あけましておめでとうございます(*´︶`*)
人生で初めてじゃないかと思われる、心からの新年の決意を!
「自分を使う」
言葉が相変わらず足らなさすぎて、またいつもの通り、思いついたまま言葉を綴ってみよう。
40歳を目前に、今やっとやっと自分を使うことを決めつつある。
私の山ほどある言い訳をいつか別記事にして書きたいぐらいだけれど、私はずっと自分の人生から逃げていた。
30歳ぐらいまでとりあえず色んな体験を積んだから、そこはとりあえずOKとしたい。
その後の数年間も逃げるというより必要な体験を積んでいたから、OKとしたい。
一番逃げたのは、この1年。
さかのぼること2017年の5月になるかならないかの頃。
とりあえず5月で派遣の仕事が終了するとわかって、でも次を全く決められる状態になかった私は、決断を先延ばしにした。
さらに、その夏、九州の友達の結婚式に参加することが決まっていたから、とりあえず働き方に関して博打を打ってる場合じゃなく、まずは稼ぐことに専念しようと思った。
派遣会社には、できれば短期で、期間は半年ほど、最長でも年度いっぱいで終了する期間限定の仕事を紹介して欲しい、と言った。
他に希望したのは時給ぐらいなもので、休日や職種は細かく希望を出さなかった。
そんな軽い感じで、というかもはや目先の結婚式に焦点を当てて、そして先々のことはまだ決めかねているから長期でどっぷりの仕事もアウトで、とりあえずもう数ヶ月決断するのに時間が欲しい、働きながらまた考えよう!というぐらいの体で次の仕事の紹介を申し込んだ。
そんなにも軽々しく申し込んだにも関わらず、ものすごい勢いで色んなことをその職場で体験することになったわけだけど、とりあえず自分のことに関しては先延ばしをした。
それで1年前の今ぐらいから、いよいよもう色んなことを先延ばしにしてばかりもいられない、と何の計画もまだ立ててなかったくせして、そこだけはやたらとはっきりと出ていた。
カウンセリングをするにも、セラピーをするにも、何も用意などしていなかった。
だけど、これ以上ズルズルと派遣の仕事を続けてはいけないというのはあった。
最低限の生活は保障されるし、とりあえず色んな心配をしなくて済むけれど、自分の中ではもうそうやって逃げてばかりもいられない、という気持ちだけはあった。
で、いざ何も準備しないまま3月に仕事を辞めて4月からフリーの身になったけれど。
また相変わらず色んなことを先延ばしにしまくった。
ホロスコープの読み解きは面白かったしどハマりしたけれど、ホロスコープを読み解けば読み解くほどに気付いていた。
自分で決めなきゃいけないこと、そして自分で動いていかなきゃいけないこと。
私はその2つからとことん逃げた。
決めるのも何を決めていいのかもわからなかったし、自分の心が決まらないから動き方に関してはもっとどうしていいのかわからなかった。
それらをわからないことにして、決めることも避けていたし、動くことも避けていた。
どちらも究極にしたくなくて、とにかく目一杯逃げまくっていた。
で、逃げてはいたけれども、他人の潜在意識や魂からのメッセージみたいなものをキャッチする自分にも気付き始めたし、ホロスコープの先生たちと霊視力のあるヒーラーのOさんから、いよいよそうした自分を使っていくことの話を出されるようになった。
3人とも私にやれとは一言も言わなかった。
「やるでしょう」という言い方でしかなかったけれども、その言い方やその他の話の部分から、やりたいやりたくないではなくやらざるを得ない、という感じだった。
さすがに色んなことがおかしいことにも気付いていたし、人生そのものの流れもかなり特殊なことも理解するようになった。
でも私は決められなかったし、動きたくないから動かなかった。
話はいきなり飛ぶけれど、私はつい数日前に自ら自分のサービスを第三者に売り込んだ。
いわゆる「営業」や「集客」にあたる行為だと思うけれど、私の場合、営業したわけでも集客したわけでもなかった。
今回年賀状のアルバイトに出たことで、1日の3分の1の時間は、勤労に充てられることになった。
それと同時進行で、私がキャッチした第三者の潜在意識なり魂からのメッセージを言葉に起こしていた。
やりながら、自分で気付いた。
これを無料で提供するには、私側に限界があると。
大真面目に、年賀状のアルバイトと同じぐらいの時間を必要とした(今回の場合)。
当然、1日の時間には限りがあるわけで、もし私がこれを丸っと無料でするとなると、私はダブルワーク並みの時間と体力と気力を使いながら何かをしても、お金は片方からしか手に入らない。
自分でもわかるけれど、相手から何かをキャッチして伝える時、私は全力でする。
お金をもらうもらわない関係なしに全力でやってしまう。
手の抜き方がわからないのと、元々器用に物事に取り組めないし、計算して「これだけのお金ならこれだけの労働を提供しよう」とかいうことを考えられない。
そういう割り切り方もできない。
だけど、メッセージは勝手に来てしまうし、相手から要望があれば伝えないわけにもいかない。
で、私はどうしたかと言うと、相手には正直に伝えた。
質問とかにも答えることはできるけれども、いかんせん時間がかかるし、私もそれを無料でやり続けるには限界がある、と。
だから、大切なところは全て伝えるけれども、それ以上に込み入った個人の話であれば、私から個人セッションを受けて欲しい、と。
要は、無料でやり続けると自分が嫌になる、すごく大切なことをしていると自覚してるにも関わらず、自分のすることが自分にとって負担になることがわかった。
