことを雲の上から眺めるように色んなことが重なり合っているのが見えていた。
死んだらそういう風に人間界を眺めるんじゃないかと思ったくらいに、不思議な感覚だった。
物事の本質的なものや、その本質的なものが起こる仕組みや流れみたいなのをひたすら見ていた。
今思えばそれも大きかったかもしれない。
それが見えた時に、「悪いことなんか1つもない」と思った。
人間的な不都合はあっても、それさえも必要があって起こっている。
しかも、不都合であればあるほど重要な何かがその裏側には絶対にあって、それ以上のギフトが本当はセットである。
そのギフトにいかに気付けるかだと思う。
強いて言うならば。
すべての出来事に共通しているのは、「いかに自分にやさしさを届けるか」だと思う。
他者はついでというかオマケみたいなもので、強烈な状況であればあるほど、いかに自分にやさしくできるか、自分の心が瀕死の時にいかにその自分を大切にできるか、それがすべてなんじゃないかと思う。
>>>2019/03/11 1:17
まだまだ39歳。
あと7時間少しで40歳。
30代はちゃめちゃ過ぎてどうなるかと思っていたけれども、終わってみたらものすごく大きなものを手にした10年間だった。
何も後悔していない。
39歳最後の夜、ものすごく満たされて眠りに就く。
ゼロからのスタート。
40歳は自分1人でスタート。
これまでの自分がここまで連れてきてくれたから、その自分で新たなはじまりを迎えられる。
どんな風になるのか楽しみ。
39年間走り続けた自分におつかれさまとありがとうの気持ちでいっぱい。
そういう穏やかな気持ちで39歳を締められて、そして次の40歳を迎えられるのはとっても嬉しい。
本当に嬉しい。
祝☆39年間の命のバトン
祝☆40歳からの自分
ギリギリ39歳だった私が書いたメモを携帯メモから見つけた。
30代の自分は「自分基礎力」みたいなものをひたすら身につけようとしていたのかもしれないなと思う。
何をするにしても自分が大事だし、とにかく自分と上手く付き合うのか、こじらせ超得意な自分と何としてでも二人三脚できるようにするのか、そんなことばかり一生懸命だったと思う。
30歳の自分と比べたら、孤独との付き合い方、苦手な自分との向き合い方、逃げ出したい状況の中でも自分にやさしくする方法、そういうのはかなり上手くなったと思う。
それだからなのか、40歳の1年を振り返ると、真っ先に「なんか良かったな」と思った。
すべて何とかなったし、今も相変わらずドタバタしているけれども、これはこれで良い経験をしていると思う。
1年の3分の2はニートというか、社会的には何もしない自分でいたけれど、その時だってものすごく大切な体験をしていた。
情けない自分も自己否定する自分も、自分が嫌になった時はたくさんあったけれども、そして布団の中に逃げ込んだ日も数限りなくあったけれども、それでもやっぱりどんな時も私は私だったなぁと思う。
米の仕事に行ったことやノムとおいせさん手帳のメッセージを書いていた時のこと、今の英訳を始めたこと、それらと同じ位置に「家にほぼほぼずっといたこと」も並ぶ。
優劣はない。
すべてがどれもこれも命の時間だったと思えている。
そう思えるのが嬉しい。
そう思えるくらいに、自分のことをケアした証だから、それは本当に嬉しい。
私がしたのは、
自分に嘘のない生き方
それだと思う。
「自分が納得する生き方を」
2017年の10月のある日に言われたことだった。
私の目を見て、その場で感じたものを書でメッセージを書いてくれた人から教えてもらったメッセージだった。
その時にこれも言われた。
「自分が納得する生き方をするというのは、社会の中で逆風も吹く。吹くけれども、もうあなたにはそういう生き方しかできない。目を見たらわかる。それが先祖代々家系的なものなのか、はたまた自分の中に脈々と流れるものなのか、ものすごくはっきりとした意志を持って今生生まれてきている。世間とか社会とかではなく、自分がとにかく納得すること、それが一番大事だと思って生きようと決めてきている。だから、自分が納得しようとすればするほど、逆風は吹く。それで辛いことや苦しいこともあるかもしれない。だけど自分が納得するためにがんばれ!」
