「繋がっている」
もし好きでもない人から「繋がっている感覚がある」なんて言われた日には、私全身鳥肌が立ってドン引きする。
(そんなセリフ言われたことないけれど)
という自分の反応もあるから、この話をするのは相当ハードルが高い。
けれど、私の中ではどうにもならない感覚だから、今日はその検証タイム。
適当な言葉が思いつかず、思わず「繋がっている」と前回書いたけれど、これはあくまで言葉にするならそれだということ。
アラフォーの独身女が二度と会う確率はもう限りなくゼロに近い同年代男性に対して「『繋がっている』感覚がある」などと発言すると、痛いレベルではなく、本気で大丈夫?精神科行く?のレベルだと思う。
自虐ネタを披露している場合じゃないけれど、あくまで一般的に見てというレベルで前置きしないと、それこそ本当に痛い人になるから説明してみた。
そんなことは百も承知の上で私はこれから検証する。
そういう思考回路も毎回もれなくある中で、それでも繋がっている感覚を覚えるわけだから、もう話は尋常じゃない。
私は誰からも理解されなくても当然だと思っているし、むしろ理解して欲しいなんて言えない。
だけど、自分だけは自虐ネタにしないで、本当の本当に感じていることを素直に表現したいと思う。
だって、私の中の感覚を的確に表現できるのはこの世で私1人だけだし、それは誰かに理解してもらうためにするのではない。
強いての理由は、伝えたい人がいて伝わって欲しい人がいる、ただそれだけ。
じゃなきゃ、こんな痛々しいことを自らの手で公表するなんて、そんなことしたくない。
私は今でもあの強烈に自分の細胞中でその人のことを自分が想っているんだと知った瞬間のことを覚えている。
「強烈」というのは、「ゲッ“( ̄ω ̄;;)੭ꠥ⁾⁾」という方ではなく、強く烈しくの文字のごとく強烈だったということ。
自分が日々なるべくその人のことを考えないように努力をしてたのは知っていた。
でも、実際にどの程度どう意識しているのかは知らなかった。
怖くて知りたくなかったから。
だから私は自分のことをずっと誤魔化していた。
「気のせい」という言葉を呪文のように唱えまくってた当時。
イケメンに優しくされて浮かれポンチなんだと自分を無理矢理枠にはめようと躍起になっていた当時。
とにかく否定することばかりに力を入れていたせいで、本当のところ自分がどの程度どうなのかなんて全然わからなかったし、わかろうともしなかった。
その人がいなくなってしまう1ヶ月ちょい前の夜。
東京の妹行きつけのヨガ教室に行って、目を閉じながらのヨガ。
薄暗い明りの中で、意識はリラックスした状態。
ヨガの間中、どんなポーズを取ろうがじっとしていようが、頭のてっぺんから足のつま先まで常にその人のことでいっぱいになっていて、体は先生の言う通りにやっていても心はその人だらけで全く集中できなかった。
言うなればその人にひたすら集中していた。
そして仰向けに横になって瞑想みたいなことをしていた時、私はもう自分でもどうにもならないぐらいに、全身全霊細胞中にその人が自分の中にいるということがわかった。
自分でもギョッとした。
えっ?そんなに?みたいな。
私はまだ後戻りできるんじゃないかと思っていた。
でも、もうこんなに?という引き返せないレベルどころか、どこをどうやってもその人のことを考えていない隙間が自分の中に一切無いことに気付いて、それで堪忍した。
今振り返ると、当時はそれを恋愛感情としてしか捉えていなかったし、それ以外に何かあるなんて思ってもいなかった。
だけどその後色んなことが急降下する中で、恋愛感情もあったにしてもそれだけではない、というかそれ以外の部分の方が圧倒的に多いことに気付いた。
その人に手紙を書いた時がその最初の兆候だったけれど、あの時の激情はもう言葉では言い尽くせないほどの激しさだった。
理性をはじめ色んなものがぶっ飛んだ。
あれは魂の為せる技だなと思う(←これはうんと後からわかったこと)。
一緒になれるなら一緒になりたい♡なんていう恋愛にありがちな気持ちよりも、「今しか伝えられない、今伝えなきゃ絶対にダメだ」という何かに迫られたような感じで手紙を書いていた。
伝えなきゃいけないと思ったことは、命がけで書くみたいな、生きて会えるうちに何が何でも伝えなきゃみたいな、そういうよくわからない気持ちに駆られて書いた。
そしてラブレターでもない、本当に何だあの手紙?と思うような手紙を書いて書いて書き倒した。
(多分下書き直し清書合わせて24時間ぐらい、没頭していた)
もう人生で交わらない、今を逃したら絶対にダメだ、そう思った。
