2019年6月3日月曜日
手の向こう側の風景
テーブルに置かれたすぐ近くのNさんの手を何度となく見た。
物理的にNさんの手を見ていたけれど、私はその手を見る度に過去の全く違う時間にテレポートしていた。
Nさんとの楽しい時間を満喫しながらも、心は時々別のところへと旅立っていた。
その手を見ながら、私はある夏の日のワンシーンを思い返していた。
普段自分の「面倒くさい」が役立ったなんて感じることはほとんどないけれど、その時だけは「面倒くさい」と思って先延ばしにした過去の自分に心底感謝した。
1つだけ後から届いた資料を、私はその1つのためだけにファイル作りをするのがとても面倒に感じた。
いつかはやらなきゃいけないなら、他のファイルを作る時にまとめて作ろうと思って、ずっと放置していた。
今でも忘れない。
その資料の名前の中に「要(かなめ)」という文字が入っていた。
本当にこの資料は要となって、私に一生で一度のチャンスを与えてくれた。
なぜか私は「どうせしばらく使われないだろう」とタカをくくって、要となる資料をずっと放置した。
ファイル作りをして3ヶ月ぐらいになった。
ファイルを作る資料は予め本社から届く。
で、それは先をある程度見越して届くものだから、到着してすぐに活用されることはほとんどない。
だから、要資料(かなめしりょう)もその流れになると見込んで、私はそのままにしていた。
ところが、要資料が突然必要となって、私はその時急いで資料を作った。
普段ならたった1冊のためにファイルは絶対に作らない。
だけど、その時はそのファイルがチャンスに変わってくれるから、私はこれまでにないスピードでファイル作りに励んだ。
そして、それを必要とするだろう人のところにわざわざ持って行った。
私がしたかったのはそこだった。
本当に接点なんて何もなかった当時、私は何でもいいから接点となるものが欲しかった。
でも、そもそもない接点を意図的に増やすのは難航を極めた。
「不可能」とさえ言っても良かった。
本当に「ない」ものだったから、私の置かれていた状況や立場では、接点を増やせなかった。
だからいつも「待ち」の状態で、時々すごいボタンのかけ違いが起こって、それによって降って湧いてくる千載一遇のチャンスを待つ他なかった。
この時もそうで、想定外の出来事だった。
要シリーズの資料に急遽目を通すことになったらしく、他の資料は段ボールごと自席に持って行かれたけれど、要資料だけは私が面倒くさがってファイルを作っていなかったから、それで急いで作って後から直接持って行った。
私はこれ以上ないぐらいにテンションあげあげ、緊張もMAXになりながら、その席の人の元へファイルを持って行った。
私が見ても薄いとわかるファイルだったからどうするのが正解かわからなかったけれど、私はファイルを手渡した後、その場で相手が見終わるまで待機することにした。
相手はファイルに目を落としているから、私はここぞとばかりにその人見放題のわずかなからの時間を得た。
その時もオフィス用の机2つ分ぐらいの距離はあったものの、普段の接点のなさからは考えられないぐらいの近さで、その近さにいられただけでも私は嬉しかった。
他にもっと見る場所があったと思うけれど、私はその短くて長い時間をずっとその人の手を見て過ごした。
「短くて長い」のは本当に本当だった。
塊の時間としてはとてつもなく短かった。
だけど、一瞬一瞬で切り取った場合、時間はドラマのスローモーションの時みたいに、とてもゆっくりと深い印象を与えながら過ぎていった。
その時の私はまばたきすることさえ惜しいぐらいに、じっと相手の手を見ていた。
ずっとずっと見たくて仕方なかった。
手フェチということじゃない。
何せ近づくことがほとんどないから、手をはじめ体の色んなパーツを見ることができなかった。
顔だって全体像しか最後まで把握してなかったから、パーツパーツがどんな形なのかわからないままだった。
手はたしかにいつも外に出ているけれど、角度の問題もあって、とにかく見ることができなかった。
私の定位置からだと常に死角で、せいぜいデスクトップの先の頭がちょこっとか、立っている時や歩いている時の全体像をつかむ程度で、パーツパーツを見れるほどの好ポジションはほとんど得ることができなかった。