そんなようなことを言ってもらった。
その時に言われたことの意味が今2年半かけて少しずつわかるようになってきた。
今の仕事はそういう意味でものすごくわかりやすい。
昨日女上司から言われた。
当初、女上司も周りの人たち人たちも、英訳する時に私が技術担当者にみっちりと確認をするのを「そこまでやらなくても…」とは言わなかったけれども、好意的に思ってないのは明らかだった。
昨日も昨日であったけれども、日本語ならそのまま意味が通じるものでも、英語にすると「and」なのか「or」なのかで意味が全く変わるものがあった。
それもまた聞きに行った。
最初に分厚い英和辞典みたいな技術書を私の目の前で机に強く叩きつけた技術者が今回の担当者だったから、恐る恐る聞きに行った。
周りの人たちがその人を良い人だと言った理由がわかった。
この手の質問は9割方煙たがられる。
あからさまに嫌な顔をする人たちもいる。
だけど今回の人は違った。
「そりゃ意味変わるよな。ちょっと待って、考えるから」みたいなことを言って、最後まで付き合ってくれた。
しかもいい加減なのがその人も嫌なんだと思う。
そういう細かな確認に関しては、最初から最後まで一切嫌がらずに丁寧に対応してくれた。
本当にありがたいことだった。
しかも「最後とか言わず、他にも何か(質問が)あるなら(聞きにきて)いいからね」とも言ってもらえた。
そんなこんなのやりとりの後、席に戻るとまたいきなり締切を前倒しで変更された英訳について女上司から説明された。
その時だった。
女上司は私に言った。
「武士俣さんを見てて、これまでの英訳担当者はどうやって英訳してたんだろう?って思う」
この言葉はものすごく嬉しかった。
私がやっていることが異質なのではなく、私がしていることはごく当たり前のことだった。
技術的な内容がわからない以上は、それはわかる人たちに確認するしかない。
だって、機械が
・AとBの両方の条件が揃って稼働する
・A又はBの条件になれば稼働する
では全く意味が違う。
私が確認しているのは、そういうことばかりで、これがまた日本語読んだだけじゃ、どちらの意味にも捉えられてしまう。
だから確認しに行く。
だって本当は下なのに上の両方の条件が揃って…なら、まだ最悪の事態は免れると思う。
だけど、反対に訳されて、揃わないといけないのに片方だけOKのまま稼働したら、機械が壊れたり使えなくなる可能性まで出てくる。
その確認を「やりすぎ」と当初は見られていたわけで、私の前任の本物のバイリンガルな彼女みたいな語学力がなければ、私みたいにたかだか大学生を4年やっただけの人間では太刀打ちできない。
自分の能力を大きく見積もるのは大間違いだし、ましてや言葉1つで伝わるものも変わるわけだから、それはより一層慎重にならないといけない。
そんな私を見て、女上司が初めて言った。
他の人たちはどうやって英訳していたんだろう?って。
そう、やっと伝わった。
私がやりすぎなんじゃなくて、私が当たり前のことをしてるに過ぎないことがようやく伝わった。
同級生の同子ちゃんは、私に「仕事が遅い。余計なことをしている」と英訳者が私1人になって1ヶ月くらいした時に言ってきたけれども、当初は涙まで出てきたけれども(自分1人の時に)、昨日これまた同子ちゃんも言ってくれた。
私は自分が重箱の隅をつつくような質問をたくさんしているのはわかっているし、さすがに躊躇する気持ちもある、どうしたらいいかを聞いた。
同子ちゃんは「女上司にとにかくこれでもか!ってくらいに確認取りまくったらいいと思う。確認すればするほど、向こうもどれだけすごい(酷い)ことになっているのか気付くと思うから、とにかく細かくても聞いて聞いて聞きまくったらいい」と言った。
私は最初から何ひとつ変わってなくて、やり方も不器用だし、面倒な人と思われてるんだろうなぁなんて感じるけれども、周りの人たちの感じ方が変わってきた。
