1年前、書家の方から書いてもらったメッセージのあれから。
【絶対的な
意志の
強さは、
使命と共に、
生き続けます。
納得を
追求して、
自分の心の人生を】
書いてもらったその日はものすごく気分が上がったし盛り上がったけれど、その後「で、『使命』って何?」となったのは言うまでもない(苦笑)。
忘れもしない。
その週末は通算3回目の週末だった。
毎日がやってくるのが楽しみだった日々は幕を閉じ、会いたくても会えない時間が始まった。
当時の私は、一番願っているものが手に入らないということを前に、もう何も考えられなかったし、代替品のように何か別のことに打ち込んでも虚しいだけだと思っていたから、生きる理由さえ見当たらなかった。
私はせめてその人の近くにいたかった。
嫌われてるのも嫌だったけれど、それでもいいから日々その人がいる空間の中に自分もいたかった。
それさえも叶わなくなった時、本当の本当に何も願うものも欲しいものもなく、完全に何かが失われて何にも考えられなくなった。
色彩を失った日々の中で、私は毎日のルーティンをこなし、暇さえあれば泣いて、その人を想い、生きてるのに生きてる感覚がないみたいな時間を過ごしてた。
そんな折に出逢った書家の方で、贈ってもらったメッセージだった。
あれからそろそろ1年になるけれど、そのメッセージはずっとずっと心に残り続けた。
そしてそこを皮切りに、どんどん自分を知るためのツールやヒントがもたらされた。
「自分が納得するためにがんばれ」と言われたことが、やっと少しずつわかってきた。
この1年の中で、さらに自分の嫌だと思う面は次から次へとベールを剥がされて、自分の腹黒さやゲスさに絶叫しそうだった。
弱さとか至らなさの方がよほど受け取りやすかった。
腹黒いのは知っていたけれど、想像以上過ぎたみたいな((((;゚Д゚)))))))。
色んなことがあり過ぎたけれど、その中で多分私がしていたことは、
・自分自身を明らかにすること
・その明らかになった自分で生きていくと決めること
・自分の価値観や信念を軸に生きる覚悟を決めて生きていくこと
をするための準備だったのかな…と思っている。
私は長いこと、自分ではない何かになろうとしていたし、周りから受け入れてもらいたい願望も強かった。
周りから受け入れてもらうと言うより、自分の居場所がないとか窮屈なのが嫌で、それを確保するために最低限受け入れて欲しいみたいな気持ち。
だけど、色んな自分を見てみて、最終的にこの自分で生きていくしかない、という良い意味でのあきらめは出てきた。
話のこじつけがすごいけれども、今日この記事をアップしよう!と思ったきっかけは、ヒーラーのOさんから指摘された「今の自分は何か足りない」感の話があったから。
1年前の書家の人が言った「自分が納得する自分」ってどんなだろう?と思った。
どうだと自分は納得できるんだろう?ってずっと疑問に思ってた。
1年経って確実に出てきたことは「もう自分を隠したくない」だった。
周りから受け入れてもらうために良い人ぶることはすぐには止めないと思うけれど、とりあえず人に合わせながら生きるの無理だなと思った。
ある程度はできる。
でも、それをずっとすると息が切れる。
私は嫌われるのは多分怖くない。
だけど、余計なこじらせのせいで、人間関係がスムーズにいかないのは、疲れるから嫌。
それはストレスになる。
だからそのためなら多少猫もかぶるし、営業用の自分も作る。
私は顔は作らないけれども、営業用の顔はものすごく上手く作れる。
世渡り術というか、自分がやりやすい方法を採択するために、あえて違うものを選んでいた。
だけど、その辺りもかなりどうでも良くなった。
素の自分でいいんじゃないかなと思った。
足りない自分じゃなくて、その足りないでこぼこした自分で生きていくことに納得したいんだと思う。
例えば、こうしてごちゃごちゃ小難しく考えて、いちいち納得できないといつまでもグルグルしてしまう自分も嫌だったりする。