一緒にならなくても伝えなきゃいけないことは伝えよう、それだけだった。
私の気持ちを伝えたというよりも(何なら気持ちを表す言葉は一言も書いていない)、本当にそんなにたくさん書いたけれど一体これは何?というものだった。
多分相手からしてみても「俺ラブレターもらったんだよね」とはならないと思う。
そういう手紙じゃない。
その辺りから、私は好きや恋愛とかの感情とは何か違うというのを感じ始めていたと思う。
世の中にある、ありとあらゆる感情を寄せ集めて、ありとあらゆる愛を集めて、それで全部を足して1つの壮大な気持ちを作ったとしても、そんなのでは足りないぐらいに何か違う気持ちがあった。
大げさに言っているのではなく、それぐらい大げさに言ってもまだまだ全部じゃないぐらいに何か壮大で深遠なものだった。
ちなみに目の前にいた時は、現実に打ちのめされ、全く繋がっている感覚はなかった。
むしろ繋がれていない目の前の見える現実だけに囚われて、細かいことを考えてる余裕がなかった。
その辺りの細かいことは覚えていないけれど(←毎日会えなくなるカウントダウンと絶対に私を見ないぞ的な感じと自分のどこにもやりようのない気持ちとの間で必死だった)、多分繋がりを最初に感じたのはいなくなってからだと思う。
ある時、その人はいつも私の中にいる、ということに気付いた。
本人がいなくなったら気持ちが消えていくわけではなく、むしろ普通にいるということに気付いた。
その辺りは、いきなりいなくなったら気持ちが変わるわけではないのと一緒だと思う。
そこから繋がっている感覚にいくには、どんな思考回路だったんだろう…。
最初は「いる」だった。
繋がっている、なんて若干図々しい勘違いみたいな思考回路はなかった。
当時は「いる」の方が自然だったけれど、今は「繋がっている」の方が自然な感じ。
その人は常にいて、そのことを疑問に思うことはなかった。
正しくは疑問に思う余裕がなかった。
本当にいつからなんだろう、その人と繋がっているというような感覚が出てきたのは。
このブログも関係しているけれど、仮に書かなかったとしてもその感覚は生まれたように思う。
ちなみにブログに関して言えば、わりかし早い時期からもしかして届いているかもしれないと思った。
去年の10月に再開して、時期とかあまり覚えていないけれど、年内にはそう思ったと思う。
もちろん証明する手立てなんかないし、それ妄想じゃないの?と言われるのが当たり前だと思う。
でも私には私から発信されるものが相手の目に触れてる気がした。
今は読んでいると9割思っている。
最初そう思った時は(もうそれがいつかも覚えていない)、まさかね!と思った。
まさか読んでるわけないよね、と。
でもいつからか読んでる気がするようになって、細かな心情の変化は今さらどうだと説明できる言葉を持っていないから何も言えないけれど、少しずつ少しずつそんな風に思うようになっていった。
そしてもし当たりなら嬉しいことが1つある。
その人のことは一切登場させず、私が見て感じたその人の特徴、多分本人はそれを自分の短所や弱点として見ているかな…と勝手に想像しているけれども、そのことに対して私なりに感じていることを書いた文章がある。
その人に読んで欲しくて書いただけじゃなく、そこに載せた私なりのメッセージがある。
書いた当初は、これ伝わったらすごいなと思った。
さらにそれはその人については一切触れていない、なんなら別の人たちが何人か出てくるもので、そこからメッセージをキャッチするのは難易度高めだと思う。
私の勝手な感覚だけど、その中に出てくる人たちの素敵な感性や雰囲気とその人との間に似通ったものを感じていて、そこを何とか伝えられないかな…と思って書いたものだった。
私はその人なら私が言わんとすることをわかってくれるんじゃないかと思った。
全部確認したわけじゃないから断言はできないけれど、多分その記事が去年の秋に再開して以降、最多で読まれている。
ということがつい最近わかった。
もしそれが本当にその人から読まれているのであればとても嬉しい。
繋がっている…はいつから思ったことなんだろう。
最初、2月のホロスコープ鑑定の時かと思ったけれど、そこじゃない。
決定打にはならない色んなことが、私に「繋がっている」という感覚を覚えさせたのかもしれない。
その人とは本当に色々とありえない形で出逢って、そしてそのままスルーしそうな私に「ここだよ」と本人はアピールの気はさらさらなくても私がきちんと気付けるようになっていて、その後もありえないやり取りがいくつか重なって。
