2019年5月12日日曜日

喉の風邪と心の中







今回の風邪が想像以上に長引いてる。

しかも、のどの超激痛を伴った炎症に始まって、今また咳と痰、咳は一度始まると止まらないぐらいの重症化した咳になっている。

ちなみに、二次災害のように、ギックリ腰調の腰痛も発生( ̄ཀ ̄;;)。

咳もくしゃみもひどく腰に響いて仕方ない( ̄∀ ̄;)。

もっぱらどの姿勢だと咳する時に腰に響かないかを模索している。
↑今の最大の研究テーマ〆(ΦдΦ)

今回の喉の風邪は、まさに今の自分の象徴だと思う。

この1ヶ月ぐらいのことを振り返ると、今回の喉の風邪との関係がなんとなく見えてくる。



【ここ1ヶ月ぐらいの振り返り】
・2人の人からの頼まれごとを、迷ったのに引き受けたこと
→「断る力」が必要だったんだと今は気付いた

・「5月のメッセージ」を書きながら、自分が綴りたい内容が薄ぼんやりと見えたこと

・両親ときちんと話ができてないこと

・文章を書くにあたり、自分が大事にしているポイントが見え出してきたこと

・心身共々落ちても読めるブログと落ちたら読めなくなったブログの差に気付いたこと

・18年前、日本に帰ろうと決めた時の理由を改めて明確に思い出したこと

・新年度始まったあたりから、占星術よりも占い師さんたちのブログをやたらと読んでいること


どれも心と体が連動していると感じる。



・2人の人からの頼まれごとを、迷ったのに引き受けたこと
→「断る力」が必要だったんだと今は気付いた

・両親ときちんと話ができてないこと

↑上の2つはとても似ている。

共通点は、自分の本音を言えてない。

頼まれごとは一度引き受けたものの、本当に一番はじめに自分の中に湧いたのは、「引き受けたくない」だった。

ただそれをどう伝えるかを考えたり相手の状況も読みすぎて、「断る」勇気がなかった。

自ら招いたことで、自分で反省しつつ、ちょっと在り方を今後考えるというか今までとは違う行動の選択肢が必要だと感じている。

ちなみに2人目はさすがに自分で気付いて、私ではなく他の方法で解決出来そうなやり方をやんわりと伝えてみた。

そちらで動いてみるとのことで、そこで何とか終わってくれるといいなぁと思っている。

今後それでもまた来た時は、できる範囲で今回はやるけれども次回からは条件付けて引き受けることをはっきりと言おうと思っている。

両親に本音を言わないのは、はなから理解をあきらめているのと、まるで日本語とアラビア語でキャッチボールしてるかのごとく全く交わる点すら見出せず、それで避けている。

のども詰まるなぁとわかる( ̄∀ ̄;)。

どちらもいきなり生まれ変わったかのように100%の変化を最初から達成できるわけじゃないから、徐々に自分のできることを自分のためにする他ないなと思っている。



実はちょっとした実験をした。

冒頭の不調を書いた時、夜明け前の4時ぐらいで、とにかく咳は出まくるし、さらに痰なのか何なのかのどのどこか通り道の部分に何かがずっと引っかかっていて異物感があった。

異物感を感じながら、「これって本音を言わないところが原因かな…」と思った。

それで今回ののどの風邪と連動してそうなものたちを列挙したのが上に書いた【ここ1ヶ月ぐらいの振り返り】で始まることたち。

気付いたなら、もしかしてのどの異物感が取れるかも…と期待しながら、いつのまにか寝ていた。

今朝の8時過ぎにこの部分を書いているけれど、気付けば、咳も痰も相変わらずだけど、のどのつまりだけはきれいに取れてるv( ̄∀ ̄)v。

実験成功♪─v(≧∇≦)v─♪

そういう時に効くとかいうツボをネットで見つけたからそこも押したけれど、なんとなく心理的要素の方が効果をもたらした気がする!

