2020年2月21日金曜日
⑻【おいせさん手帳】目に見えない大切なもの
おいせさん手帳第8回目。
担当:私
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2月21日
形のないものを大切に育む。
太陽が魚座へ
目に見えない「ご縁」や「愛」は、形はないのに心惹かれます。
そうしたものに共通しているのは、「心で感じる」ということです。
正解も不正解もなければ、計画的に手にできるものでもありません。
ですが、そうしたものに出逢うと、心を通じてわかります。
心を通じて感じたものを大切に育む、それがご縁や愛となっていくでしょう。
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この文章を書いた時の感覚をとてもよく憶えている。
ノムと分担して星にまつわる話をそれぞれ書いたけれど(ノムにわざと多く振ったけれども( ̄∀ ̄;))、この魚座のエピソードは自分の中で何も難しく考えることなく、スラスラと言葉が出てきた星の話だった。
「魚座」と聞いてまず連想されたのは「目に見えないもの」だった。
目に見えないものの領域を司るのが魚座と言われている。
目に見えないもの
目に見えないもの
目に見えないもの…
「ご縁」と「愛」がポンと浮かんだ。
そして残りはスルスルと出てきた。
魚座のこの文章は、担当者の方Aさんから、星座の話が全種類ないのは構成上違和感があるから、全種類揃うように第1稿になかった星座は追加で書いて欲しいと言われたものの1つだった。
その連絡をAさんに入れる時、ノムがちょうど2人展の開催中で、在廊アンド最終日で連絡を入れられなくて、代わりに私がAさんに初めて連絡を取れる機会をもらえたり、そして依頼された分に関しても私がノムと私とでどこを分担するか決めることができた。
7つの星座が追加となって、私の決め方は今思い出すと粋なのかシュールなのか面白いと思うけれど、ペンジュラムでノムが私がどちらがどれをするのか決めたんだった。
まさか手帳を手に取る人たちも、どの日に誰が書くかをペンジュラムを使って選んだとは思わないだろうと思う(笑)。
だから追加分として書いたこの日は、字数制限があることも全部知っていたけれども、とにかく魚座のこの文章はスラスラと書けた。
言葉の神さまが降り立ったみたく、本当にスラスラと何のためらいもなく書けた。
全部で20ちょっとの文章を書いたかと思う。
文章を書く時に特定の風景や人が思い浮かんだものも中にはある。
これもそうだった。
私がこの文章を書いた時に、「ご縁」と「愛」、そしてそれらが【「心で感じる」ということです。正解も不正解もなければ、計画的に手にできるものでもありません。ですが、そうしたものに出逢うと、心を通じてわかります。】というところまで書いた時、私の中にははっきりと1人の人物を思い浮かべて書いていた。
最後の【心を通じて感じたものを大切に育む、それがご縁や愛となっていくでしょう。】は、残念ながら現実にはそうならなかったから自分の願望も含まれていたけれども、少なくとも【「心で感じる」ということです。正解も不正解もなければ、計画的に手にできるものでもありません。ですが、そうしたものに出逢うと、心を通じてわかります。】の部分は、明確に1人の人が私の中にあった。
心で感じたこと。
自分でもどうにも止まらない、だけど心はそのようにものすごい勢いで感じていたこと。
正解も不正解もなくて、だけど心は正解だからご縁や愛を感じるものじゃなくて、誰かこの人が自分にとって大切であれば、そうだとわかるように心が全力で自分に知らせてくる。
正解だから縁となって愛となるんじゃない。
そうしたものを飛び越えて、縁や愛となっていく。
そして、そういうものはある日突然もたらされる。
「素敵な出会いが欲しい」と言って、出てくるものじゃない。
計画なんか全くしてないところに、突然自分の人生に相手は現れてくる。
そして、その人がその出会いがそうだとわかるのは「心」を通じて。
心が、心臓が勝手に動くのと一緒で、心も勝手に動く。