要資料を真面目に見ている人を前に、私はその人の手をじっと見ていた。
初めてきちんと見れたその手を前に、まずは見れたことに私は超感動した。
小さい子が何か初めて見るものを前にする時、「うわぁ〜!!!◯◯だ!」と声を跳ね上げて感嘆の息をもらす、あの感覚と私の心の声も一緒だった。
その人の手はその人の顔や雰囲気にピッタリの手で、とてもきれいな手をしていた。
長くて均整の取れた指で、本当の本当にきれいな手だった。
要資料の短さを恨みつつ、どうか1秒でも長く手を見させてください、ここにいさせてください…と願いながら、私はその人の手をじっと見ていた。
そもそも短い要資料、あっという間にその人は目を通し終わった。
夢のような時間は終わってしまった。
手の形を記憶できるほど、見ることはできなかった。
今でも手の形は大まかな形しか覚えていなくて、あの時ガン見した姿かたちは残念ながら記憶にない。
だけど、あの時ようやく見れた手と、手とご対面できて1人で机の向こう側でドキドキしていたことと、その人の近くに大義名分掲げていられたことと、そうした諸々が渾然一体となって存在した瞬間と自分の気持ちははっきりと覚えている。
近づきたくても近づけなかった当時、ほんの些細なことでも近づける時はとても嬉しかった。
今「嬉しい」って書いて違和感さえ覚えた。
嬉しいなんてそんな簡単な言葉じゃなくて、どこから湧き出るのかよくわからない、全身全霊で何かを感じ取っていた。
私はその場所に突っ立っているだけだったけれど、心の中はものすごいエネルギーに溢れていて、自分でもどうしようかと思った。
Nさんの手を見ながら私が自動回想したシーンはその場面だった。
そして、圧倒的な違いにも気付かされた。
今目の前でいくらでも見れるNさんの手を見ても何とも思わなかったけれど、私がある夏の日に見た手は、それを見てるだけで色んな感情が強く強く出てきた。
やっと見れた!だけじゃなくて、近くになれたことを喜んだり、妙な距離感がいかめしかったり、もっと見ていたいという願望だったり、時間がこのまま止まらないだろうかという願いだったり。
すごい限られた時間の中で色んな感情が爆発していた。
Nさんの手を見ても何にも感じない自分を見て、これが「差」だとわかった。
魂繋がりの強度の差だと思った。
Nさんとの時間は、本当に穏やかで心地良くて安全で安心だった。
自分をそのまま出すことにも抵抗がなければ、思ったことを思ったままに口に出せる安心感もあった。
Nさんも私も2人とも似てると思ったところもたくさんあったし、興味関心の対象も似通っていて、いくらでも話も話題も尽きないのはよくよくわかった。
前回の記事であえて「魂的な繋がりが強い」と書いたのは、ここに書く話と対比させるために書いた。
Nさんが私にとってどういう人物なのか、どういう影響を持つ人なのかを知れば知るほど、夏の日のあの人はあまりにも異次元なところにいたんだと知る。
Nさんと違って、共通点を見つける方が難しい。
どういう人なのか最後の最後までわからなかったし、その人がいなくなってからは本人ではなく本人以外の人たちから本人情報を得るという何ともおかしな情報キャッチの仕方をしていた。
もしかしたら知らない部分で共通点があるのかもしれない。
でも見たままの情報からは共通点は皆無だった。
色んな意味で危険なニオイしかしなかったから、私は最初は避けてばかりいた。
だけど、避ければ避けるほど、異常なレベルで存在感を発揮する人で、私は常に自分の中が混乱状態だった。
当時の私は「気にしていない」ことにしようとした。
すでに色々おかしかったけれど、とにかく「気になってるのは気のせい」だということにしたかった。
言葉も交わさないのに、どういうわけか気になって気になって仕方ない、近づきたいけれど近づくのも怖い、そもそも軽口叩くような人じゃないから近寄ることさえもない、なのにいる、常に自分の中にいる。
その意味が本当にわかるようになったのは、その人がいなくなって、時間も季節もたくさん過ぎて、色んなことが変わっても、その人のことだけがずっと変わらないままだということに気付いてからだった。
