マンガ『きのう何食べた?』より
私は夢の中にいた。
見たことのない事務所にいたけれど、私は過去に勤めた、とある職場にはいた。
これも実際の仕事にはなかったけれど、いかにも当時の仕事の延長のような仕事だった。
監査が入ることになって、私は印鑑漏れがないかどうかを全てチェックして、それを担当者たちに引き継いだ。
担当者は2人いて、1人は当時の新卒の子、Yくんだった。
Yくんにいつまでが締切で、そのためにどこのページを確認するのか、確認後の押印なんかを説明して、ドサっとファイルを渡した。
そうこうしているうちに、トップも事務所に戻ってきた。
夢の中では、時間の設定は「今」だった。
今というのは、紛れもなく2019年の10月。
トップの人と私とがやりとりするのは、夢の中でも最後に顔を合わせた2年ぶりということになっていた。
なんとなく気まずさもあったけれど、もう2年も経ったからいいだろうと思った。
自分の机の中なのかキャビネットの中なのかも大幅に片付けて、使えるものも一通り集めておいた。
トップのその人のところに行って、Yくんに監査のためのファイルを渡してあること、それとは別の押印用ファイルがあってその人の最終チェックと押印が必要なことなんかを伝えながら、該当ファイルを手渡した。
使えるオフィス用品も手渡した。
私は普段通り話をして、いつが締切だからその前に私ももう一度抜けがないか確認したいからいつ締切を設定するか話し合った。
話し合いながら、私はまたその1週間くらい先の日にその人とやりとりできるんだなぁ、嬉しいなぁなどと思って、その人の返事を聞いていた。
オフィス用品を手渡したりする時、二度ほど指先が触れた。
ドキドキしながら、ラッキー♪と1人でルンルンした。
その人もその人で時間薬のおかげなのか、私の目を見て話して確認して、なんなら笑顔まで向けてくれていた。
その辺りで目が覚めた。
それが夢だとわかっても、私はしばらく夢心地でその夢を目を閉じながら反芻した。
なんだか癒された。
過去を癒す時の手法の1つに、過去に実際にあったことに対して、本当はこうあって欲しかったことを記憶と入れ替えるみたいな方法がある。
夢の中の出来事はあくまでも夢だし、それで過去が帳消しになることは絶対にない。
だけど、目が覚めてすぐの私は、最後にその人とやりとりした時には絶対になかったことが夢の中では起きてくれて、その夢の中で起きてくれたことに癒された。
夢の中の出来事でも、初めて私は癒された。
それは私にとって、もう死ぬまで自分の中にしまっておく記憶だと覚悟していたことだったから、まさかの夢の中で心理療法よろしくみたいなことが起こるだなんて、想像したことさえなかった。
現実は何も変わらないし、起こったことは起こったことだし、夢でいくら癒されてもそれが予知夢となって未来に似たようなことが、少なくともその人が私の人生にもう一度現れることもないと思う。
今年の年初めに、山で行方不明になったおじいちゃんの霊魂が私の部屋にいると知らされた時、霊魂が来ても生身の今も生きている人間で会いたい人に会うことの方が私の人生には起こらないことを嘆いた。
霊魂に必要とされても、その人には半永久に必要ともされず会うこともないと思った時の絶望感は相変わらず凄かった。
見えない世界のことは猛烈な勢いで色んなことが起こるけれど、その人のことは癒されることもなければ音沙汰一つなく、淡々と無情に時間が過ぎるばかりだった。
夢の中であろうとも、私はその夢の中で笑ってた。
この2年以上が経過した中で、そのことで私が笑ったのは初めてだった。
極限に達すると、色んなことはどうでもよくなる。
現実に笑えなければ、夢で笑うでも私の場合はOKなんだと知った。
夢の記憶はまた時間と共に薄らいでいって、現実の痛烈な瞬間だけが色濃く残るなんてことはあっても、一瞬でも笑って、そして私の妄想が炸裂したような夢の中ではその人も笑って、それでいいような気さえした。
現実と夢は全然違うし、現実はどこまでも私に冷酷なものを突き付けてくるけれど、ほんの一瞬、時間にしたら1分程度のことでも、私はその夢の中で癒されて笑っていた。
そういう癒しもありだと思った。
