2019年6月11日火曜日
2019年梅雨入りの頃
[写真]
ツイッターを見ていて見つけた言葉。
(「ヒャダインこと前山田健一」さんのツイッターをスクリーンショットさせてもらった。)
山ちゃんと蒼井優が結婚発表した後にたまたま見つけたツイッター。
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このツイート(↓)の「友人」は蒼井優でした。いい話だなー。
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「『誰を好きか』より『誰といるときの自分が好きか』が重要らしいよ」
と友達が教えてくれて、その通りだなあと思ったので書いておきます。
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先日、占星術講座の後、クラスメイトのNさんから「龍頭図」と呼ばれるホロスコープの出し方を教えてもらった。
普段使うのは、「出生図」とか「ネイタルホロスコープ」と呼ばれるもの。
そこに今現在の天体の配置をかぶせて、どんな影響がありそうかを見たりする。
ホロスコープには色んな読み解き方があるけれど、Nさんが教えてくれた「龍頭図」は初めて耳にしたものだった。
言うならば、普段のホロスコープが頭でわかるもの・意識の上に上るものだとするなら、龍頭図は同じ人やある特定の出来事に対して、奥側に秘められた魂の願いや本当の深い意図なんかを指す。
前者が意識できる自分の人生の取扱説明書なら、後者(龍頭図)は魂としての人生の取扱説明書で、もっと深い部分を伝えてくる。
龍頭図になると、色んなものがガラッと変わる。
本当にずいぶんと変わるから(ごく一部例外の人もいる)、私はまず自分の出生図で試して、その後他の意味ある日もそうなのか検証してみたくなって、同じように龍頭図を出してみた。
だから私は2年前のある人と出逢ったその日のホロスコープを龍頭図で出してみた。
その日のホロスコープは、過去のどこかの記事で書いたように、元々のホロスコープ自体にもとても深い意味があったし、私にしても私側の生まれた瞬間の天体たちと色々重なっていて、とても深い意味を感じた。
出逢うべくして出逢ったと知った。
龍頭図は特殊な決まりに沿って出されるから、私が頭で計算はできず全てシステム任せだから、出てくるまでどんなものが出てくるかわからない。
出てきた瞬間、息が止まった。
真っ先に目に飛び込んだのは、私のホロスコープで人生の中で目指すもの・目指すテーマと全く同じ度数が、その出逢いの日のそもそもの生まれ持った性質部分と全く一緒の度数だったこと。
少なくとも、この1年で100近いホロスコープは見たと思う。
もしかしたらもっともっと見たかもしれない。
そんな中で、私のその度数(正しくは【太陽星座】と呼ばれる、星占いで馴染みの星座占いなんかでよく使われる太陽の度数)と全く一緒の度数を持つホロスコープを見たことがない。
マニアックな話だけど、例えば私なら太陽星座と呼ばれるものが19.80という数字になる。
単純に言うと、円が360度で構成されているように、ホロスコープを出すのに使われる天体たちもその360度ある中のどこかに該当する。
だから、同じ度数になるには360分の1となるわけだけど、もっと綿密に言うと、例えば上の19.80は小数点の前の整数部分が一緒であることが条件になる。
だから、まずは360度あるうちの1度・整数部分が一緒じゃないといけない。
19.80という数字だけ見ると、20.00の方が19.00よりも数字的には近いわけだけど、19で始まる度数でないと同じテーマにはならない。
20で始まるものは、いくら数字的に近くてももはや別のテーマに変わってしまう。
だからもっと言えば、19.00の数字を持つ人や出来事があれば、私と一緒のテーマになっても、20.00の数字を持つ人はもう私とは違うテーマになる。
とにかくそれだけピンポイントで一緒になる人や出来事の数字を持つホロスコープと私はこれまで一度も当たったことがなくて、あまり人と重ならないんだなぁなんて思ってた。
それがまさかの2年前の出逢いの日のホロスコープの「龍頭図」を出したら、私の人生のテーマを示す度数と全く同じ度数を叩き出すという、私には驚きの他の何ものでもなかった。
(小数点以下は違うけれど、近似値)
私からすると、山で行方不明になったおじいちゃんの霊魂が年明け早々私の元にご登場されたこと並みに有り得ないことだった。
宝くじ1等に当選するぐらいのこと。
そういう確率でしかお目にかかれない、ホロスコープ(龍頭図)だった。
しかも龍頭図は、もっと奥深い深遠なもの、人間的なテーマより魂としてのテーマがあらわになる。
出逢ったその日その瞬間のホロスコープさえもビックリするぐらいに実際に起きたことをそのまま表したテーマだったけれど、龍頭図はさらにビックリした。
私個人の生まれた瞬間のホロスコープと、その出逢いの日の瞬間の龍頭図のホロスコープには、ものすごくたくさんの共通点がある。
わざと小惑星も入れて見てみた。
もっと共通点が増える気がしたから。
入れて正解で、小惑星も足したらさらに共通点が増えた。
今挙げられるだけでも
・私の人生のテーマと、その日のあるがままの性質が一緒
・私の生まれつきの性質と、発展・繁栄を表す木星が一緒
この木星に至っては、なんと小数点以下も全く一緒の数字が出ている。(2つとも、16.32)
・私の心の拠り所を表すポイントと、土台を固めるとか基礎を作るとかシンプルになることを(強制的に)促すという意味の土星が重なる
・無意識や過去世を表す私の月と、開拓を意味する小惑星ジュノーが同じ
・破壊と再生を意味する私の冥王星と、宿命への道を誘導するとされる海王星がピタリ賞
・魂のテーマとされる私のドラゴンヘッド・ドラゴンテイル上に、エネルギーを霊的なレベルに昇華する役目を持つとされる小惑星ベスタがピタリと重なっている
さらに細かく見たらもっと色々あると思うけれど、最低限でもこれだけの重なりを私自身のホロスコープとその出逢いが起こった瞬間のホロスコープの龍頭図にはある。
せっかくだから、私がその人がいる場所に初めて行く時の他の候補日でも龍頭図を出してみた。
2日あったけれど、どちらの日も実際に出逢った日のような龍頭図とは全く違っていた。
日にちをいつにするのかを話した時のことをよく覚えている。
その人はその場にいなくて、他の2人と話し合った。
今でも何でその日にしてくれたのか本当の理由はわからないけれど、私の教育係の人はわざわざ休みを取って通院する日を変更してまで私が実際に行った日に設定した。
私はあまりにも申し訳なくて、私はいつスタートでも大丈夫ですと伝えたけれど、結局はその予約まで入れていた通院日をずらしてそれでその日になった。
今振り返ってもすごくおかしな話で、私の教育係の人は通院で休むことはほぼほぼなかったのに、その時はなぜかずらした。
だから年に数えるぐらいしかない通院日をずらすことの方が普通に考えて変なわけで、何でそんな風になったのか、「なんだかとても変」と思ったことだけはよく覚えている。