いなくなったらなったで、その人に通じているものをいくつも見て、どんどん色んな点と点が線になっていって、そして1年以上現在も進行形で日々やってくるサインたちや、出逢う前からの偶然と思っていた出来事たちに気付いて、だから「その人が自分の中にいる」ということに加えて「色々何だか知らないけれど繋がっている」ということを思った。
たしかに私は元々シンクロをメモして振り返って1人うっとりみたいなちょっと変わった趣味を持ってはいたけれど、いや、だからこそ余計とわかった。
その人とのシンクロの起こり具合が半端なかった件。
振り返れば振り返るほど、神さまのいたずらですか?みたいな域だった。
もう神がかり的な感じのことばかりで、回数はもちろん中身も異常だった。
多分これが自分やその人が頑張ってとか求めてとかいう体で起こっていたのなら、意図的だなと思う。
だけど、相手も相手の人生を生きていて仕事しているだけで、私も私で生きていて仕事しているだけで、なのにどうしたらそれだけのぴったりカンカンな出来事がいくつも起こるの?という具合だった。
しかも本当にちょっとでもずれていたらいけない。
何もずれることなく、本当にすべてはピッタリのタイミングで起こっていた。
1分としてずれてはいけないことが満載過ぎた。
いなくなった後も色んなことが鈴なりに重なり続けたし、今も重なり続けている。
今思うと、2月のホロスコープ鑑定で知らされた魂の繋がり云々の話は、私の中で「まさか」というよりも「やっぱり」という感じだった。
もちろんそんなことを聞くためにホロスコープ鑑定を受けたわけでは全くなかったけれど(むしろそんなこと聞くなんて当日迎えるまで思ってもいなかったけれど)、聞いてとてもしっくりときた。
何よりもあの意味不明な手紙を書く理由が自分なりに理解できたのは大きかった。
私の気のせいとかではなく、本当に繋がっていたんだなと思った。
そしてこれはペンジュラムのおかげでもあった。
異常にペンジュラムを使いこなせていた理由は過去世にあって、そしてどうやらその時の人生にその人は近くにいた模様。
「過去世」とか言ってる時点で怪しさ満載だけれど、私には十分な説明だった。
自分がペンジュラムとどんな風に付き合ってきて、そしてペンジュラムからいかにたくさん救ってもらったかを知っているから、だから過去世で使っていたのは間違いないと感じた。
そうした繋がりの中にその人もいたとするなら、手紙も激情も最後に見たその人の後ろ姿も全部全部1本の線で繋がった。
繋がっている…こういう時に思う。
前回の文を書いていた時のこと。
「このまま一生会えなくても不思議じゃない」この短い文章を書いていた時だった。
書きながら、涙がツーと流れた。
ボロボロっと2滴3滴と出てきた。
頭では会えないことがどう考えても普通だと思う。
でも、心はそんな風に考えていない。
それは嫌だというのと、受け入れられないのと、色んな気持ちがごちゃ混ぜになった。
冷静になると、現実は繋がってないんだからこのまま会えないと考える方が自然だと思う。
でも書いている時に出てきた気持ちは、私の心からの本心だった。
なぜなら書いている時の自分は、ある種の集中力を発揮していて、感覚がフラットというかごちゃごちゃ考えることが少なくなる。
書くことは心を吐き出す作業みたいなもので、スルッと言葉が出てくる。
それは考えて出すんじゃなくて、自分の中にあるものを文字にしているだけ。
そうした時に出てきた涙で、そんなの嫌だと思った。
それは静かな中でとても強い感情だった。
私は30歳を過ぎてからきちんと泣けるようになった。
それまでは泣かなかったわけではないけれど、1人の時でさえも気を張ってるようなところがあってきちんと泣けたわけではなかった。
30歳を過ぎてから、泣くことをあまり我慢しなくなって泣けるようになったことで、涙にも種類があるとわかった。
そんなのは普段出てこないけれど、出てくるとわかる。
自分の深い部分が反応して出てくる涙は、他の涙とは違う。
もう一生会えないと書いた時の涙はそれだった。
もう1つ、おかしいことを思い出した…。
今となっては検証のしようがないけれど。
転勤が決まって、寂しくなるでしょ?とその人は職場の人から聞かれた時、それが全く寂しくない、と答えていたというあの言葉を聞いた時。
時差も当然あるし、第三者を介して聞いていたこともあるし、私も当時はいなくなった直後で寂しさマックスだったという、色々そうした要素がありすぎて、そして私のこれこそ妄想かと思って即座に打ち消していたけれど。
実を言えば、その話を聞いた本当の最初の反応というか声?言葉?は、「違う!」だった。