だから、ここはお金を介して、はっきりと線引きするのが何よりも自分のためになると判断した。
もう相手云々ではなく、私がもたないからこれは無料でするのは違うとわかった。
そしてさらに話は飛ぶけれども、私は個人セッションができるほどに力がついた。
知識も技術も色々と蓄えた。
そして何よりも自分の心が定まってきた。
きちんと探せばいるのかもしれないけれど、少なくとも私は私と同じことができる人に会ったことがない。
自分でもまだ自分のできることがどういうことなのか手探り状態だけど、霊視とも違うし、カウンセリングやセラピーとも違うし、ここからは専門用語を並べるけれど(気になった人がいたら調べてください)、チャネリング、リーディング、ブループリントの読み解き、その他にもとにかくあらゆるジャンルに属さない。
別に名前は何でもいいけれども、とにかく私も自分でどうやってそうしたメッセージのキャッチをしているのか説明できない(どんな風に起こるかは説明できても、自分で「相手のメッセージを読み解こう!」と意図してやってるわけじゃないから、やり方は自分でもわからない)。
これは近いうちに記事にしたいと思っているけれども、とにかく言うなれば「勝手にメッセージがやってくる」から、私にしてもどうにもコントロールできない。
しかも自分でも自分の思考なのか相手からのメッセージなのか、今のところ、それが起こる瞬間はその分別すらつかないから、もっと説明は難しくなっている。
ちなみに、これ第三者のことはできるのに、自分のこととなると丸っとできなくなる。
自分で自分にできたらさぞかしいいだろうと思うけれど、自分に対してできないのが残念すぎる。
もう一つ。
自分の感情が強く出る相手もダメで、これが例えば異性のパートナーとなると、個人的感情が強く反応する相手ゆえ、冷静な判断に欠くことになる。
とにかく、そんなこんなで自分を売り込むと言うより、無料でやるのは限界だから、もっと個人的な対応が必要なら有料の個人セッションにして欲しいと自ら言った。
私の場合、営業や集客というより、自分の限界を相手に訴えるという、そもそもの論点が違っていた。
だから私は相手から申し込まれるなんて思っていなかったし、申し込んで欲しいとさえ思っていなかった。
そうしたら逆に申込が入った。
そこで気付いた。
私が自分の持ってるものを好きとか好きでないとか、売り込みたくないとか、自分の生き方を決められないとか、色々動きたくないとか、そういうのは関係なしに、私が持っているものを必要とする人もいるんじゃないかと。
そういう人に対して出し惜しみするのは絶対に違うし、もうやらざるを得ないのであれば、私が無理なくやれる方法を模索しながら少しずつ形にしていくのがいいのかなと。
半分寝落ちしながら書いているところが数ヶ所。
話がまた飛ぶけれど、私はとにかく自分のそうした性質を有効活用しようと考えている。
ここまで決められたのは、やってもやらなくても自分の価値は変わらないというのが本当の本当に腑に落ち始めたから。
この数年でことごとく色んな人たちから理解が得られず、なんなら私にしたら心無い言葉も飛んできて、かなりしんどかった。
でも、色んなことの積み重ねで、自分がどこで何をしていようと、反対に何もしていなかろうと、私は変わらないとわかった。
そして、必要とされなければやらないで済むだけの話だし、必要とされないからと言って私がダメになるわけじゃない。
例えば、自分が一緒にいたいと思う人から同じように思ってもらえなくても、むしろ相手から私が嫌われたとしても、それでも私は私のままで、そしてその自分でいいんだと思えるようになった。
またまた話が飛躍するけれど、私が自分を使う時、何よりも大事なのは、技術や知識ではなく気持ちだと思っている。
技術や知識ももちろん大事だし、それはきちんとして当たり前のことだとも思っている。
ただそれだけじゃ自分を使うことはできない。
一番基本でそして何よりも大切なのは、「気持ち」の部分だと私は思っている。
この場では細かいことは端折る(はしょる)けれど、1つだけ確実に言えること。
前回書いた2018年最後のブログの中に「愛」について語ったところがある。
愛の感覚に少しだけ触れた。
あの無尽蔵にでかくて広い愛、あれが自分を使う時に絶対に必要になってくる。
ここではキツいことを書いていないけれど、相手のメッセージを届けるというのは、時にかなりキツいメッセージも含まれる。
そうした時に、愛を持って相手と向き合えるかどうかが相当問われる。
そうした場面に遭遇した時に、間違いなく愛の感覚を知ってるというのは心強い。
自分にないものを何とかするなんてできないけれど、すでにあるものはただ思い出せばいい。
うまく言えないけれど、去年その会ってもいない人から私が貰い受けていたものは、その愛の感覚だった。
特に、物事がうまく進まない、むしろ後悔にも似た気持ちを抱く時、愛があるのとないのとでは全く違う展開になる。
そうしたものを教えてくれた人だった。
本人は自覚ないだろうし、私の考え方もぶっ飛び過ぎかもしれないけれど、そうした積み重ねがこれからの私の大切な土台の部分になってくれるのは間違いない。
寝ながら書いているからかなりわかりにくい話かもだけど、私はこれから先「自分を使う」ことを新年の決意だけにせず、本当に自分の残りの生きる時間に組み込んでいきたいと考えている。
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