本当にあの時何がその教育係の人の頭の計算にあったのかはわからないけれど、もはや人知を超えたレベルで私が行く日を設定されたとしか、今となっては思えない。
龍頭図を見てわかった。
その日じゃなきゃダメだったこと。
他の日では、上に書いたような天体の特徴は消失した。
だから単なる出逢いではなくて、その後に起こった色んなことを思うと、まさしく私にとっては自分の芯の部分、魂の部分にものすごく影響を持つ配置がそもそもあったことがわかる。
これはその時から見て2年後の未来(=今現在)に知れた事実で、2年前の私はまさかその時のことがこんなにも自分の人生にすごい影響を与えるだなんて予想だにしていなかった。
2年前の夏の日、私の目の前に現れた笑顔が爽やかな人は、こんな人がいてくれるなら絶対に安心!という安心感も絶大ながら、その一方で私の頭の中では速攻「近付いてはならない人」という線引きがなされた。
当時の私は今以上にひねくれていたから、「笑顔爽やか好青年イコール危険人物」という非常に偏った思い込みがあった。
しかも何となく立場が上そうなのもわかったし、そもそも接点なんてなさそうで仲良くなることもなさそうだから、このまま何もないだろう…と勝手に思った。
話があちこちに飛ぶけれど、2年前と今とが交差しながらこれを書こうとしているから、この文章の時系列ははちゃめちゃになるだろうと思っている。
今だからわかるけれど、そもそも最初に会った時にそれほどの印象を残すということ自体が超イレギュラーにも関わらず、私はそんなことはスルーして、自分の中の変な反応だけが表の印象として残った。
ちなみにこれもうんと後から気付いたことだけれど、そんな風に印象に残った人は人生でその人が初めてだった。
その人1人だけ最初の瞬間から全然印象の残り方が違っていたけれども、私はそんなこと全く気にも留めなかった。
「この人とは全く仲良くなれる気がしない」という第一印象を抱く人が時々いるけれど、私の中でその人もそうした1人だと思っていた。
過去にそう思った人たちとは今めちゃくちゃ仲良しだったりするけれど、過去のそういう人たちに総じて言えるのは「話して」の印象とか、「一緒に時間を過ごして」の印象だった。
それは男女年齢問わずで、どの人も第一印象は目に入る情報からの判断じゃなくて、相手の発言とか行動とかを見て「仲良くなれる気がしない」というものだった。
その笑顔爽やか好青年はそういう意味では全然違っていて、私はその人から放たれている何かを見て「近付いちゃいけない」と感じた。
相手の言動でも行動でもなく、私の偏った思考体系も影響してのこともあっても、そうした諸々とは全然別のレベルでそんなことを感じていた。
頭では「近付いちゃいけない」でも、本当のところは「!!!」言葉にできない衝撃を受けていたんだと思う。
人間は本能的に危険を察知する力があるけれど、「危険」と感じるものには2種類あると私は思っている。
1つは、単純に生命が脅かされると感知するタイプの危険。
例えば暴風雨の中、海に飛び込もうなんて考えないようなタイプの危険。
もう1つの「危険」は、それ自体が本当に危険かどうかは体験するまでわからないけれど、ただこれまで生きてきた人生の中では完全に未体験ゾーンだから、未知のものに対して危険と勝手に脳が判断する、そういうタイプの危険。
例えば初めて飛行機に乗るとしたら、飛行機に一度も乗ったことがない時は、当然未知の世界・体験に対して恐怖を抱く。
実際に乗ってみて大丈夫だったとなれば、脳内で自動的に入っていた危険感知アラームが解除される。
でもそれまでは危険感知アラームが鳴り続ける。
私がその人に感じた危険は後者のタイプの危険だった。
そして、今ならわかる、何に危険を感じたのか。
相手の名誉のために言うと、その人は全く危険な人ではないし、表現方法はかなりわかりにくくて表面は素っ気なかったりするけれど、奥の奥は本当にやさしくて澄んだ心を持っている人だと感じる。
その辺りの私の判断力は相当鍛えられているから、多分間違えてはないと思う。
で、危険を感じたのは、魂が新しい領域に入ることに対して感じたと思う。
人生未体験ゾーンだと、多分あの時の私の深い意識のところでは認識したんだと思う。
当然人間には安全を確保したがる性質があるから、異質なものに対しては本能的に危険と察知する。
私が思うに、私が危険を感じたのは、その人を通じて起こる色んな魂的な新しいフェーズがスタートすることに対してだったんじゃないかと思う。
だから、本当の本当に私が感じていたのは、その人は私にとって絶対に出逢う必要のあった人、ということなんじゃないかと思う。
実際に色んなことがその後からたくさんあったし、そのたくさんのことは最終的にどれもこれもみんな私が私自身に向き合うためのきっかけでしかなかったし、そしてその向き合いは強烈極まりなかったけれど、とりあえずクリアできたことたちは向き合って良かったと思っている。
その人に出逢うことがなければ、どれもこれも起こらなかったと思う。
そうした諸々を含めて、当然未知の領域のことだったから、最初に出逢った瞬間、「近づいちゃいけない人」と感じたんだと思う。
それとは別に、本当はその人に出逢った時から私の深い部分は癒され始めてた。
今の私でその当時のことをもう一度体験したいと思うけれど、その人に出逢った時からその人の声に耳を全力で澄ませて聴いて、体はその人が放っている空気感に思いっきり安堵してた。
当時は表面上の仕事に翻弄されててそんなどころじゃなかったけれど、魂側はわかっていたと思う。
やっと出逢えたね、って。
これは後から調べて知ったことだけれど、「声」というのも1つの音が振動して起こるもので、「この声が好き」というのはその発してる振動が好きということらしい。
又はその振動がしっくりとくるとか、自分の中にすっと馴染むとか、聴いていて心地好いとか、そういうことらしい。
私が全身全霊で聴こうとしていたのは、声もだったし、その声が私にとっては心地よい音色で気持ちが落ち着くというのもあったからだと今は思っている。
話があちこちに飛ぶけれど、最後に聞いた声は「本気で自分が嫌われてる」としか思えなかった声で、私はそのことでも酷く落ち込んだ。
そんなに私のこと嫌だったのかと思ったら、本当に全てが嫌になってしまうぐらいに大大大打撃を受けた。
嫌いとか通り越して、もう絶対に俺の人生に関わってくれるな!!!ぐらいの冷たい空気が流れまくっていて、会えなくなることと同じぐらい、私にはとてもショックなことだった。
冗談抜きで「本当にごめんなさい」と思った。
何から何まで、悪いことをしたつもりではなかったけれど、なんかすべてに対してとにかく申し訳なかったと思った。
その場で突然謝るのはおかしいからごめんなさいとかは言わなかったけれど、心の中では「本気でごめんなさい」という気持ちも確実にあった。
そうしたことの意味がくつがえるにはものすごくたくさんの時間が必要だった。
今は当時からしたら想定外の事態になって、その想定外の事態が現実に起こっていると知ってから、あの最後の声も目も絶対に私を見ようとしなかった格好も、私の目に映っていたこととは多分違う意味がその人の中にあったんだろう…と思った。
もちろん真相は知らない。