でもそれも自分だし、本当に飽きたら変わるかもしれないけれど、もうこのままでもいいかと最近は思い始めてる。
文句も言い訳も多いけれど、そして悩むと動かなくなるけれど、それも自分だなと思う。
「自分が納得いく人生」って何??だった1年前に比べて、今はそれに対しての答えがちょっとずつ出てきている。
自己啓発系なんかでよく言われる
・having (持ち物・財産)
・doing(行動)
・being(あり方)
の中で大切なのは、being(あり方)というところ。
そこに私はもう1つ付け足したい。
・feeling (感情・気持ち)
究極、feel goodが一番良い。
どういう時にfeel goodなのかは自分にしかわからない。
私みたいに運動しなくても全く気にならない人もいれば、毎日スクワットする人はやらない日があると気持ち悪いらしい。
私はこうして書いている時feel goodだけれど、書くのが苦手な人にしたらこんなの拷問に近いと思う。
例えばどんな社会の顔だとfeel goodかは、これも色んな正解がある。
その自分にとってどうだと自分が少しでも息がしやすくて、どうだと息が詰まるのか、それは1つ1つ自分に聞いていくしかない。
で、自分への聞き方は行き詰まることがあるから外に聞くのはありでも、答えは自分しか持っていない。
それは自分に聞くことなんだと、この1年をかけてようやく腑に落ち始めてるところ。
通算3回目の週末だったあの土曜日から今日に至るまで、唯一胸を張って言えること。
それはその時の気持ちにも今の気持ちにも正直であり続けたこと。
それは気持ちが止まらなかったから正直になる他なかったというのが本当のところでも、そこに蓋をせずそのままにできたことは本当に良かった。
そしてそこだけは唯一ブレずに1年が過ぎたから、そのブレないところも1年もするとある種の安心材料に変わるとわかった。
自分のことになると常にブレっぱなしだし、気持ちや興味関心があちこちにすぐ移って1つのところにとどまらないことが多いけれど、その気持ちに関してだけはずっと一貫性がある。
疑ったり否定したりしても、基本形は常に同じで変わらない。
そしてそれが基礎の土台のように今はなっている。
自分がフラフラしても戻ってこれる場所みたいな感じ。
心の中にそういう絶対の場所があるというのは心強い。
自分の心が納得する人生の答えはすぐには出なくても、その想いをいくつも重ねた場所に関してはいつもある。
灯台みたいな感じ。
そんなものまでもたらしてくれるとは、3回目の週末には想像さえしていなかった。
Love unlimitedの世界だなと感じる。
【補足】
・文中に「代替品」などと表現した箇所があるけれど、どうしても他の適切な言葉が思い浮かばず、代替品と書いた。
まさか代替人とも書けないし(それはもっとおかしい)。
人の存在を「モノ」扱いしてるつもりは全くなく、単に語彙の問題でそういう表現になっただけ。
・「嫌われてた」と書いたけれど、本当のところは知らない。
嫌いかどうかは判断つかなかったけれど、ものすごく意識が向けられてたのは本当だった。
意識し過ぎて無視するみたいな…。
嫌すぎてものすごくわかりやすい形で無視したのかもしれないし、理由はそうではないかもしれない。
答えはその人しか持ってないから、本当のところは何もわからない。
ちなみに蛇足だけれど、魂の繋がりが強い人に出逢うと強烈らしい、特に男の人。
男性の体験者の話をたまたま読む機会が最近あって、2人(当人)+2人(こちらは女性側が当人から聞いて文章にしてた)の4人分読んだけれど、とにかくみんな強烈だと言っていた。
強烈すぎて訳わかんなくなるから、それで極端に避けたりとか、極端過ぎる態度を取ってしまうとか。
嫌いよりも強烈だという理由だといいなぁと勝手に願いながら読んだ。
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