2019年4月20日土曜日
さくらの花びらのおみやげ〜春の散歩
春の陽気の中、小さな散歩をしてきた。
散り始めてはいたけれど、まだまだ桜は咲いていた。
桜の花が散り始めて、地面がピンク色になるあの風景が毎年好きだなぁと感じる。
帰り道、近所の家の水仙が目に入った。
無人宅になっている。
最後おばあちゃんだったかが1人になって、施設に入ったらしい。
小さな庭の水仙たちは、人が住んでいようがいまいが関係なく、普通に咲いていた。
自然の力のすごさを感じる。
人間は頭で一生懸命考えて、たとえそれが自然に逆らっていようが、無理矢理その頭で出した答えやスケジュールに合わせて動いたりする。
自然は、カレンダーや時計があるわけじゃないのに、もちろんスマホだのタブレットだのパソコンもないけれど、脈々と流れている時間と季節に合わせて、芽を出して花を咲かせて実を実らせて最後は枯れてまた次に備える。
家に着いて羽織っていたカーディガンを脱いだ。
畳の上に桜の花びらが落ちた。
粋な演出だなぁと、嬉しくなって木のテーブルの上に載せた。
2019/04/20 14:30
2019/04/20 12:45
今ふと出てきた。
魂同士は再会できて、すごい喜び合ってるのかなと。
人間側はいちいち人間らしく面倒なことをあれこれ考えてややこしくしているけれど、魂と魂は「やったね!やったぜ!」的な感じでもう満足しているのかもしれないな、と。
だから、魂と魂は通じ合ってお互いにスキップしてるかもしれない。
人間側はそんな単純じゃないし、社会的に考えてとか、常識的に考えてとか、ふつうは…と何が普通かもわかってないのに普通枠を意識してとか…、そうやって面倒なものに仕立てている。
2019/04/20 20:56
天秤座の月が部屋からよく見える。
満月ではないけれど、満月みたいなまん丸の月。
昨日の夜、満月に合わせて3分間瞑想をした。
1年前の誕生日に菩提樹の実でできた首飾り風のアクセサリーを買った。
108個の実でできていて、その販売者の方のブログを読んでいたら、満月にさっとできる簡単瞑想の方法が出ていた。
願い事でも好きな言葉でもいいから、それを108個の実を指で回して送りながら唱えるというものだった。
細かな決まりはなくて、やり方も自分のやりやすい方法でいいとあったから、私はやった。
なんと、2回やった!
その時、本当に不思議な感じで「繋がってる」のがわかった。
普段「繋がってる」とかいう言葉を使うのは好きじゃないし、よくスピ系の人たちが使う上っ面だけの言葉が大嫌いで、私は自分の心で感じてる時さえも、そうだと言葉にするのに抵抗がある。
だけど昨日は、感覚はそれだった。
っていうか本当は昨日だけじゃなくていつもそうだけど、私が怖くて全て覆い隠してしまっているのかもしれない。
体は魂の乗り物とか魂の寺院と表現されたりする。
乗り物や寺院を飛び出して魂はすべてお見通しなのかと思う。
だけど、乗り物にしても寺院にしてもそれは物体だから、魂みたいに勝手には飛び出せない。
普段はじっとしていても、昨日の夜は魂が教えてくれたみたいな感じだったのかもしれない。
ほらここにいるよ、って。
ここにいるじゃない。
「ある」って感じだった。
普段私たちは空気があるかどうかなんて確認しない。
確認のしようもない、見えないから。
だけど確実にある。
言うなればその感覚が一番近い。
見えるばかりの行動が全部じゃない。
むしろ空気みたいに見えないのに確実にあるとわかるって本当にすごいことで、昨日はその見えない部分を純粋に曇りなく感じられた。
上の「再会を喜び合ってる」と書いたのは、半分うたた寝しそうな目も閉じかかってぽわーんとしていた時に突然出てきた。
半分寝ぼけたまま、携帯を手繰り寄せて打ち込んだ。
多分私が悶々としたのと同じぐらい悶々としたんだと思う。
私は計画から数えて2週間悶々としたけれど、そして思い通りにならない現実にやきもきもしたけれど、自分ばかりが悶々としたわけじゃないと思ったら、1人じゃないんだなと思った。
もう二度と動揺や波紋を呼ぶようなことはしないから大丈夫だよ、と自分の中で誓いを立てる。
ごまかす余地がないぐらいに不器用なところ。
その不器用さは、人の心に響くし伝わる。
「無」を貫くというのは、最初は「無い」状態に気付かない。
何も無いことにされた、という解釈にもされやすい。
実際に私はずっとそう思っていた。
だけど、「無」を貫いている(貫くつもりだったのか、気付いたらそうなったのかは別にして)というのがある程度の時間をかけて貯まると、それが見えるようになる。
春になったら桜が咲いたり菜の花や水仙が咲くのと一緒で、見えない部分でずっと根が張られている。
地中は見えないけれども、見えないところでは絶え間なく次のステージに移るための準備がなされている。
不器用だからなのか、無を貫くと決めたからなのか、気付いたら今みたいになったのか、実際のところは知らない。
だけど、その見えない部分は感じられるぐらいの輪郭を持ったのは本当。
そして、それを感じたから私は見えないのに「ある」って感じた。
はっきりと「ある」ってわかった。
私の分析ツールにおいて「不器用」とされたもの。
それも超筋金入りのバリバリの不器用。
私は不器用には不器用の芽の出し方、花の咲かせ方があると思っている。
それは愛すべきキャラクターだと思うし、実際にスマートな身のこなしよりも誠実な感じがする。
自分で今書いててわかった。
言葉を出せない感じってこんな感じなのかも…
2時間半近くかかって、やっとここまで書いてる。
普段の自分のペースからは考えられないぐらいに言葉を選んで書いて、やっとここまで来た。
言葉を出せないのは、言葉を持ってないのとも思いがないのとも違う。
私が今1つだけ確実に言えることは、私はそれを理解する努力をしたいと思っている。
理解できるような器は持ってないかもしれないけれど、知りたい欲求だけはものすごくあるから、それでカバーできる気がする。
純粋に知りたいという気持ちは、理解なんかできなくてもそれを上回る何かがある気がしてならない。
上の「2時間半」ってところからさらにもう30分ほど経過した。
言葉を外に出すってこんなに大変なんだとわかった。
そう思ったら、普段ダラダラといくらでも文章を書いている私って凄いんだなと思った( ̄∀ ̄)。
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