けれど、私が今見ている現実は、当時は知ることさえなかった真実を伝えてくれてる。
書きながら色んなことを思い出すから、それを1つ1つ綴っていこうと思う。
私はその人が気に入っているだろう女の子の話をなんと4回も他者経由で聞いた。
心臓を包丁で一突きされたぐらいの衝撃が毎回走った。
今でも一言一句何をこの耳で聞いたのか、正確に復唱できるぐらいに覚えている。
4回とも多分おんなじ女の子で、それだけでその人が自分のイケメンぶりを乱用して手当たり次第に色んな女の人にいくのではなく、きちんと自分が良いと思った人にしかいかないんだろう…ということを思った。
2人の人から別々の時に聞いたけれど、話に共通点があったから、同じ子なんだろうなぁ…と思ったし、そんな子がいれば私のことは断って当たり前か…とも思った。
ちなみに私の最初の感想は、「あぁ他の人とならデートするんだから、それが誘ったのか誘われたのかは知らないけれど、どちらにしても他の人とはできて私とはできないわけだから、本当に私と2人きりで会いたくなかったんだろうなぁ」というものだった。
さらに2回目か3回目の時に、相手の女の子のちょっとした特徴も聞いた。(←私からは聞いてない。)
勝ち負けの問題ではないけれども、もう最初から負け試合を自ら申し込んだようなもので、見知らぬ誰かと自分を比べるのもどうかと思ったけれども、私側に軍配が上がるようなものは何一つ私は持っていないことがわかった。
自分一人でかなり場違いなことをしてたんだな…と思った。
最初から格差がありすぎて、そもそも手の届かない人だった。
どう考えても相手から誘ってもらえるみたいなことは、仮にこの世でその人と私しか存在していなくても起こるとは思えなかったぐらいだから、なんとか自分でチャンスを作る他なかった。
相手の女の子の特徴を2つ聞いただけで「うん、もう最初から勝てない」とわかって、好意を抱いてもらえてる子+スペック良し、悪意すら覚えられてるかもしれない人+スペック悪しでは、そもそも土俵にさえ上がれない感じだった。
もしごはんに誘う前に知っていたら、私は絶対に誘わなかった。
100%どころか1000%誘わなかった。
良くも悪くも何も知らなかったからそんなすごい行動に出れたわけで、知っていたのなら私は最初から何もしなかった。
今も書いていて気分は撃沈しているけれど、今回書きたいのはそこじゃなくて別のことだからそちらを頑張って書いたらまた違う話題に移ろうと思う。
出てきたものは、今回はなるべくそのまま書いてしまいたい。
そもそもそういうのを頑張って書くのもおかしな話だけど、これは私が今回書きたいことに繋がる話だから、だいぶ苦しいけれど書いてしまおうと思う。
その人は基本的にシャイな感じがするし、とても一途な人というイメージがある。
ブレがないし、もしかしたら本人は自分のことそんな風に思っていなくても、私から見てブレのない人として映る。
そのブレのなさは人間関係や恋愛にも通じている感じがするし、私のように思わぬところからその人に横やりみたいなことをする人はさておいても、基本的に他者に対して誠実に振る舞う。
私もごはんにさえ誘わなければ、とても穏やかな職場の人間関係を持つことができていた。
ごはんに誘った後の私に対しての在り方も、私はものすごく哀しくて嫌だったけれども、一貫性のある最後までブレのない姿だった。
いい加減なことができない人なんだろうと思う。
女の子の話を聞いて、いくらでも自分の部屋に連れ込むこともできたと思うけれど、そういうことはしないんだろうなぁと話を聞いて思った。
私が4回聞いたうちの1回は「好きな人がいる」と聞かされた。←撃沈
気になる人ではなく、好きな人という単語で私には説明がなされた。←撃沈
それも本人いなくなって半年近くも経ってから聞いた。
だから、その話をしてくれた人もいつの話をしているのかわからなかったし、いずれにしても、他の人が本人の口から聞き出し、それを聞いた人が私に教えてくれた人に話し、だから本人から私までの間に3人も人が入っているから、本当のところはわからない。
だけど、根も葉もないうわさ話ではなく、本当に本人の口から出た情報だということはわかった。(どういう経緯でその話が出たかまで説明を受けたから、情報源は紛れもなく本人だった。)
付き合ってはいなくて好きな人らしいよ、とも解説が付いていた。
他にも諸々解説は付いていたけれど、もう私は呆然として何をどう自分の中で処理していいのかわからなかった。
ただ、私の感情とか暴風雨で荒れまくりな心の中とかは別として、情報だけを純粋に見ると、イケメンのその人は相手の人をきちんと大切にしてそうな印象は受けた。
何でこんな話をしたかと言うと、私からして「危険」と感じたのは私側の全く別の理由でそう感じただけの話で、本人は至って危険人物でも女の人たちをたぶらかして好き放題に奔放に恋愛するタイプでもない、むしろとても誠実な人だろうということを言いたかったから。
私とはまた違った意味でその人も防衛心がものすごく働く人だとそれは普段の様子から感じていたから、基本誰でも彼でもウェルカムじゃなくて、心許す人はかなり限定的で、その辺りの慎重さは私以上な気がする。
しかも人に危害を加えたりとか傷付けたりとかはしない、誰よりもそういうことをしない人という感じがする。
これはその人の後輩くんが私に言っていたことだけれど、何かあっても本当にその人は落ち着いているし、ブレがない、とにかく目の前のことを1つ1つこなしていく人だと、そして自分が知ってる中で一番ブレがない人だと。
ちなみに何かあってもの「何か」というのは、仕事上のトラブルを指してた。
だから、その人を見て危険だと感じたのは私だということ、本人の本当の性格を見て危険だと判断してるわけではないことを言いたかった。
話は戻って、初めて会った日からそれからその人が同じ空間にいると意識の上でもきちんと把握できるまでの間のこと。
当時は色々テンパっていて、その人どころか誰が同じ空間にいるのかも認識できないぐらいに、新しい環境に慣れるのに必死だった。
ちょっとしたきっかけ(私には一生に一度のきっかけ)のおかげで、突然その人が私の人生に今度は本当に登場してきた。
私は今でもその時のことを本人に聞けるものなら聞いてみたいと思っているけれど、その人がなぜ私に気付いたのかはわからない。
どんどん自分の居場所のなさを感じて、元々の人見知りも発動、はっきり言って誰とも関わらずにこのままいけないだろうか…と本気で思っていた頃だった。
その日は、色々勝手がわからないところに超イレギュラーな仕事がぶち込まれ、いつも以上にテンパっていた。
私は極力人から離れるようにして、人の目の付かないところに自分を避難させてた。
仕事しつつも、一刻も早くこの落ち着かない気持ちにしかならないイレギュラーな仕事が終わって欲しかった。
そんな私の元に突然その人はやってきて、さっと必要なものを渡してくれた。
それは作業序盤の話ではなく、少なくとも3分の1ぐらいは終わった頃のことだった。
すぐ近くに気が利く事務さんがいたけれど、その時に限って事務さんは私のその準備不足な状態に気付かなかった。
私はもっと別のことに頭がいっぱいで、自分が準備不足だとはその時まで全く気付かずにいた。
