2019年4月30日火曜日

平成最後のブログ





平成31年4月30日〜平成最後の日〜


『平成最後のブログ』として書こうと思った。

ここ数日毎日天皇陛下と皇后の特集をやたらとテレビで見るなぁとボーッと思っていたら、今日が平成最後の1日だと気付いた。

あんなに連日平成最後の〇〇とか、令和に向けてとか、耳や目にしているのに、自分の生活に直接関係ないと思って見過ごしてた。

私はそれよりもここ最近の星模様のところでもろに自分に影響出るものたちが色々あって、そこにばかり気を取られていたら、肝心な元号のことを忘れてた。

平成最後の日は勤労に励むために、朝早くから家を出た。

ゴールデンウィーク3日間、ちょっとした社会科見学のような仕事をしているから、それはまた今度書こうと思ってる。

1時間弱の運転をしながら、突然数年前のある光景が思い出された。

数年前のある光景というのは、こうだった。

その頃私はまだSNSの1つ、mixiで日記を書いていた。

facebookや他のSNSがますます盛り上がり出したぐらいで、mixiも【つぶやき】はじめ色んな機能が増えて定着しだした頃だったと思う。

mixiもログインすると、まずはホーム画面に行き着き、そのホーム画面のトップに【つぶやき】が表示される風だったと思う。

そのつぶやきに「死にたい」みたいな投稿をしていた子がいた。

画面の向こうで私はしばらく思案した。

これ見て見ぬフリが正解なのか、とりあえず何でもいいから連絡取るのがいいのか、わからなかった。

「死にたい」とつぶやいた子は実際に知っている子で、私より10ぐらい下の子だったと思う。

色々考えた結果、とりあえず連絡することにした。

見て見ぬフリをした場合と連絡取った場合と、面倒くさいのは連絡取る方ではあったけれど、あとあと気持ち悪さや自分の中のモヤモヤ具合みたいなのの影響の大きさは見て見ぬフリの方が大きかったから、だから連絡を取る方を選んだ。

どっちもどっちだけど、圧倒的に自分がより嫌な方にならない方をこういう時は選ぶしかないといつも思う。

その後私は本人を呼び立てて、ちょうどお互いの真ん中ぐらいの中間の駅で待ち合わせて、その近くのマックに行った。

本人には2つの本を言って、どっちかプレゼントするから嫌でも出てきてと言った記憶がある。

そうやってあっという間にマックに到着して、あっという間にその時間を迎えた。

もちろん死ぬことはないし、「死にたい」と公に言えるぐらいの余力はあるから、死ぬとは思っていない。

だけど、ああいう時、「死にたい」と公に発信する側というのは、どれだけの勇気が要るのかと思う。

どんな話をしたのかも忘れたけれど、話聞いて時々2人で笑ったりしんみりしたりして、「死んだらダメだよ」とは言ったかもしれないけれど、余計なことは言わず、数時間マックで喋って解散した。