だから、例えば今回Nさんの手を至近距離で眺めた時、それは手を伸ばせば届くぐらいの近さなのに、私はもうその手を見ていなかった。
そこにはいない、そしてもう過ぎ去って二度とは訪れない時と場面を思った。
あの時のドキドキ感まで思い出せるぐらい、それぐらい私の中では強烈に鮮明に残った。
Nさんと私は、本当に魂的にお互いにタイミングが整ったらきちんと2人で会おうと約束してきたと思う。
Nさんと2人で会った時の空気の軽やかさや安心感、絶対的な安全網、自由に自分を出せる感じは、そうそうない。
本当にそれはそれでとても特別だった。
Nさんにブログ書いたことを報告してその後返信が来たけれど、Nさんも同じように感じてた。
「うまくいえないけど、ぼくも同じようなことを感じた、受けとってた。それが書かれてあってうれしいし、ほんとにご縁が深い関係なんだなってあらためて。ソウルメイト❣」
Nさんがゲイのおかげで、こういう話がとてもスムーズにできていい。
これがノーマルな男女なら、こんなこと言い出したら別の意味が追加されたり憶測されたりで、こんな真っ直ぐにはいかない。
という体験や感覚があったからこそ、夏の日のその人は、そんな次元ではなく、ありとあらゆる可能性を一挙大放出みたいな、喜びも悲しみもどちらも最大値でやってくるし、世に存在するすべてのものが押し寄せてくるし、あまりの未知な感覚に心はかなり不安定だった。
その人は私にとって特別すぎた。
Nさんの手を見ても本当に何にも感じなかったけれども、なんならこの手からあの絵(=プレゼントされた絵)が生まれるとすら思わない無頓着ぶりだったけれど、その人の手の時はそうじゃなかった。
手を見ている1秒1秒、レイコンマ1秒までその手が自分の目の中に映ることを本気で本気で喜んでいた。
触れたい衝動すらも忘れ去られてしまうぐらいに私はその手に釘付けだった。
自分の目の先にある人の命の形、この場合なら手がある、ただそれだけのことで私の気持ちは鷲掴みにされていた。
現代風に解釈すると、とてもおかしなことになるし、一歩間違えたらセクハラか!?ストーカーか!?みたいな話にもなりかねない。
アイドルを追っかけするみたいな感じになってる。
でもそうじゃなくて、魂が本気で生まれ変わっても再会したいと願って、それで本当に再会が叶った相手ならわかる。
魂が命を宿して肉体を持って、見える姿かたちになって目の前に現れる。
再会を心待ちにして、ようやく出会えたとするなら…。
あの時の私の感覚で、そしてあれからすごい時間が経過しても変わらない、むしろもっと強度を持って自分の中に残る今の感覚が正解なんだと思う。
人の手を見て萌えるなんて、日常には全くない感覚になる。
だけど、手を見てるだけで言いようのない感覚が内側から湧き出てくるし、自分でも今でも戸惑う感覚だったりする。
相手すらいないのに今でも戸惑うとは本当におかしな言い方だけど、本当にそうなんだから仕方ない。
多分、魂と魂が本気で約束してそれで出会えたからこそ、体を持ってもう一度命ある現場で顔を合わせられたからこそ、そういう不思議な感覚になったんだと思う。
ありえない話だけど、私は昨日「もしNさんがノーマルでフリーだったとして、その人の時みたいな気持ちになったか」という、検証を1人でしてみた。
居心地も良ければ、空気も似通っているし、関心の方向性も共通項ありまくりで、すごい気は合ったと思う。
物事の優先順位もかなり似たものを感じるし、生きていく上で大事なポイントも本当にそっくりで、お互いタッグを組んだら最強だなぁと思うぐらい。
(注:Nさんの気持ちは全く組み込まずに、私の妄想内での分析)
でも、絶対に手の向こう側で感じた感覚は生まれなかった、そう思った。
手を見た時に相手の命を感じる、相手の脈動や鼓動を形作っているものに想いを馳せる、そういう感覚にはならなかっただろうなぁと思う。
こういうのって自動反応のレベルだから、誰でも彼でもの手に反応できるわけじゃない。
むしろ未だかつて手に反応したことなんかその時以外にないからわからない。
一番近い感覚で、3歳の姪っ子メイの手を自分の方に引き寄せて見る時の感覚が少しだけ似ている。