そして近くで作業してるわけでもないその人がなぜか気付いて、不足品を持って来てくれた。
私は今でもわからない。
本当に、その人はいつその私の準備不足の様子に気付いたんだろう…?と思う。
その人はそういう気の利いたことを積極的にするタイプではないとのこと(←仲の良かった人情報)。
私の準備不足の具合があまりにもひどかったのもあるけれど、その人はどういうわけか他の誰も気付かなかったことに気付いて、そして私の元にやってきた。
これが私の中でその人が自分の生きている世界に存在している、と初めてきちんと認識できた瞬間だった。
その瞬間なくしては、その人を私がきちんと認識するには至らなかったと思うし、ただでさえ苦手な仕事に追われて、その人はいてもいなくても私とは接点がないから意識の上で認識に至ることもなく、あれよあれよという間にいなくなって終わったと思う。
これは後から私が勝手に思ったことだけれど、この瞬間のことはもう神とか見えない存在とか、そうしたものたちが介入して起こったことだとしか思えない。
そう思う方がとても自然なくらい、色んな有り得ないことが重なってのその瞬間だった。
今回龍頭図のホロスコープを見て、より一層確信に近い気持ちを抱いた。
その人と出逢うことは、私にとって魂的な意図がものすごく大きい。
その人は、私が今回この生を受けて生きていることの本当の目的に、相当関係している人だと感じている。
今ここまで来て思うことは、私がその人と出逢った最大の目的は、「愛を知ること」だったと思う。
最初、「愛」というのは他者に向けて発信するもの、抱くものとして私は見ていた。
だけど、その人が私の人生に少しの間だけ登場してくれて、そしてきれいに私の前から姿を消した後から今に至るまで、私が徹底的に学ばされたのは、対他者ではなく対自分に向けての愛の部分だった。
どれだけ自分を大切にできるか、どれだけ自分を信じて生きていく覚悟があるか、そういうことだった。
それは私がずっとできていなかったことだった。
そしてそれこそが私の生きづらさの理由の大きな部分を占めているものだった。
「自分を大切にする」という、そもそもの意味がわからなかった。
他人を優先する生き方を習って大人になった。
自分よりもまずは人、それを正しくて良いものとして私は教えられた。
何か上手くいかない時、意地悪されたりいじめられたり仲間外れにされたり男性と別れを迎えたり…、そういう時に私は私の至らない部分を反省する、または改善することばかりを試みようとしていた。
何かあると「私の何かが悪かったんだな」と思うことがとても当たり前になっていた。
どこかで私は「自分はそういう嫌なことをされても仕方ない人」だと自分のことを思っていた。
私の筋金入りの自己肯定感の低さは、ここ数年で自分自ら癒すようになるまで、それが当たり前すぎて疑問にさえ思わなかった。
本気で重症だった。
そうなるまでに色んなプロセスがあったし、そしてそういう部分は人との出会いで癒されるのとも違うと知ったのは本当に最近だと思う。
私は特に社会に出てからは人にはとても恵まれているけれども、それと自分を肯定することって別物なんだとわかった。
これは本当にこの1年くらい前まで普通にそうだったし、私は自分を責める癖については気付いていたけれど、それでも自分は悪くないとか自分も頑張ってると思えるほどの心的能力が私は完全に欠落していた。
自分にダメ出しをすることには慣れていても、自分を労うとか自分を大切にするとか自分のがんばりを認めるとか、そういうことが私は一切できていなかった。
話がだいぶまた飛んでいくけれど、その人と最後に挨拶した時だって、私は全て自分が何かやらかしてとてつもなく迷惑をかけて悪いことしてしまったなぁ…、申し訳ないなぁ…と思っていた。
だけど、本当のところ、その人の真意は今もわからないし、仮に本当に迷惑行為だったとしても、私は私でがんばったことがあって、自分の願いを叶えるために奮闘したことはそのまま認めて受け止めたら良かったんだ、と今頃になってやっと気付けるようになった。
たしかにあの時の状況で、「私は全然悪くないから!」なんて思える人がいたら、それは鋼の心臓を持っているか、すごく自己肯定感の高い人か、どこまでも自分LOVEな人かのいずれかだと思う。
その状況だけ見て「相手も私に何かしらプラスの気持ちを感じている」なんて、とてもじゃないけれど思えない。
「本気で嫌がられてる」と思った私のその感覚は、決して私の自己否定がそう思わせてるというより、本当に相手の在り方を見て「私好かれてる♡」なんて思う方に無理がありすぎる。
だけど、それはそれだし、それとは別に自分が自分のためにしたことはそれで良かったんだよって思う。
今なら思える。
自分責めなくていいし、相手の意志は知らないけれど、本当の本当に悪いことはしていないし、そんなに自分に冷たくしなくて大丈夫だよ、と。
相手の反応と私自身の価値をイコールで結ばなくていいことも、やっとやっと受け取れるようになってきた。
その人にとって、私がその人の一緒にいたい人ではなかったということ。
ただそれだけのこと。
本心は知らないけれど、そうやって割り切る方が楽になれる時もある。
色々訳が分からなさすぎだけれど、色んなことを別個にして捉えられるようになったから、私は私の立て直しに専念できるようになった。
で、超贅沢な願いをもう1つ口にすると、その人もどうか自分のことを責めずに少しでも自分自身のことを許してくれてるといいなぁと思う。
もし、その人がその時の自分に後悔や自分を責めたくなる気持ちに駆られるとするなら…だけど。
これだけ時間がたくさん経ってそして色んなことがわかってきて、その人自身も何かしらの消化不良を起こしていることはわかった。
その人の消化不良は、私の想像や妄想ではなく、現実にそうだとわかる。(私はエスパーじゃなくて、それを教えてくれるツールがある。)
それは無理もないと思う。
魂の関係について、私はその人がいなくなる少し前からその後数ヶ月に渡って超勉強した。
仕事以外の時間はほぼその勉強に費やしたと言ってもいいぐらいに。
尋常ではない勉強量だったわけだけど、ごくたまに男性側が発信している情報に行き着くことがあった。
1人1人状況や感じ方も違うけれど、基本スピリチュアルな知識も何もない男の人たちが魂的なテーマ絡みの異性に出会うと、はっきり言って「とんでも物件」的な、良い方にも悪い方にもものすごく影響が出るらしい。
特に、一般的に男性は元々感情を感じるのが苦手なところに、これでもか!というぐらいの爆弾を相手が無意識に放つわけで(その状況を解説してくれてた一般男性たちは決して「爆弾」などという言い方はしていなかった)、何とか理性を保ちたいところにワサワサと感情が揺さぶられる…。
それこそ「危険人物」なわけで、これまで感じずに済んでいたものは出てくるし、色々訳がわからないし、はっきり言って「恐怖」だと思う。
自分の身に置き換えて考えたらわかる。
私がそうしたことを調べたのも、そもそも自分の感覚があまりに意味がわからなさすぎて、そしてそれだけの何かを引き出すトリガーとなる相手の存在も何なのかと思って、それで私は調べることを始めた、その人がいなくなる1週間から10日前ぐらいに。