同じ色だけを集めた写真集を渡した。

字を見るよりもそっちの方が心が休まると言っていた。
7:40




仕事中は手だけ動かしていたらいいから、頭の中で「平成の中で手にしたもの」「今現在持っていて、明日令和元年以降に持ち越すもの」が何なのか考えていた。

真っ先に浮かんだのは、「両極端の体験」だった。

20代の終わりに気付いたことだった。

私はとにかくものすごく上とものすごく下の両方の側面を見る・体験する。

上の年下の子、その子のような「死にたい」発言の人にも出会えば、「生きるのが楽しい」人にも会う。

社会への貢献度合いが高い人もいれば、その反対(と本人が思っている)の人もいる。

自分の人生も、とても上手く行っているとか考えないぐらいになめらかに流れている時と今のように「さぁどうしよう」と迷いまくり足は重たいばかりの時もある。

とにかく両極端を体験する。

ちなみに上の子は、めちゃくちゃ才能を持っているとのこと。

私は現物を見てないから知らないけれど、共通の友達で天賦の才の持ち主がその子の凄いところを具体的に絶賛していたから、本当に間違いなく凄い力を持っている。

だから1人の人の中に、すごい可能性とすごい絶望の両方を持ち合わせている。

その子は出方が極端過ぎるかもしれないけれど、私も他の人たちもみんなそれぞれ外に表現される度合いが違うだけで、どの人も可能性も絶望も両方持っていると思っている。

そういう両極のものを自分も体験しているし、反対に環境や見える世界も両極のことが多い。

私にとってはそれが自分の血肉になったと思う。

綺麗事だけでは済まされないことや、どこをどう切り取ってもそこからプラスの要素を見つけるのは難し過ぎること、そういうのを積み重ねられたことはとても大きい。

私は良いことと同じくらい、もしくは体感的にはそれ以上の負のものにたくさん触れてきた感じがする。

そういうのは心の持ちようなどと言われるけれども、やっぱりそんなに簡単には割り切れなかったり、自分の心の落とし所が見つからなかったりする。

私は最近はもう、それでいいように思うようになってきた。

明るい世界は素敵だけれども、そうではない世界もあって当然だし、そこに対して素の感情が沸き起こるのもとても自然なことだと感じる。

少しだけ変わったのは、その自分の感じ方や受け止め方を、それも大丈夫だよと本当に少しでも受け止める力が自分にできたこと。

これはとても大きな変化だと感じる。

その感覚を令和にも持ち越せるのは嬉しい。
12:54




時間を逆算すると、あまり深い内容を書ける時間的余裕がないことに気付いた。

色々感じることも書きたいけれど、時間が限られている。

ザクザクっと平成最後の日を箇条書き。



*3日間だけのお仕事の2日目*

自分が何を見て仕事をしているのか、目の当たりにする。

今回のところは、挨拶だけ切り取ったら、人生で一番挨拶を徹底している組織。

挨拶が徹底しているところは、そうじゃないところを見るとわかる。←完全なる小姑かお局。

別に見ようと思ったんじゃない。

見えちゃったから仕方ない( ̄∀ ̄)。

仕事だから当然イレギュラーなことはある。

小さなイレギュラーだったけれど、挨拶マニュアルにはないイレギュラーゆえ、完全に個人のセンスがもろに出てくる。

残念過ぎる対応だった。

そして、その丁寧だけど残念な対応を見て、人間性がわかってしまう感じだった。

挨拶は上手くなくてもいい。

人が見ていないところ、そういう時こそ本領発揮すると私は思っている。

初代の万年挨拶しない上司と、最後の私に挨拶したくなさそうな上司と、その2人の姿が頭をよぎった。

2人とも挨拶はお世辞にも超一流とは言えない。(←私は何様なのかということはさておいて( ̄∀ ̄;))