自分の中でずっとわだかまっていた諸々に気付いたことで、のどの異物感もグッバイしてくれたみたいな 笑。



・「5月のメッセージ」を書きながら、自分が綴りたい内容が薄ぼんやりと見えたこと

・文章を書くにあたり、自分が大事にしているポイントが見え出してきたこと

↑上の2つは、また別記事を途中まで書いているけれど、体調悪い時に「5月のメッセージ」をやってみて色々感じることがあった。

大きく言うと、「癒し」の要素を取り入れるように意識すること。

これ、この後に書くこととも連動している。
(読めるブログ読めないブログの話と)

いつだったかブログにちょろっと書いた記憶があるけれど、私は少し前から「男性性と女性性」についても調べ物を始めた。

もちろん、調べ物の理由は、自分を癒したいからv( ̄∀ ̄)v。

で、この間友達にそのノートを見せたら、友達が中身にいたく感動してくれた。

「これいいね!」って。

心に沁みるとも言っていた!

余談だけど、私がお気に入りの包装紙を貼り付けたノートだけど、その包装紙見ただけでどこの菓子屋メーカーなのかを言い当てた友達のあくなきスイーツ愛も知った 笑。

やっぱり癒しは大事!と思って、今後も癒しのためのテーマの掘り下げは満足するまでやる予定!

しかもそれが他の人にも役立つ可能性があるなら、よりやる気も出やすい。

他人のためにやろうとは思わないけれど、自分が癒されたものを人に紹介して、それに触れた人も同時に癒されたら超お得!と思う。



・心身共々落ちても読めるブログと落ちたら読めなくなったブログの差に気付いたこと

↑これは今回ものすごく顕著だった。

「月」について調べ物をしていた時に、ハッシュタグを辿って行き着いたブログがあった。

ハッシュタグ機能を考えた人、天才だと思う!

で、その「月」のハッシュタグなんて調べたことなくてクリックして見たら、それで今回初めて行き着いた占星術家の方がいた。

その方が超絶素敵過ぎて、その方にはいつか本気で会いに行くんだろうなぁと思っている。

占星術の知識はもちろん、人生哲学もされている仕事の在り方も、もうどストライク過ぎて胸ズキューンだった(o´艸`)。



その胸ズキューンの方とは対照的に、この1ヶ月ほど頻繁に読んでいたブログがあったけれど、最近体調不良も手伝って、発信されてる内容にもあれ?となった方がいた。

読んでいて反発を覚えるところが出てきて、その頻度が増えていってる。

さすがに今は合わないとわかって読まなくなったけれども、最初違和感を感じた時はこれなんだろう?と思った。

で、よくよく見比べると、実はズキューンな方とその人は同じことを言っている。

なのに、片や真っ直ぐに受け入れられて、片や読んでいて気分が悪くなってくる。

その差は、物の捉え方のプロセスの差や体験を通じての人間的なセンスの差だとわかった。

2人とも、特に読めなくなった人は寝たきりからの全回復を遂げた凄い体験の持ち主だけど、体験の差ではなくそこで何に気付いたのかが差となって表れている。

胸ズキューンの人は、そもそも1つ1つのプロセスやそこに至るまでの気持ちや決断、そういうものをとても大切にされてる。

動けない時、思い通りではない時、そうした時の心構えが本当に素敵で、そしてそうなってる人に対しての批判が全くない。

反対に大病した方の私が読めなくなった人は、その辺りが粗い。

元はきめ細かい人だったけれども、何かが違う。

きめ細かいことを知ってるのは、私は1年前ぐらいにその方からある商品を購入したことがあって、その時のエネルギーは本当にきれいな人でとても気に入ってた。

だけど、本人が色んな活動を続けて今に至った時、すごい残念なぐらい、そのエネルギーが別の方向に向かっているように見える。

表面は同じことを今もされているから、本人さえ差は気付かないかもしれない。

でも、最近読んだ文章の傾向がもう以前のそのきれいで真っ直ぐなエネルギーではなくなった風に私には感じる。

はっきり言えば、前のエネルギーはすごく好きだったけれど、今のエネルギーは好きじゃない。

そして、しばらくと言っても1ヶ月もなかったと思うけれど、ブログを読んでいて違和感を覚えるようになった。

いくつかあるけれども、そのうちの1つが日本に対する見方だった。

日本に対する考え方を見て、「それは絶対に違う」と感じた。

その方は海外と日本と行き来しているけれども、私がこれまで見たことのないタイプの捉え方をする人だった。

それが悪いというのではなく、その発言によって、「この人日本をよく思っていない」ことが滲み出ているし、そしてそれは日本をよく思ってないだけではなく、そこに暮らす人たちのこともどこか蔑視というか否定的に見てるようなところを感じる。