相手がどう思っているかなんてことまで考える余裕は当時なかったから、ひたすら自分を見まくるしかなかったけれど、とにかく色々とこれまでに体験したことのない心の動き方があることはわかった。
私からしてみても「げっ( ̄ཀ ̄;;)」って感じのことはたくさんあって、世間一般のものさしや自分のこれまでの人生経験で形作ってきたものさしは、本当に一瞬で大破する。
そうした価値観じゃ絶対に説明できないし、ただ説明できないにも関わらず自分の中にあるものは、はっきり言ってこの世の非常識みたく感じる感覚だから、超否定したくなる。
まだ中学生ぐらいの子が、話したこともない異性を意識して「いいなぁ」なんて思うのは可愛らしいけれど、40も前にした昔で言う結婚適齢期的なものはとうに過ぎた大人が、相手を見ているだけで「いい」なんて思うのは、私からすると痛々しいことの何物でもなかった。
しかも、それが寝ても覚めてもそうなるから、私は本気で自分の精神が何か異常をきたしてるのかとも思った。
人を好きになったらそうなるでしょ!っていう感覚と似てる部分もあるけれど、そんな単純なものじゃなくて、何が起こっているのか自分でも意味がわからない激情だった。
好きとか愛してるとかそんな枠組みなんかぶっ飛ばして、あまりにも未知の領域の感覚に勝手にたどり着いてしまった…、そんな感覚だった。
時々友達から「それって好きなの?」と聞かれたけれど、私は「そういう気持ちも含まれるとしてもそれはごく一部で、もっと言葉では説明できない色んな感情が、これまでに感じたこともない感覚がある」という感じで説明していた。
本気でそういう域だから、もし相手も同じような現象を体験していたとするなら、そりゃ逃げたくなるし無視もしたくなるし、来んなよ!!ってなると思う。
ましてや相手は超きちんと社会人をしていて、仕事ぶりも誠実で真面目だし、人が見てないところも手を抜かずにやるし、本当にきちんと大人社会で貢献していて、しかも男性多めの職場で「ザ・男社会」だろう社風の中で本当に長い年数色々と積み重ねてきていることもわかる。
だから、こんなぶっ飛んだ訳の分からないこととは極力距離を置きたくなって当たり前の反応だと思う。
ここからは私の勝手な予想だけど。
私は当初、地理的距離や身体的状況に距離が生まれたら、これはいつか消えてくれるんだろう…とかなり簡単にそんなことを予測していた。
しかも私は「無視する」「避ける」「個人の連絡先は明かさない」と、これ以上ない避ける「好意」ではなく「行為」をありがたく頂戴し、そしてその後女の子の話を他の人たちから4回も聞くというさらなる気持ちの上での試練的な機会も天から与えられ、もうこれは色々ありえない、何かが誤作動したかあまりにもそういうトキメキから離れすぎた私が1回のやりとりだけでスイッチが間違って入り過ぎたか、まぁそんなところだろうと思った。
だから、物理的な距離は全てをリセットするにはこれ以上ないアイテムで、私はいつかは限りなくゼロに近い、忘れるとはいかなくても気にならなくなる日が来るんじゃないかと期待していた。
期待は時間の経過と共にますます裏切られ、もはや色んなことがおかしすぎて、私はそうした期待を手放すことから始めないといけなかった。
付き合えてないならまだしも連絡さえ取れないのに、距離と反比例して相手の占める割合がますます増えるとは、一体何事かと私はこれまでも何百回と思ってきた。
しかも会えてた時間よりも会えなくなった時間の方が年単位で増えていっているにも関わらず、相手の占める割合は増すという、ある意味末恐ろしい現象だった。
しかも相手は私のことを(表面上)相手にしてなければ、風の噂では好きな人がいる。
そんな望みのかけらもない人をいつまでも忘れないなんて、自分でも相当参った。
私の中の消化不良感は半端ないし、今度はオカルトワールドが人生に入り込んでくるし、表面的なことだけ見て色々言われたり、生き方やそうした世界と関わることを非難されたり否定されたり…。
何度も何度も、世間一般的にありきたりとされる幸せにどれだけ憧れたか計り知れない。
30代の10年間を通して、私はますます自分が仕事とかキャリアに全く興味が無くて、できることなら家でのんびり家仕事をして主婦とか(家事を丁寧にするのは好きなことの1つ)、専業主婦が許されない経済状況なら自分もフルタイムで働くけれど、大黒柱を支える意味での兼業主婦に憧れたし、私は本当にそういう生活に憧れていた。
今だってそんな素敵な選択肢があるなら、私はそちらに飛びつきたいとさえ思っている。
でも人生の設定がどうもそちらではないし、そちらは叶わなくてもおそらく魂的なテーマとしては必要な占星術の勉強の機会はたっぷり与えられて、自分が望んでいることは叶わない、自分が望んでいないことは叶う、この人生の不思議さ加減に長いこと翻弄されてた。
(魂の願いはガッツリと叶えられてると思う)
まぁそれは良かったけれど、とにかく色々が私の中で納得できなかったりする。
私もまだよくわかってなかった頃に「ソウルメイトと出逢いたい♡」などと夢を見ていたけれど、今の私は自分がいざそういう人に出逢ったら、そんな甘い密を吸うような体験とは程遠くて、自分が望んだものとはずいぶんと違うと思った。
こういう体験をしたいかと問われると、ソウルメイト的な人に出会わなくてもいいから自分が望むような幸せを手にできることの方が幸せかもしれない…と思うことも相当な回数である。
ガチなソウルメイトとの出会いは、そんなロマンティックな要素は皆無で、ひたすら己との向き合いみたいな修行要素高すぎな経験がもれなく次から次へとプレゼントされる。
私普通のお付き合いがしたいだけなんだけど!とこれも何百回と思った。
話がだいぶ逸れた。
出逢わせてもらえたことには本気で感謝しているし、良かったと思っているし、後悔は何もしていない。
でも、自分が望んでいたことが叶わない諸々は、全然良くないし、とても悲しい。
色んな消化不良があるけれど、相手も同じように消化不良を起こしているとするなら、せめてそのことで自分を責めたりとか悪く思ったりとかはしないで欲しい、本気でそう思ってる。
普段、自分以外の誰かに「◯◯して欲しい」と言うことは好きじゃないし、自分の価値観を押し付けるみたいなのも好きじゃないけれど、このことに関してはそう思う。
私も本当に苦しかったから、私はその人が取った又は取らなかった行動の何かを責めるつもりはない。
その人にはその人にしかわからない苦しさや混乱があっただろうことは想像できるから、せめてその人がこれ以上自分を責めたりしなくていいように…と真面目に願っている。
勝手に決めつけんなよって話だけど、この近年のスーパーハイテク機器のおかげで、私は相手の消化不良みたいなものも垣間知ることになった。
だから、その人が苦しいのは私も嫌だし、その大元の原因の1つに自分が加担してると思うともっと嫌だから、だから自分のこと責めないでね、と偽善者みたいなことを本気で私は思ってしまう。
私が好きな人がいるらしい話をしたのは、その人が危険人物ではないと言いたかっただけじゃなく、私自身のことを書きたかったから。
それを聞いて私の心は暴風雪が降り色々荒れまくり今も書いてて決して淡々となんて書いてはいないけれども、私はこの自分さえも好きなんじゃないかと思った。
