ミクロの世界の話をしようと思う。
カッコよくミクロがどんな大きさを指すのか説明しようとグーグル先生に聞いたら、ウィキペディアがヒット。
ウィキペディアのまとめは、もう異言語過ぎて、日本語とは思えなかった。
ということでミクロの単位の説明はやめた。
とりあえず「あり得ないぐらいに小さな単位」ということだけはわかった。
1年前の秋の日、もうさすがに半袖は寒くて長袖のシーズンに入っていたと思う。
あまりに衝撃的なシンクロが一気に3つも重なったから、今でもその1つ1つの光景は鮮明に覚えている。
そのシンクロたちのおかげで、私は書くことを決められた。
ゼロに近くても絶対にゼロじゃないなら、その絶対にゼロではないことに賭けてもいいと思った。
さすがの私も、99.9%はゼロだと思った。
だけど、残りの0.1%はわからない、ある意味未知数だった。
その未知数に賭けた。
そして1年ぐらいになろうとしている今、私は1年前の自分の決断に心底感謝している。
去年のカレンダーを今さかのぼって見てみた。
去年の今日は、手を必死に動かしていたことが判明。
昼ぐらいから多分8時間とか、もしかしたらそれ以上の時間、某コーヒーチェーンにいたと思う。
下書きを見ながらひたすら清書した。
私はどうにもならない全てに対して、本気で絶望していた。
絶望しているくせして、絶望ばかりもしていられない、本当に変な感じだった。
あの時は自分のことで頭一杯で、色々細かく見れる余裕はなかったけれど、あれが最初の投石だったと今になって思う。
「無」一色だった世界に私は「有」を投じた。
それがたとえ一方通行でも、無だった世界に小さな革命を起こした。
そこからさらなる本当の物語は始まったと思う。
話を一気に進めて、2018年の今の話。
私は目を閉じながら、自分が手にしたものが何かを思い出しつつ眠りに就こうとしていた。
ミクロの単位の確率が本物だとするなら、そこからは考えられないぐらいの時間をもらってたんだなと気付いた。
過去のいつか、異常なほど長く書いた記事に関して、時間を計ったことがある。
読むのにどれぐらいかかるのかを計った。
かなりかかった。
二桁は確実にいったことは覚えてる。
そんなに長い文章、しかも無名の素人が書いている文章、そこに時間を割くというのは、「効率」とか「効果」とかいう視点から考えたら絶対に読まない方がいいと断言できる。
読んだところで何の得もない。
何か利益を生みたくて書いてるのとは訳が違うから、はっきり言って時間を無駄使いしているとも言えると思う。
そのミクロの世界の確率に賭けた私は、そんな夢みたいな話、あるわけないとかなり思った。
だけど、この1年近い時間の中で、私の中の確率は逆転した。
99.9%と0.1%がそれぞれひっくり返ったと思う。
妄想で話してるのとは違う。
私がひっくり返ったと思う理由は、別にある。
ちょっと話が違うけれど、ペンジュラムを使って何かをキャッチする時とか、私以外の誰かの潜在意識からヒントをもらう時とか、ああいう時、私の体は私の体のままだけど、何かをキャッチするための体質に変わっている。
自分じゃあまりその感覚の差がわからないけれど、どちらの時も私の意思や気持ち、思考は一切関係なくなる。
強いて言うなら「それ、私(=思考する私)は知らない」とか、「それ、私が自分で考えたことじゃない」という感じ。
で、ミクロの可能性だったことが、どうして確信に近い感じに変わったのか。
これは毎回じゃないけれど、体感覚が関係している。
ある一定の条件が揃うと、何かしら体感覚としてくる。
自分のこの1年は、このよくわからない体質とも付き合って慣らしてく必要があった。
そのちょっと変わった体質のおかげで、かなり自分の体感覚に目を向けるようになった。
最初の時、私は気のせいだと思った。
だけど、時間を追うごとに、体感覚の種類も増えたし、頻度も増えた。
「気のせい」として片付けるには、かなり無理があるぐらいになったのはいつからだろう。
明らかに自分のものではない、これまでにない体感覚とかも出てきて、最初は驚いた。
いよいよ「本気の変な人」の域に入ったかと思った。
それでも、どんなに否定して、どんなに私の気のせいとか私の勘違いとしても、それすらさえ無理な感じになったぐらい体感覚の回数は増えた。
そんなこんなを経て、私は多分だけど「繋がってる」と思った。