そのことに関して、私は残りの人生で自分が昨日よりも今日、1年前より今癒されてたらいいなぁと思うようになったから、そのための手段は正直何でもいいと思っている。
どんなに時間がかかってもいいから、私は自分を癒していきたいと思っているし、本当に最近だと思う、次に進みたいんだろうなぁとチラチラっと一瞬だけ思うみたいなことが出てきた。
その人が他の人と違うのは、これは時間が過ぎてみなきゃわからないけれど、なんとなくその人というのは私のオカルトワールド系のことに関しては今後も大きな役目を担っていく可能性が高い。
この1年半で私が気付いたのは、大事なこと、人生で外してはならないこと、失敗の許されないオカルト的な出来事、そうした時にその人の名前を中心にその人にまつわる何かしらのサインがくる。
これ私にとっては超大事なことで、自分でもよくわからない中で全力でいかなきゃいけない時はあるわけで、でもそれが果たして本当に良いのかどうかというのはわからない。
想像してみて欲しい。
山で行方不明になった人を、自分の持っている道具と知識を使って探して欲しいと依頼される場面を。
そういう頭の隅から隅まで知恵を振り絞って、全身全霊で立ち向かわなきゃいけないようなことが私の人生には時々あるわけで、そんな時は本当の本当に毎度毎度超ウルトラスーパー心細い。
そういう時に、百発百中その人にまつわる何かが来る。
だから、その人というのは、本当に冗談抜きで魂の繋がりの強い人なんだと思う。
ちなみに過去をさかのぼって、その人と出逢う前、その人が私の人生に登場する前でさえも、大事な場面や大事な記憶の中にその人の名前と同じ誰かが関わっていたりする。
私がガチのソウルメイト的なものはいらないと思うのは、こういう時。
サインは超絶ありがたいし(多分本人は無関係)、ただでさえオカルト系のことは自信がないからそういう時にサインが来るのは本当の本当に助けられるのだけど、私はそれよりも普通にごはん食べに行くだの、メールやLINEで元気?と気安く連絡するだの、そういうのが欲しかったわけで、ガチの繋がりというのは何かが違うんだなぁと思っている。
心のお守りじゃないけれど、その人と出逢った一番の大きなところはそういうことなのかもしれないなぁ、と最近特にそう思うようになった。
だからそちらの方が満たされていれば、人間の私には不服でも、魂側の私の人生からしたら御の字なのかなと思う。
ただ、私は普通に生身の人間なわけで、仮にそうだとしても「魂の繋がりだから、そういうサインが来るのね!OK、OK!」などでは済まされない。
だから、自分の生身の気持ちや心との折り合いの付け方をこの先の人生で見出せたらいいと思うようになった。
相手も相手で、私の書く文章が何かしらプラスのものをもたらすなら、どうぞご利用下さいという気持ちもある。
自分もそういう役割なのであればお互い様で、魂の繋がりというのは魂的に相互扶助みたいなことはしても、人間的な付き合いの中での相互扶助はしないのかもしれない。
ちなみに人間的な関わり合いの方は、私が一番欲しくない結果になったわけで、もうこれはどうすることもできない。
やるだけやっての結果ゆえ仕方ない。
冒頭にこの間美容院で読んだ『きのう何食べた?』の中のケンジの一節の言葉を写メしたものを載せたけれど、たしかにやるだけやったから後悔はしていない。
あとはこの自分の中の折り合いの付け方、若干通常とは色々違う要素満載だけど、とにかく折り合いの付け方を獲得していったらいい。
そんな中、今朝の夢のような夢があったわけで、そして夢にまで見たような光景、少なくとも本物の最後は「拒絶」と言わんばかりの表情や態度だったわけで、そんな中、夢の中はとても穏やかで笑顔まで出てきたわけだから、これはこれで一緒に記憶の中に入れといたらいい。
私が少しでも生きやすいように、このことで少しでも息がしやすいように、そのためなら夢でも何でも私は活用する。
もう変えられないものはどうやったって変えられないから、せめてせめてこういう棚ぼた的なことが起こった時は私はそれの良いところだけいくらでも切り取って、自分の心のキズ薬にしようと思う。
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