見知らぬ女の子にヤキモチを焼いて(わざと「焼く」と書いてる)、自分の中で色々整理がつかなくなって、私がしたことは本当の迷惑行為だなと思ったことも色々やめとけば良かったと思ったことも、そもそも手の届かない人を良いと思った自分がバカなんじゃないかと思ったことも、本当に色んな自分が噴出していたけれど、そのどの自分も一生懸命で自分の中で受け入れられないものを何とか折を自分の中につけようと自分のために奮闘していて、そうした自分はいいなぁと今になってようやく思えるようになった。
嫌は嫌だったし、自分の色んなことが恥ずかしくなったし、ごはんなんか誘わなきゃ良かったとも思ったし、私は1人で色々勘違いして痛い人だったんじゃないかとも思ったけれど、私は私のために一生懸命に色々やったんだと思えたら、これはこれでありだし、いつかは自分の中で上手く昇華できそうな気がした。
そしてその女の子情報を何回かに分けて知った後も、私は自分の気持ちを殺したり否定することはしなかった。
自分の気持ちをそのままにした。
肯定もしなかったけれど、否定もしなかった。
そうと知っても気持ちは消えてくれるわけじゃなかったし、そのうち本人が近くにいないことをいいことに、私がその人を想うのは別に直接迷惑がかかるわけじゃないからいっか〜、と開き直ったのもあった。
そんな風にできた自分と私は最終的にご対面することになった。
外からもたらされる情報は凶器でしかなかったけれども、その凶器にしかならない情報から私は自分の身を守って、どこか自分の心が安らげるようにあれこれと試し、とにかく変な風に自分がもっと傷付かなくて済むように、私は全力で手を尽くした。
人の気持ちは変えられなくても、自分のことなら何とかしてあげられる。
聞きたくないことではあったけれども、聞いてしまったことで(当たり前だけど、私からは一度として質問したりして聞いたのではなく、勝手に相手側が話し出して聞く羽目になった)、私は私を守る方法を学んだと思っている。
そしてそういう一生懸命な私は、自分でも好きだなぁなんて感じる。
私はおめでた過ぎるのか楽観的なのかわからないけれど、色々不具合ありまくりな人生の中で私はいかに自分が少しでも心安らかになれるかということに対して、ものすごくたくさん努力を重ねた人だった。
今も心の安らぎに半端なく憧れて、そうした努力は誰に言われなくても超積極的にやっている。
こういうことにも気付かせてもらえたことで、内容は今も超絶嫌なものだと思ってはいるけれど、心の中に自分で用意できるものは自ら用意して自分を守る・大切にするその姿勢は、自分の中でもとても好感が持てる。
そういう自分はいいなぁなんて思えるようにもなってきた。
そしてそういう自分を見て、「自信」、すなわち自分を信じる力が付いてくる。
私はこの1年2年で「自信」の意味が変わった。
「自信がある」というのは、自分を信じる力があることだと思うようになった。
何があっても自分を信じ続けること、それが自信だと思う。
人と比べてどうだということじゃなくて、自分が自分に対してどういう態度でいるのか、それだと思う。
そして、他人と比べ出したら自分が見劣りする部分が色々目立って仕方ないけれど(←元々自己肯定感低め)、自分が自分のためにどれだけ頑張れるのかという部分にだけ目を向けたら、私けっこう良いところまで来れた気がしている。
さっき書きながらもう1つ思い出した。
もし私が1回でも先にその人のお気に入りの女の子の情報を耳に入れてたとするなら、本人をごはんに誘わないだけじゃなく、その後に起こった全てが起こらなかったということ。
誘わなければ断られることもなかったわけで、断られなければ手紙は書かなかったし、手紙を書かなければこのブログは再開しなかった。
ペンジュラムの能力アップもしなければ、オルゴナイトの購入もせず、オルゴナイトがなければ山で行方不明になったおじいちゃんを探して欲しいなんて頼まれず、それがなければおじいちゃんの霊魂からその人のことを口にされることもなかった。
さらにオルゴナイトがなければ、先日の木のテーブルをひっくり返してしまった時にペンジュラムは割れて粉々になっただろうし、そんなことが起きた時の私はもう立ち直れないぐらいのショックを受けたと思う。
そして、このブログ、今書いてるこの文章さえ世に送り出されることは絶対になかった。
他の文章たち含めて、その人と私がまさかブログをバトンのようにして繋がる(?)、どう表現していいかわからないけれど、少なくとも相手もこのブログに目を通すことなんか絶対になかった。
たった1つの情報さえも、出るタイミングが決まっていた。
それがもっと前倒しで私の元に入ったら、私が動いた全ては何1つ動かなかった。
そして今ある現実は永遠に訪れることがなかった。
魂と魂を繋ぐ時、信じられないことが普通に起こる。
死者の霊から特定の人物について語られるなんて、どう考えてもおかしな話。
だけど、現実にそれは起きた。
まさかブログを読んでもらえるとは、ミクロどころか私からして0%の確率で当初は書き始めて、確率が0ではなくなった唯一の理由は「アップしたから」だった。
何もアップしなければ、0%。
何かアップしたら、0%から0がいくつもいくつも並んだ後に小さく1が%の前に付く。
確率とも呼べない確率に私は賭けた。
少なくとも、女の子の話を初めて聞いた時は、ブログ読んでくれてるとは思っていなかった気がする。
そもそも読んでるかもしれない、と思ったのだって、私の場合、便利ツールで最初わかったのではなく、自分の体に何かしら感知するものがあってそれでもしかして…という、はっきり言ってすごく変な方法で最初は予感したんだった。
確証なんて全くなくて、「予測」みたいなものだった。
それがいつか私が管理画面を誤作動で触ったことで、あれ?なんだこの画面?みたいなのに気付いて、それで色々知れるようになった。
最初は半信半疑だったけれど、この春先あたりにようやく確信が持てるぐらいにまでなった。
ぶっちゃけ、魂と魂の繋がりって変なの…と思う。
普通に連絡したらいいじゃん!と思う。
だけど連絡できない理由があるんだろうし、そんなことは私がどうにかできることじゃないから、いつもこれってどうなるんだろう…?と不安と不思議とほんのちょびっとの期待とで動向を見ている。
それよりもまず、こんな形で繋がるなんて、最後の時間の近付くなオーラから考えたらありえない話で、繋がらないものはどうやったって繋がらないし、繋がるものはどんな風にでも繋がる、と言われる格言みたいな言葉を思い出す。
龍頭図を見て、出逢い自体が「魂のテーマガッツリ行きますよ!!!」宣言をしていて(少なくとも私側は)、だから今みたいになることもそういう意味では超ホロスコープ通りだから予定通りなのかもしれないけれど。
ただ、魂のテーマって「パートナーシップの愛」とは必ずしも限らず、もしかしたら「ペンジュラムの能力アップのための人間関係」かもしれない。
又は私がスピリチュアル・オカルト道から外れないように、そこに至るまでの助走部分のお助けマン担当なのかもしれない。