もしかしたら元々そういう考えは持っていられたのかもしれないけれど、前のきれいな頃を知っているから何だか残念に思う。

今はその粗さや心の深い部分で信じているだろうものが出ていて、私はその見えない部分の考え方そのものが好きじゃなかった。

見えなくても言葉に出ちゃってるからわかる。

海外に住むと感じるのは、日本の窮屈さをはじめとする色んな負の側面もだけど、それと同等に日本の素晴らしさや良さも実によく見える。

本当にどの国のどの場所も、プラスの側面とマイナスの側面の両方があることがわかる。

海外に出ると、私は逆に住んでいた時には気付かなかった日本の良さがわかると自分が体験してみて感じた。

それはアメリカの時もドミニカ共和国の時もそうだった。

その人が発信していたマイナスの側面も言わんとするところがわかったけれど、でもプラスの側面もあるよね?と私は思ってしまう。

物の見方に非常に偏りがあるとわかって、マイナスばかりに目がいって、プラスが軽視されてる風なのが本当に残念過ぎた。

批判したい人みたくなっているけれど( ̄∀ ̄;)、要は私の価値観や感覚と全然合わないことがはっきりとわかった。

で、話を戻して胸ズキューンな人。

胸ズキューンな方は、清濁合わせてすべてを同じぐらい慈しんでいることが本当によく伝わってくる。

マイナスなことさえ、それをとても冷静に捉えて、そこに必ず希望の種を見つける。

それがひしひしと伝わってくるから、言葉も真っ直ぐ入ってくる。

私が目指したいのはそういうところなんだと気付かされる。

どんなこともマイナスだけじゃないこと。

必ずプラスも宿っていること、その視点を私はこれからもとても大切にしたいと思っている。



・18年前、日本に帰ろうと決めた時の理由を改めて明確に思い出したこと

↑これも改めて思い出した。

最近のひそかなマイブームは、このブログ内で読まれた記事を自分も読むこと。

これが実によくできたシステムで、このブログには何が読まれたかを察知する機能が付いてる。

そのツールを使って読まれた記事を辿って自分も読むと、オンタイムで必要なヒントが得られる。

どこの誰が読んでくれたのかは知らないけれど、「ありがとう♡♡♡(*´꒳`*)」並みに感謝しまくっている。

で、今回ももれなく18年前の真実に辿り着いて、改めて自分の気持ちを確認した٩(๑>▽<๑)و
(今回はもしかしたら、読まれた記事の前後でアップされた別記事を読んだかもしれない)

私がなぜ18年前アメリカに残らず日本帰国を希望したのか。

当時の私は、子どもたちと何かを一緒に積み重ねることにものすごく心惹かれていた。

そして、それをするにあたり英語でのコミュニケーションに限界を感じていた。

どうやっても、細かなニュアンスがどうしても英語ではわからなかった。

英語を通じて、ここに書いたことと同じ感覚で私は理解ができない。

例えば「悲しみ」は理解できても、「いつもじわりじわりと心の中に潜んでいて、時々無意識に浮上してくる悲しみ」は英語(外国語)では理解できない。

後者のタイプの感覚までを知りたいと思ったら、私の場合、絶対に英語では無理だとわかった。

日本語でも怪しいのに英語だともっとわからない。

だから大学卒業を間近に控えた私は、迷わず日本帰国を選んだ。

あの時は表面的にしかわかっていなかったけれど、今ならわかる。

私はやっぱり言葉が大事なんだということ。

もちろん、色んな言葉でコミュニケーションは取れる。

そして言葉だけではなく色んな方法でコミュニケーションを取れることも知っている。

でも、私が極めたいのは、そういうことじゃなかった。

最低限、言葉の使い方や重み、意味を体感覚で感じることだった。

書いてて思い出したけれど、学生時代のボーイフレンドと別れるキッカケになったのは、言葉だったことがある。

私:I can’t deal with you.

彼:What do you mean “deal with”?