たまに隣りで寝ているメイの手を自分の方に引き寄せて、メイの手を見つめたりさすったりする時がある。
この小さな手で一生懸命生きてるんだなぁとしみじみと思うけれども、それもそんなにずっとじゃないから、見るだけ見るとまた元に戻す。
その人の手はそれともまた全然違っていて、とにかく生きて動いている、生きて存在している肉体の一部を、しみじみとした気持ちで穴のあくほどに見つめていた。
それって恋なの?と聞かれると、私が思う恋の定義とはあまりにもかけ離れている。
私が見ていたのは、その人もだけど、その人の命だったと感じる。
生きてること、生きて会えること、その全てがすごい奇跡の上で成り立っているということを、私はその時ほど感じたことはこれまでの人生で一度もなかった。
Nさんと会っていた時間は、人生の中でもとても特別なものになることは間違いない。
でも命を感じるとか生きてることを自覚するなんていう、そういうそもそもの命の流れを自然にそして必然的に感じることはなかった。
それは普通に連絡が取り合えるからというのもあるけれど、仮に取り合えないような状況でも、そんな感覚にはなれなかっただろうと思う。
その境地の感覚に至るのは、相当なレベルの繋がりがないと無理だと私は思っている。
それこそそんな人にたとえ短い時間でも一瞬でもいいから人生で出逢えること自体が奇跡だと思う。
そしてこれは私が勝手に思っていることだけど、自動反応は魂がきちんと自分の体の中に内蔵させておいたチップ、プログラミングみたいなものだと思う。
誰でも彼でも反応してたら意味がないわけで、本当にこの人だよってわかるように、その人の時だけ反応する仕様に元々なっているんだと思う。
ときめくとか惹かれるとかそういう感覚なんかとうに越えて、命そのものがあることにただただ感謝する、それが明日も無事来ますようにと祈る、それを明日の楽しみに夜眠る、そんな風だった。
Nさんと魂の会合をしている傍らで、そしてそれを文章に起こしていた傍らで、私の中からずっと離れずに自動発信され続けたことは、その人の手と、その手にまつわる命の存在だった。
Nさんとの魂の会合を書いている時、書いていて楽しかったけれど、涙なんて全く出る場面がなかった。
あ〜楽しかったなぁとか、また会えるの楽しみだなぁとか、そういう気持ちこそ湧いても、基本明るくて心の同志みたいな感じで、とにかく魂が震えるような感覚にはならない。
これは書いてると、時々意味不明な涙が勝手にボロボロと出てきた。
1回2回じゃなくて、数回そういうことがあった。
咳が突然出てくる時とか、風邪引いた時の気付いたら鼻水垂れてたみたいな、ああいう感じで、涙が出てくる。
はたと気付いた時の私はいつも
Σ(꒪◊꒪; )))) Σ(꒪◊꒪; )))) Σ(꒪◊꒪; )))) Σ(꒪◊꒪; ))))
みたいな感じになる。
涙って無意識で流せるんだ…と感心してる場合じゃないけれど、本当にそれぐらい勝手に出てくる。
何でもかんでも魂のせいにするのもなんだけど、本当に魂なんだろうなぁと思う、涙を流してるのは。
人間の私には、何で涙が出るのか、それは何の涙なのか、そこにはどんな気持ちが含まれているのか、とてもじゃないけれど言葉では言い表せない。
言葉では言い表せなくても、感覚は強烈に残ったから、だから事あるごとに今も反応して勝手に涙が出たり、勝手に過去にワープしたりする。
魂だけはものすごくはっきりと感知していると思う。
この人だよ。
人生賭けて出逢いたかったのはこの人だよって。
写真は、姪っ子メイと2人でハートを作ったもの。指太なのはもうどうにも止められない遺伝の模様( ̄∀ ̄;)。メイと私は顔なんかさっぱり似てないけれど、この時の指の形を見て、うわぁー(  ̄Д ̄;)、こんなところ似なくてもいいのに…と思わずにはいられなかった。
でもこうやって2人でハートを作るのは楽しい時間だった( ´∀`)♡( ´∀`)
ちなみに、ひとりっ子のメイの服が毛玉だらけなのは、メイが3代目か4代目、幼児に絶大な人気を誇るアンパンマントレーナーをいとこの娘たち経由で引き継いだから。本人大のお気に入り。
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