何でもいいから(←こういうことは個人の願望で決められるものじゃないと悟った)、生きているうちに一度は顔を合わせてお茶の1杯、ビールの1杯でも交わしたいと、大真面目に思ってる。
もう私からは連絡の取りようがないから、本気で連絡来たらいいなぁと思っているし、そしてもうそれしか方法としてはないことも覚悟を持って心得ている。
もっと言うと、こうした繋がり方が魂的に正しい繋がり方なら、これ以上何も起こりようがないことも覚悟している。
人間社会のものさしでは魂社会の常識や計画は測れない。
私はひたすら願うしかない。
再会させて下さい、と願うしかない。
願うのはいつでも自由だから。
この話、終着地点が見えない、ひたすら心のつぶやきみたくなっているけれど。
やっと本題というか、本当に最初書こうと思ったことを。
冒頭の写真は、蒼井優と友達だという男性(←すみません、私は存じ上げない方です)が呟いていたツイッター。
時々他の人たちのツイッターが紹介されてるのを見て気になると見に行くけれど、その中の1つだった。
男性いわく蒼井優が言っていた
「『誰を好きか』より『誰といるときの自分が好きか』が重要らしいよ」
この部分に、私はものすごく共感した。
そして自分に当てはめて考えてみた。
スルスルっと謎が解けていくような快感があった。
私がその笑顔爽やかイケメンに出逢って経験したことは、まさしくその蒼井優が言っていたことだった。
過去に出会った人たちと何が違うのか、そこも検証した。
笑顔爽やかイケメンとは付き合ってないから、自分だけの感覚が全てで、そういう意味でもしかしたら自分の中で美化してるところもあるかもしれないけれど、それでも過去の自分とは圧倒的に違うことを感じた。
例えば過去に、「何でこの人と付き合ってしまったんだろう…」と思っていた頃、そんな風に思っている自分と日々対峙するわけで、そんな自分といるのは自分がしんどかった。
私のすべてを受け止めてくれる人に出会ったら、今度はその人なくしては自分でいられなくなった。
自分の穴を常に相手から補ってもらうみたいな、それはそれでしあわせな気持ちにはなれたけれど、その後別れが訪れたらどう生きていいのかわからない、人生迷子みたいな時間が始まって、自分にきちんと向き合わなかった分長期に苦しい時間が続いた。
その笑顔爽やかイケメンは全然違っていた。
その人がいてくれるだけで、私は毎日毎日生きているのが楽しくて、その人に会えるのが本当に嬉しくて、相手の命があること、そして自分の命があることに心から感謝した。
生きていることが当たり前じゃなくて、きちんと心臓が動いて息をしていることが本当に特別なんだと感じていた。
毎日朝を迎えること、そして元気なその人に会えることはとても特別なことだった。
私は来る日も来る日も「あなたの命に今日も会えて嬉しいです!」という気持ちでいた。
私にとってそれは普通のことではなく、特別なことだった。
毎日が喜びとしあわせに溢れていて、全然興味もない仕事をしに行くのに、私は1人で毎日テンションが上がっていた。
ごはんに誘ったことが何か変なスイッチになってしまって、そこから無視というか避けられるというかそんなことが始まるわけだけど、そしてそれから1ヶ月も経たないうちにその人は転勤でいなくなってしまったけれど、そのおかしな時でさえも私にとって目の前にその人がいること、その人がいる空間に自分もいられることがとても特別だった。
自分が生きていることに特別な気持ちを抱くなんて、未だかつてなかった。
それら全てを通して、命を感じてそして出逢えることの奇跡を思った。
当たり前のことなんて何一つない。
全てが一期一会なんだと、私は毎日毎瞬そう思って当時は生きていた。
そういう自分を思い出した時に、私はその自分がとても好きなことに気付いた。
生きていることを心から喜んでいる自分自身に感動を覚えてた。
元々「生きる」ことそのものに対して、私は感心が低いというか、あまりに色々辛くなってくると「生きたい」という気持ちも消えていくところがある。
病気とかで余命いくばくもない人からしたら本当に怒られそうな話だけど、そうなる自分のことは止められないものがあった。
だけど、毎日生きていたい、そういう気持ちを日々持てたことは私にとってすごい快挙だった。
それはその人から冷たくされても、状況は全く笑えないものでも、生きることそのものには気持ちを見失わずにいられた。
いなくなった後も、私はそれでも生きようとしている自分を見て感動さえ覚えた。
泣きたい瞬間たちでさえも、私は生きることに真っ直ぐだった。
その人に近付きたくてごはん誘ったり、どうしても色んなことを伝えたくて手紙を書いたりするわけだけど(←ラブレターじゃない)、そういうことを自分のためにしている自分のことは、今となれば本当に頑張っていた自分のことが愛おしいみたいな気持ちになる。
自分の気持ちを本当に大切にして、それを最優先にしていた。
それを自然にしていた自分は、私の中で誇らしささえ感じる。
その人がいなくなっていつからだろう、私はものすごいセラピーを編み出した。
自分の色んなことが許せなくなった時に、私は「もしその人がそれをしているとするなら」という仮想現実の世界を作って、どういうわけかその人がそうだとするなら私はあっさりと許せた。
そこで許す感覚を覚えて、今度はもう一度自分に置き換えてどういう気持ちになるのか、なるべくならその人の時みたいに許したいという気持ちで自分と向き合っていた。
この技はかなり使えて、今でも時々使う。
その人に関しては、私はあれこれ望んでいなくて、ただ生きてくれてるだけで良かった。
自分でもどんだけ寛大な心でいるのかと思うけれど、本当にそれくらいシンプルで真っ直ぐな気持ちでいる。
自分自身に対して「生きてくれてるだけで良い」なんて寛大になれない分、その人を通じてその気持ちが持てる自分自身を確認している。
そうした気持ちを教えてもらって、それを自分にもできるようになりたい、そう思えることも私はいいなぁと思っている。
その人の存在に気付いて毎日ルンルンで仕事に行っていた時も、ごはん誘って無視されて日々撃沈していた時も、本当にいなくなってそれが受け入れられずにいた時も、忘れるどころかどんどん存在感を増してどうしようとなった時も、どんな時の自分も常に一生懸命で自分に正直で気持ちをごまかすとかできなくて不器用でも、どの自分も私はいいなぁと思う。
その人の存在によって、私はその人を感じている自分のことは好きなんだと知る。
生きる喜びも命がある奇跡も、本当に私は毎日何かに感謝するようにありがとうの気持ちに包まれて、そしてその喜びが明日も無事訪れますようにと真剣にそっと祈ってから眠りに就いた。
その人を通じて、私は生きる気持ちと生きる力をもらって、そして人生を楽しむことを自然にやってのけてた。
「誰といるときの自分が好きか」
その答えを私は毎日毎日目の前でもらってた。
そして、そんな風に誰かを大切に想える自分、もうそんな風になることは生涯を通じてないと完全に諦めていた自分に、その可能性を見せてもらえた。
中学生よりも不器用なその片想いみたいな日々は、私にすごいパワーを授けてくれた。
それを知っていたら、残りの人生大丈夫だよ、というようなタイプの贈り物だった。