違うというのは、言うのもおかしな話だけど、とっさにあれは私的に「違っていて欲しい」という意味で浮かんだ言葉だと思ったけれど、もしかしたらそうじゃなかったかもしれない。
上手く言葉にできないというか、確認のしようがないから難しいんだけど、話の中に嘘が混じっていると、たとえそれがその場にいない人が発言したことであっても、その違和感みたいなのを察知することが度々ある。
(友達や妹との会話なんかだとけっこうよくあるから、それこれこれこうじゃない?と聞くとそうだよとかそうかもという返事がけっこう返ってくる)
もちろんそれを教えてくれた人に「それ本心ですか?」なんてアホなことは聞かなかったし、ましてや「違う!」と最初頭によぎったことなんかも言わなかったけれど、でもたしかに私はあの時「違う!」とまず出てきたことは覚えている。
だから何だ?という感じもするけれど…。
もう少し言うと、私が感じた「違う!」はこんな風だった。
「全然寂しくない」と言ったその言葉は、ある角度からは本当にそうだし、でも別の角度からはそうではない、そんな風に感じた。
仕事面においては寂しさなんて本当に本人の言った通り皆無だったんだと思う。
元々希望して新潟のへんぴな町に異動になったわけじゃないと思うから、そしてそもそも転勤希望を出していたみたいな話も聞いたから、だから全く寂しくないと言ったのは本当に本当で、そこは私も否定する気はない。
だけど、あの時まず「違う!」と出てきたのは、別の部分での違うだったように感じる。
あの時に自分の体質的なものに今ほど気付いていたのなら検証のしようもあったのに(苦笑)。
それは、瞬時に浮かんだ言葉で、音量も大きくて(←別に音声として聞こえるわけじゃなくて、言葉が発する強さみたいなのが音量が上がったり下がったりするように変わる)、しかも一言はっきりと「違う!」と出てきた。
てっきり自分が違うと思いたくて出てきたかとその時は思ったけれど、今思うとなんか違う気もする。
だって、「違う」っておかしい。
私なら「えー、私は寂しいのに」とか「私はそんな風に思えない」とか「寂しくないなんてショック」とか、もっと自分よりの視点で何かを感じるのに、あの時は一言はっきりと「違う!」だったから、私が瞬時にキャッチしたのは別のものだったのかもしれない。
本人の本当の気持ちみたいな、人には言わない気持ちみたいな、もしかしたら本人さえも気付いていないようなものとか、それがあの「違う」だったのかもしれない。
あまりにも色んなことがあった1年だったから、何が結局「繋がっている」と思う1番の理由なのかは、書いていてますますわからなくなった。
だけど、「心の中にいる」だけにとどまらず、「繋がっている」と感じているのは本当。
最初に書いたように、もう生涯を通じて会えないかもしれない人相手に「繋がっている」なんて感覚は普通に考えておかしい。
ここに書いたことも、人によってはおかしいと思われる内容だと思う。
でも、ここに書いたことは少なくとも私にとって真実になっている。
そして1番の証明になるかは知らないけれど、私はあの時に流したような涙は他のこと他の人では出てこないことも知っている。
たとえもう交わらない人生であったとしても、この感覚は私の中で何か変化がない限り続くんだろうなぁと思う。
細胞レベルに刻まれているものだから、そんなに簡単に無くなる感覚ではないだろうなぁ…と少しあきらめにも似た気持ちを持っている。
忘れたくても忘れられない、そういう人になっている。
これからどうなるとか、そういうことはわからないからもうこのままでいいかと、今さらどうこうするものでもないから気持ちのままにいてみよう、そう思っている。
1つだけ確信していることがある。
もしもう一生このまま会わずに人生が終わったとしても、私はこの気持ちを持ったことを絶対に後悔しない。
むしろ、その気持ちを持ててしあわせだったとその時の私は思うんじゃないかと思う。
そして出逢わせてくれてありがとう、と。
昨日会った友達は毎回面白いネタを提供してくれる。
運転席の彼女は超真面目な話をしていた。
これから先の人生についてと、そしてアクションを起こそうとした矢先に同じようなことが立て続けに起こって、これは今動いてはいけないんだと思った、というような話をしていた時だった。
友達は突然、その人の名前を3回ほど連呼した。
超真面目な話だったにも関わらず、友達は横で「うわぁー、また言わされた(˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾」と突然声のトーンを変えて言った。