でも、人が見ていないところではすごい色んなことをきっちりやっていて、それは黙っていても伝わる。

むしろ黙っているからこそ伝わる。

そういうところを私はいつも見ているんだなぁと思った。

人が見ていないところを別に良くしたって、誰にも見られていないことの方が多い。

でも、そこをやる人ってそれだけで私の中で好感度がアップする。

人が見てないからこそ、素のその人の姿が現れる。

そして、素の状態こそ、その人その人のセンスや人間性がキラリと光っていて、そういう部分が素敵な人は人からの信頼度も高い気がする。
21:14



*平成最後のごっこ遊び*

姪っ子メイ(3歳4ヶ月)と今回盛り上がっているごっこ遊びは「おみくじ屋さん」。

私が簡単なくじ引き(シュールな絵)を作って、それで私はひたすらくじ屋さん、メイはひたすら引く係(お客さん)。

「くじ引き」だと言ったけれど、メイはなぜか「おみくじ屋さん」と覚えて、毎回「おみくじ屋さんしよう!」って言う。

くじ引きじゃなくて「おみくじ」って言うところがなんだか良いことがありそうな感じがする。



*平成の日記帳*

2代前の日記帳を風呂場で開いた。

優雅にアイスコーヒーも淹れて、それを飲みながらペラペラとページをめくった。

塾に勤めていた時に、1人通っていた子が自殺した。

2回か3回しか見ないまま、次に来た時は訃報の知らせだった。

顔ははっきりとは覚えてなくて、でも本人がまとっていた空気感や雰囲気はけっこう強く印象に残った子だった。

静かなタイプではあったけれど、芯の通った感じの子だった。

どんないじめがあったのかは知らない。

でも、もし寿命まで全うしたとするなら、絶対にその子を気に入る友達や彼女がいただろうことは容易に想像できる子だった。

中学生ぐらいになると、邪の部分が入り込んで裏表ありそうな雰囲気の子も出てくるけれど、その子はそうではなく、すごい真っ直ぐで気持ちがとても優しい感じがするタイプの子だった。



ばばちゃんが死んだ時のことも書いてある。
(ばばちゃん=母方祖母)

ばばちゃんの葬式に出た後、飛行機に乗った場面が出てくる。

飛行機の窓のカバーを開けると、すぐ隣りにオリオン座が見えた。

すごい近くにオリオン座を見たのはその時が初めてで、それがまたばばちゃんが亡くなった後だったから、余計と星の近さがばばちゃんのいる場所の近くみたいに感じた。



平成の日記帳には人の死が入っている。

男の子の方の死は痛ましいものがあるけれど、そこに刻まれている名前を見ると、死そのものよりもその子が生きていた時のその雰囲気の方が思い起こされる。

ばばちゃんに関しても書いている。

「私の胸の中でずっと生き続ける」と。



*写真集*

平成最後に目にする本は何がいいかと思ってピンと来たのが、平成の日記帳と冒頭の写真の本だった。

それは12年前に買った小さな詩と写真とがセットになった写真集だった。

色んなカラーの本を同時に買って、その1冊が冒頭のmixiの「死にたい」つぶやきの子にあげたものだった。

相手は成人して間もないぐらいの男の子でそんなの好きかわからなかったけれど、普通に喜んでくれて良かった。

他のカラーは人にあげたのか売ったのか忘れたけれど、インディゴだけは気に入って手元に残した。

たしかばばちゃんが亡くなった時もスーツケースに入れて持ち帰った記憶がある。

時々思い立って手にする。

今日は平成最後だからと思って、それを手にした。

何回も読んだはずなのに、初めて気付いたフレーズがあった。

初めて気付いたフレーズは、今自分がこれまでのすべてを通り抜けなければ気付けないような内容だった。

まるでそのフレーズをメッセージとして、いつか未来の私が受け取るために手元に残したみたいだった。

下に紹介するのは、その中で私の好きなフレーズ。

初めて読んだ時から好きだった。



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日本語では
インディゴを意味する言葉は
ラブを意味する言葉と
同じ発音です。



宇宙の海を流れていく
メッセージの入ったビン。

あなたは
ビンにこめられた
美しいメッセージです。


『ザ・ブック・オブ・カラーズ  インディゴ』

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素敵なフレーズとは別に、自分のサインを見て驚いた…( ̄∀ ̄;)。

日にちの間違いはまだわかる。

だけど、何をどうしたら、2007年を1900年代と勘違いするのか、色々頭の中がとっ散らかっていることは多々あるものの、これはひどすぎる( ̄∀ ̄;)。



*かたつむり*

メイの寝言。

今私の隣りで寝ているメイが突然
「かたつむり」
ってぼやいた。

夢にかたつむりが出てくるところがかわいらしい。

【ゆっくり自分のペースで良いんだよ】
っていうメッセージだと覚えておこう。

ーー令和元年を迎える少し前

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