「この人のことを良いと思いたい」とか「この人のことを愛したい」とか「この人のことを大切にしたい」とか、そういうのって考えて又は計画してそうなるものじゃない。
本当にそうなる時は、自分でも止められないし、その止められない何かにものすごく抵抗や違和感を覚えてもそれでも止まらない。
心臓が勝手に止まらないのと一緒で、心で感じているものも止められない。
そのようなことを私はずっと1人のことだけを思い浮かべて書いていた。
相手の人は、何もない時は私の気持ちは何も知らなくて涼しい顔をしていて、いつも私1人だけが心臓をバクバクさせてた。
私が近づこうとごはんに誘ってみたら、突然冷たく、なんていうかわいいものじゃなく、徹底して嫌そうな感じになってしまって私の心はボキボキと折れまくったけれども、それでも私の中にあるものは何ひとつ変わらなかった。
その人がいた色んな風景を逡巡しながら、そしてもう二度とは巡ってこない日々に自分の気持ちのやりどころのなさを感じながら、それでも最初から最後まで書きながら頭の中にあったのは、その人のことだけだった。
私がこんなことを書いたところで、おいせさん手帳を本人が手にして、そのページをめくってその部分を読むことなんか絶対になくても、私が新潟のこの地で自分の小さな部屋の中で書き下ろしたそれは、その人のことが自動で出てきて書き上げたものだった。
育む機会も手にできなければ、愛と呼べるものを手渡すことも何もできなくても、だから実際に書いたことと現実とがずいぶんと乖離している部分もあっても、それでもその文章はその人の存在やその人がいた風景に直結するものだった。
本人に伝えられるような状態にあれば、私は本人に「見て見て!」と冗談のように何かを言ったかもしれないし、何かしらのエピソードを自分の口から語ったかもしれない。
そのどれも叶わないから、今の現実になっているわけだけれど、それでもこの文章はある1人の人と結びついている。
今世界の人口が何人なのかわからないけれども、最後に世界の人口を調べた時は70億人前後だったと記憶している。
そんなにたくさんの人がこの世界のどこかで生きている中で、たった1人の人だけが思い浮かんでその文章を紡いで発信する、それも公共の電波じゃないけれども、公の印刷物を通じて発信する、そんな機会、もう他にないだろうなぁと思っている。
その人に向けて書いたものではないけれども、その人のことが文章の中にずっと入り込んでいて、その風景やその人自身も一緒に織り込まれて言葉となったものだった。
もしかすると、その人に出逢っていなければ、私は今日のこの文章は全く違ったものになったかもしれない。
ご縁だの愛だのではなく、自分の心の奥深いところに潜るだの、境界線を越えて人と繋がるだの、そんな内容になったかもしれない。
少なくとも、その人を思い浮かべて文章を書くことは絶対になかった。
この短い言葉の中に、この世に今生きている誰かを想って書くというのは、ものすごく特別なことだと思う。
今の仕事の関係で知った何かの単位(←何かは早速忘れた)は、1ミリのさらに1000分の1だと説明されたものがあった。
ミクロの世界のもので、そこに一発である道具を命中させるなんてことはできない、その難しさを教えてもらったことがあった。
その人が私の人生に現れて、そして本人はとっくのとうに私の人生からいなくなってもそれでもこんな風に文章という形で現れるなんて、まさにミクロの確率のものに一発でそこに命中させるぐらいのありえないことだとわかる。
その人と私とがこんな風にどこかで交差して出逢う、すれ違っても今度は言葉の中に現れる、それがどれだけすごいことなのか、その重みや凄みはその人が日々私の生きている世界にいた頃よりもいなくなった今の方がもっともっと強く感じている。
そんなこんなの気持ちや想いがのった文章が今日の分だった。
一期一会。
もう二度とはないもの。
悲しみよりも、そんなすごい一期一会に出会えたことのすごさを今これを書きながら感じている。
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