その人という1つの命は私にとってかけがえのない贈り物で、色々上手くなかったけれどもそれでも私が手にできたものは他の何かで代用のきかない、素晴らしい命の体験だった。
それがどれだけ凄いことなのかわかっていたから、私はいなくなってからもやさぐれず、心を腐らせたりせず、ただただ日々生きることを全うするようにできたんだと思う。
そして「愛」と呼べるものを知ったからこそ、私は死者の霊魂と出会ったり、ペンジュラムを使っての人探しを頼まれたり、人のホロスコープを読んだり…ということが始まり出したんだと思う。
そのどれも「愛」を持って向き合うことが必須条件だから。
有り得ないことでもそれをそのまま受け止める、ありのままを見る、そういうことはその人がいた時間の中で学んだ。
受け入れ難いことはたくさんあったけれども、何だかんだと私は消化したり居場所を作ったり、何かしら自分のためになることをした。
魂としての命を発動させるためには、その人は必要不可欠な存在だった。
だから、その人と出逢った日の龍頭図のホロスコープにそうだとわかるものが幾つも姿を現すことにもものすごく納得した。
ここまで時間をかけて、私は確信を持てるようになった。
絶対にその人と私とで約束してそれぞれ生まれてきたと思う。
私の人生が設定した通りに進むように助けるからね、と。
私は、嫌な感情を表に出すための手助けをするからね、とでも約束したんだろうか…苦笑。
悪役を引き受けることを私はよしとしたのかもしれない。
それはもう何でもいいやと思う。
少しでも、それが手荒なやり方でも何かの役に立ったのであれば、御の字だと思う。
その人から見た私の役割はわからないけれど、少なくとも私から見たその人の役割は「愛を教えてくれる人」だった。
自分を大切にすることや、受け入れられない自分の受け止め方や、自分の命の時間を楽しむこと、そういうことをたくさん教えてもらえた。
その人は直接指導官のようになって教えたわけじゃない。
その人はただいるだけですごい影響を私に及ぼして、その姿こそ、ただいるだけで、ただ生きているだけで価値があることを体現していた人だった。
本人は全力で否定しそうだけれど(ましてや成果主義なザ・男性社会に常駐)、本当に私から見たらそうだった。
本人評価がどうあれ、私の中では唯一無二の存在で、本当にいてくれるだけで良かった。
ただただ同じ時代の同じ空間にいて、それだけで私は幸せ満タンになる、そういうかけがえのない時間だった。
今考えたらすごく良かったと思うことがある。
その人は肩書きも肩書きに至るまでの経験も持っている人ではあったけれど、私はその中のどれにも興味がなくて、私が見ていたのはその人自身だった。
むしろ、肩書きも立場もあるのに、そんなこと全く気にしないのか、全然偉ぶったところがないことも良かった。
私は初日、その人がまさかその事務所内で一番偉い人だとは思わず、勝手にその中の中間管理職なんだろうと勘違いした。
それくらいわからなくて、そしてその人が上の人だと知ってからも私はそういう目でその人のことは見なかった。
その人のことは、あくまでも一個人として見続けた。
それは私なりにこだわったことだった。
私が知りたいのは、役職付のその人ではなく、その人個人を知りたかったから、はっきり言えばその中で一番の下っ端でも気にならなかった。
唯一お得だなぁと思ったのは、多分そういうトップに立つことに苦手意識がありそうで、でもそういう人がトップに立ってどんな風に仕事をするのかを見るのはその人の一側面を知れることに繋がっていて、とても楽しい時間だった。
その人は静かな統制力を図る人で、それは他の誰も真似できそうになかった。
そうしたその人だけが持っている中身を見ているのはとても楽しくて充実した瞬間のかたまりだった。
もう少し言葉を足して欲しいと思った場面もあったけれど、そのものすごく短い言葉しか発さないこともその人なんだと今は思う。
会えなくなって、私の願望は超縮小した。
その人が元気に生きていてくれたらいい、究極そこまでのところに行っているから、細かなことはもう何でもいい。
もしかしたら、ひと夏限定の時間が人生における2人で会える時間の全てだったのかもしれない。
もしそうなら、私ができる最大のことは、相手の無事を祈ることと、これだけ自分への向き合いをさせてもらえたわけだから、ひたすら自分を生きることなんだと思う。
その人に出逢えたことで、私の人生は大きく変わった。
自分を大切にすることを覚えられたのは、その人の存在がめちゃくちゃ大きかった。
そして、その人を自分の日々の中に迎えることができていた時、その人が私の生きている世界から消えた後も、その人と関わる時の自分はとても好きだと気付かされた。
これって凄いことだった。
私が今回ここまで意を決して書こうと決めたのは、来年はもう書く自信がないからだった。
今が名古屋から新潟に戻ってちょうど3年になる。
3年はでかい。
3年もあったら色んなことが変わる。
もしかしたら来年の今頃も、その人のことを私はいつもどこかで考えているかもしれない。
だけど、もうこんな風に書く勇気は湧かないかもしれないなぁと思った。
今が書くタイミングとしては、ラストチャンスに近いのかもしれない。
それはここ最近ずっと感じてた。
だから書けるうちに、書きたい気持ちがあるうちに書こうと思った。
1年後もブログを書いてる自分の姿は想像できても、1年後もその人のことを文章に残す姿は想像できない。
今書けるんだったら、今書こうと思った。
私は正直なことを言えば、魂の計画がどうだなんていうことははっきり言ってどうでもいい。
私にとって大事なのは、その人が生きている毎日の中に自分も生きることだから、それが叶うのであれば他のことは何だっていいと思っている。
こういう風に書けるのはもうそろそろ最後、もしかしたらこれが最後かもわからないから、だから書けるうちに書こうと思った。
制服の話とか仕事の話とか思い出したエピソードをちょいちょい書くことはあるかもしれないけれど、気持ちの部分をこうして書くことは、どうだろう、今後もあるのかはわからない。
せめて【伝える部分】は、今はできるからやろうと思った。
伝えるのってただ書いたり話したりしてればいいわけじゃない。
タイミングというのがある。
だって、今から10年後の私は、生きていても、何かしら書き続けていても、ここに書いたようなことは絶対に書いてない。
そうやって未来の自分の姿を想像した時に、来年はもう微妙過ぎる。
心のタイミングがもう合わなくなってる可能性がある。
書きたい気持ちと伝えたい気持ちと外に発信したい気持ちとが揃わないと、こういう文章は外に出せない。
書きたいと伝えたいが揃っても、外に発信する勇気がなければ出さない。
来年はその3つ目がかなり危ういから、だから今なんだとわかる。
今しかないよって。
もし来年も書いてたら私は自分を笑い飛ばす自信があるけれど、来年書きたいのに書けなかったら私はもう笑えない。
それは嫌だから、やっぱり書ける時、こうして外に出せる時に出そうって決めた。
届きますように。
届いて欲しい人にきちんと届きますように。
2019年初夏〜梅雨入りの頃
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