2019年11月12日火曜日

頼られること VS 使われること

今日洗い物をしていた時に思ったこと。

前々から、前々というのは何年も前から、私は同じ行為をする時でも、それに対して気持ち良くやれる時と反対に怒りが沸いて仕方ない時とがある。

家族の人数が増えた時の洗い物がまさにそうで、これこそ過去に何度も何度も怒りが沸いた。

洗い物そのものに怒りを覚えてるのとも違うし、量が増えたことに怒っているのとも違う。

量が増えて面倒に感じても、それがすなわち怒りにはならない。

そんなこと考えながら洗い物をしたら、はたと気付いた。

私の怒りの沸点は、内容云々ではほとんどなく、相手側から自分がどう扱われるかでガラリと変わる。

無意識に相手側が私を使おうとする時、それが洗い物でも仕事の場面やプライベートの場面でも、それは確実に私の中の怒りが一気に湧く。
(「湧く」はないところに突然何かが現れることを指して、「沸く」は元々あったものの状態が変化する、例えばお湯が沸くようになることを指すとのこと。この場合は、「湧く」の方。)

よーくよーく思い返してみると、私の怒りのポイントはまさにそこだということがわかる。

例えば「人の話を聞く」ことを挙げるなら、私は聞いてて怒りが湧く時と、素直に親身に聞いている時とがある。

相手が私を利用している、私を意識的にも無意識的にも使っていると知ると、私は後からフツフツと怒りを覚える。

他にも何か頼まれる時、さらりとやれる時と何か言い訳をつけてまで避けようとする時とがある。

その時も相手のあり方だというのがわかる。

何か私がすることに対して、それが当たり前のように扱われたり、私が相手のためにそれをすることが当然のことのように思われると、怒りは一気に沸点に達する。

過去のイライラはそれですべて説明がつくと言っても過言ではない。

反対に、同じ行為でも、相手から頼られているとわかると私は気持ち良くやれる。

そして、そういう時、相手の人というのは私のやること、それが1枚の皿洗いでも、話を聞くことでも、そこに対して当たり前という風には捉えていない。

ありがとうの言葉やねぎらいが欲しいというのじゃない。

そういうのは肌でわかる。

相手が本当に必要としていて、たとえ小さなことでも当たり前と捉えていないか、反対にそんなのは取るに足らないことで私がすることが当たり前でどうでもいいように考えているのか。

必要とされても、利用されてるとわかるケースもある。

その差を言葉で示すのは難しいことだけれど、自分の反応を見ていたら少なくともわかる。

私がムッとしたり感情的にわだかまりを覚える時は、必要とされる以上に使われている。

そしてありがとうと言われても、ねぎらわれても、私には違う感覚が伝わってくる。

だから、ありがとうの言葉やねぎらいじゃないことは、そういうことに繋がる。

表面だけいくらきれいに取り繕っても、必ずほころびが出てくる。

むしろ、「ありがとう」がなくても、この人は私を必要としてくれていて、私のすることが当たり前ではないこともわかっている、というのは何となくわかる。

頼られてることと使われてることの差、そしてその差が私の怒りの原点であるってわかってかなりスッキリとした。

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