私がしてるのは、本当にごくごく当たり前のことで、企業のペースとは若干ミスマッチ風ではあるけれども、それでもどう考えても本来あるべき姿のものに近くなるようにはしている。
私が今社長自らも頼む案件の英訳は、契約継続か破綻かの瀬戸際にあるもので、そういうのを見ると本当に思う、いかに日々の小さな積み重ねが大事なのかを。
だから、2年半前に言われたように、逆風もたしかにたくさん吹くは吹くけれども、そこで自分の思うことや感じることを貫くのが大事だと思っている。
幸いにして、私は過去の色んな仕事で、みんなにとって良いもの・助かるもの・問題回避できるものなら、どんなに状況が不利でも必ずそれを一緒に考えたり動いてくれる人たちがいたから、それを言うのは基本的にそんなに怖くはない。
逆に内容が理に適っていればいるほど、必ずそれを支援してくれる人たちが出てくるから、あとは根回しと詳細のやりとりを水面下で整えたら、よほどおバカな上に当たらない限りは何とかなる。
よくはわからないけれども、とにかく「自分が納得するもの」というのは、こういうことを指すんじゃないかなと思う。
41歳というか、残りの人生でやりたいと思ったことが1つある。
今、朝ドラ(『スカーレット』)にハマっている。
最近の話の中で、主人公の女性陶芸家の喜美子が陶芸教室を始めた。
喜美子は、来てくれる人たちととびっきり素敵な時間を、その時間があって良かった!と思える時間を、陶芸教室を通じて持ちたいと誰かに話した。
せっかく来てもらうから、その時間があって良かった、そういう時間が人生の中であって良かったというものを来てくれる人たちと一緒に作っていきたい、そんな感じのことを言っていた。
それを見て、私もそれをしたいと、何の抵抗や気負いもなく、自然とそんなことを思った。
喜美子が陶芸をするように、私も私だからできることを通じて、それを手段として使って、縁あって繋がる人たちとそういう時間を、一期一会の時間を持ちたい、そういうことを人生の中で生み出していきたい、そう思った。
今年中に叶えるぞ!ではなくて、これからの残りの人生の中でそういうことを小さくてもやっていく、それを形にして自分にプレゼントするみたいにしたいと思った。
これまでも何度となくそれを想像してきたけれども、今回は少しだけ違っている。
他人の目や社会の目ではなく、何かやらなきゃという使命感でもなく、そっと自分の中で「そうしたいなぁ、そうなったらいいなぁ」と純粋に感じてるところがある。
気持ちがまず最初に出てきたことが嬉しかった。
回り道して上手くいかないこともたくさん積み重ねて、それはそれでも良かったんだよとようやく自分に本当に言えるようになって、そのたくさんの苦しいことや生きづらいことの先に今があって、そうした今「〇〇したいなぁ」と思えるのは本当に嬉しい。
自分にしてあげられなかった色んなことを、これから少しずつやっていったらいいんだと思っている。
40歳最後の思い出。
今さっき、家のテーブルを注文した。
父と母があとどのくらい生きるかは知らないけれど、2人が死ぬまで使い続ける毎日の食卓用の職人さん手作りの木のテーブルを注文した。
2017年の冬に今の建て直した家に引っ越してから、引越しのお祝いもできず、かと言ってじゃあ2人にテーブルをプレゼントするためにと働きもせず、色々心苦しかった。
おかげさまで、今モリモリと残業しているから( ̄∀ ̄;)、余剰なお金が生まれて、そしてやっと3年越しに誕生日祝いも兼ねた引越し祝いをプレゼントできることになった。
支払いは明日以降にしても、40歳最後の買物がこんな風に思い入れのある、そしてとても気持ちよくお金を出せるものにすることができて本当に良かった。
小さなチクリも2つ3つ今日1日を通じてあったけれども、それでも自分で良い1年だなぁと思って40歳最後の日を過ごしている。
ほっこりした気分で1日を締めくくれそうでとても嬉しい。
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