(運転中なのに、本当に手のジェスチャー付きで友達は言ってた)
その友達はその人のフルネームを知っている(私が教えたから)。
友達は真面目な話をしていただけでその名前を言うつもりなんて一切なかった。
なのに言っていて(私は気付いたけれど、真面目な話だったからスルーするつもりでいた)、真面目な話が一転笑い話に転じた。
ちなみに友達にフルネームを教えようと思って教えたのではなく、あまりにもちょいちょいその友達の口から関係のない話の時にその人の名前が上も下も出まくりだったから、それで教えた。
一事が万事こんな風だから、本人の知らないところで時々はネタになり、クッション材のように笑いをもたらし、なかなかステキな立ち位置に立っている(笑)。
11/12 23:59
【追記】
途中の部分を書き直した。
本当は消そうかと考えていたけれど、もう少しきちんと説明しようと思った。
昨日22時ぐらいの時点で、その部分以外は完成していた。
アップしようと思えばできるぐらいにまで書いたけれど、何かどうしても引っかかって、他のことしながらアップを引き延ばした。
私はブログで迷うことがあるとペンジュラムに聞く。
このままアップしていい?とか、この一文は消す?とか。
昨日はアップするしないを迷った時に「まだ」ということと、他にもう1つ付け足すことがあるというのがわかった。
でも付け足すのが何かはわからない。
23時半過ぎたあたりに訂正箇所の部分を初めて書いた。
自分じゃ何も思いつかなかったから、8月に書いたものの中にヒントがあるみたいで、それで見直して出てきたのが「違う!」のことだった。
(8月にヒントがあるというのは、ペンジュラムから教えてもらった)
「繋がっている」をテーマにした時に、どうしてその話がここに繋がるのかはいまいちわかっていないけれど、まぁ意味はなくてもいいかと思って書いたのが上のことだった。
そしてその日のうちにアップするにはあまりに時間がなくてすごい中途半端な話になったし、そんなおかしなこと言うのも嫌だったから次の日消してもいいなぁと思った。
だけど、今朝起きたら、消すんじゃなくてきちんと説明しようと思った。
曖昧な記憶ではあっても、自分が覚えてる限りのことは書きたいと思った。
自分の記憶もかなり怪しいけれど、あの時に「違う!」と出てきた感覚は、春先に初めて対面で目の前でわかる形で本人から本人に向けてのヒントを私がキャッチした時の感じに似ていた。
感覚の記憶は曖昧なところがあっても、真っ先に「違う!」と出てきたのははっきりと覚えている。
区別が難しいけれど、突然その言葉がやってきて(脳裏に浮かぶような感じ)、そしてものすごくはっきりとした言葉で言い切りの形でくるのが、強いて言うなら私の思考とは違う感じだった。
昨日はわざと書かなかったけれど、私が感じる繋がっている感覚は体感覚を伴うものもあるから、それとこの「違う!」と出てきたことはどこか似通っている。
別物だけど、わたしが体を使ってキャッチするという意味で同じ。
「違う!」も他の体感覚についても本当に合っているのか、私の単なる勘違いや妄想なのかはわからないから、本人に聞けるものなら聞いてみたいところ。
私が感じる「繋がっている」は、自分の願望が単にそのような感覚を生み出すのか(←単なる痛い人)、そうではなくて本当に何か繋がっていてそうなのかはわからない。
後者ではなく前者であっても、まぁそれで私が穏やかな気持ちになれたり、心のお守りじゃないけれどそんな風に感じられるなら、それでいいかと思っている。
ちなみに、本当に違うというのが合っていたら、それは言い返せば「寂しい」ってことになるけれど、それこそそんなのは私が寂しいのと混同していたり、もしくはその人も寂しいといいなぁなんていう私個人の願望みたいにも見えるから、判断は難しい(苦笑)。
でももし私の妄想劇場のような話が本当だとするなら、最後の瞬間、私が帰る姿が絶対に目に入らないようにものすごくヘンテコな位置で背中を向けていたあの姿はわかる気がする。
それなら「違う!」というのも頷ける。
もちろん、無意識にそうしてしまうぐらいに私が嫌だったという可能性も否めないけれど。
これは仮説だけど。
もし本当の本当にその人と私が魂的なご縁で繋がっているのだとすれば、私にとってもその人が自分の世界からいなくなってしまうのは強烈だったけれど、その人にとってもその人の世界から私がいなくなるのは強烈だったのかもしれない。
11/13 11:52
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