直訳すると、
「あなたのことを処理できない」
「“処理する”ってどういうこと?」
になる。

もちろんそんな意味で言ってないし、私的には「どうしていいかわからない」と言いたかっただけなのに、私の言葉の使い方誤りで逆鱗に触れ、もう修復不可能なまでに怒らせてしまった。

私は今でもdeal withがそんなにもいけない言葉で相手を憤らせるkiller wordだというのが感覚的にわからない。

これが母国語ではない第二言語の私の限界だった。

これもし仕事だったら笑えない(私生活でも笑えないけど)。

こういうことがわからないのは私にとってストレスの他の何物でもなかった。

他に良い例を思い出せないけれど、こういうストレスを仕事に持つのは嫌だった。

だから私の中で「母国語で仕事する」ことは、ある意味必須の条件だった。

実際に子どもと関わっている時も、子どもが今めちゃくちゃ大事な何かを告白してくれてる!ってわかっても、本当の本当に細かいニュアンスがどうしたってわからなくて、寄り添う努力も言語を伸ばす努力も両方できても限界が必ずあることを毎回悟ってた。

だから、私にとって、日本語で自由自在に表現するというのは、言葉だけじゃなくて言葉の裏側にあるもの、もしくは言葉そのものからは見えないところに存在している性質や重量感を言葉と一緒に感じることが大切だった。

しかも、日本語なら他の言い回しに関して選ぶ余地が自分の中にある。

自分でもわかるけれど、他言語になった時の私は日本語以上に表現がストレートになる。(毒舌と言っても言い過ぎじゃないと思う( ̄∀ ̄;))。

そういう表現の幅があるのも私には大事で、当時から「人と関わる」ことだけは自分の中にずっとある計画みたいなものだったから、そこも譲れなかった。



・新年度始まったあたりから、占星術よりも占い師さんたちのブログをやたらと読んでいること

↑これはまた別の記事でガッツリ書きたいことだけど、3月くらいから占い師を生業としている人たちの文章を読み漁っている。

占い師を目指してるのではなく、その方たちが見ている世界やそこから引き出された世界観に超惚れ込んでる。

想像したらわかりやすいけれど、例えば「占いに行こう!」と人が考える時は、絶好調よりもそうではなく鬱々としてたり悩んだり迷ったりしている時の方が圧倒的に多い。

そういう時に行こうと考える、イコール、占い師さんたちが接する人たちもそういう迷える仔羊状態の人が多いわけで、そうした世界から見た価値観が本当にすごい。

厳しさと優しさを同在させられる、本当に素晴らしい感性を持っている。

進みたいのに進められないとか、決めたいのに決められないとか、そういう人たちに対して伝えられる人生哲学や世界観をたくさん持っている。

そういうのを最近はひたすら読み漁っている(+写経のごとくあれこれノートに転写している)。




今回喉にきた、それもものすごい不調を引き出しているのは、1つは自己表現を自分の中で抑え込んだことも関係しているだろうし、そういう自分を出すためにまずは不要になったものを体の外に出そうともしているんだと思う。

体が苦しいし心も苦しいけれど、「絶対に良くなる」と信じていられるのはとても心強い。

ちょうどこの1ヶ月にあったことも、自己表現や自分の価値観に関わることが多かった。

それと関連しているのか?、やたらと部屋の窓からちょうど見える位置に鳥たちが毎日やってきて、ご挨拶のようにチュンチュン鳴いてしばらく私の目の前で羽休めをしていく。

鳥はコミュニケーションを表すとされているけれど、「コミュニケーションだよ、コミュニケーション!」と言われてるみたい( ̄∀ ̄;)。



[写真]
最近わかったけれど、システムが誤作動するのか私が並べた順番とは違う風に写真が出てくる( ̄∀ ̄;)。

今回は
・散歩中に見つけたたんぽぽの綿毛
・同じく散歩中に撮った太陽の写真
・友達が見て即わかったお菓子の包装紙で包んだノート
・部屋の窓から見える鳥さんたち

ちなみに、たんぽぽの綿毛を撮っていた時、ちょうど下校途中の5年生か6年生の男の子が私の横を通って行ったけれど、明らかに不審者を見るような視線で「何やってるの、あのおばさん?」みたいな無言のメッセージみたいなのも感じたことを記しておきたい( ̄∀ ̄;)。

そりゃ、草むらに向かってスマホを向けて何か撮っていたら、私だって「何やってんのあの人…」と思うかもしれない。

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