そんなこんなの色んなことを思い出した時に、1年近くをかけてたくさんの時間をもらってたんだなと思った。
何の生産性も癒しもないものに時間を使ってもらえてたんだなと思った。
そうしたら、形はかなり望んだものとは違うけれど、それでも1年前は「限りなくゼロに近い」と思っていたことが多分現実になっている、ということに初めてきちんと気付いた。
それに気付いたからと言って、何かが変わるわけじゃない。
だけれど、夢の中で急な階段を降りた時みたいな感覚はある。
見守ってもらえた、というタイプの気持ちに近いものがある。
このよくわからない体質は相変わらずわからないままだけれど、それでもそのおかげで感じられることもある。
そしてその体質というか体感覚のおかげで、目には見えないけれど何らかの形で繋がりはあると思うようになった。
1年前、それを初めて人にポロっと言った時、「そんなのあり得なくない?」と返ってきた。
その時は私もまだそう考える方が普通だと思ったし、私も自分がおかしいと思った。
そんなことあるわけないって。
でも変わった。
今はそうではない方の確率の方がうんと低いと思ってる。
妄想かもしれないし、私が間違ってる可能性もものすごく高い。
それでも、この1年近く、私は私の書いたことが届いてると思うようになった。
もちろん、私がここで色々書いてることは当たり前だけれど、何も伝えていない。
ブログの存在なんて言える間柄ではなかった。
仲の良い人たちさえ、知らない人の方が圧倒的に多い。
普通に考えたらかなり無茶がある。
それでも私には0.1%が多分当たりだと思うに至れた。
このまますっとぼけておこうかと思った。
でも、なんかもう言ってもいいかなと思えたのと、私の中で昨日寝る前に違う視点が見えたのとで変わった。
私は最初の出だしだけははっきりと覚えてる。
時間をください、と断りを入れた。
色んな意味合いの時間を総称して「時間」と言った。
伝える時間
それを目に触れてもらう時間
生きている時間
共にある時間…
色んな時間が私は欲しかった。
手に入らない時間たち、なのに時間だけはどんどん過ぎて、そのうち地理的距離も生まれる。
この世の終わりぐらいな気持ちだった。
あれから色んなことを経て今に至るけれど、よく考えたら発信することを思いついたのだって、「思いつき」以外の何ものでもなかった。
根拠なんてないし、あのミクロの確率に賭けようなんて思った自分の気も尋常じゃない。
それでも、何だかんだ続いて今に至る。
原動力の種類が違うというのもあるけれど、それでもこんなにも続けるとは思わなかった。
そしてこれまでにたしか370オーバーの文章をアップしているけれど、こんなの一朝一夕にはできない。
もう一度寝る前に感じたことを言葉にすると…。
私の感覚で合ってるとするなら、私は毎日のように少しずつ時間をもらってたことに気付いた。
それに気付いた時に、初めてこれまでとは違う温かさを覚えた。
私の体はある意味本当に便利で、何かがカチッとはまると体感温度が上がる。
じわっと温かくなる。
そのじわっとした温かさは、すごく心地良い。
守られてる感があって安心する。
私側は私側で複雑だけれど、沈黙を通す方は通す方で複雑なのではないかと思っている。
繋がりに関して、「そうであって欲しい」というよりも「そうな気がする」という感じが強い。
形としてはものすごくわかりにくいし、個人的に「もう少しわかる形にして」と思わなくもないけれど、それでも私が私で重ね続けたように、相手も相手で何かを重ねたと思う。
ずっと黙り続けることもできたけれど、言いたくなった。
たとえ1分でもここに時間を割くというのは、意思がないとできない。
仕事みたいにしなきゃいけないことではなく、むしろしなくていいことだから。
だからこそ、意思があって初めて成立する行為だと私は思っている。
それをしてくれてたんだと思ったら、私の中で見える世界が変わった。
これまではうまくいっていないところにばかり目が向いていた。
私の感覚が合っているとするなら、私の書いていることも届いているし、そうやって時間をもらうということもすごい可能性の上で起こっている。
妄想のような繋がりみたいだけれど(反論もできない)、それでも何かと何かが重なって小さくても繋がりがある、と感じている。
話が飛ぶけれど、先週の月曜日、共通の知人の方に連絡を取った。
ヒーラーのOさんが言ったことで1つどうしても確認したいことがあった。
Oさんに前回会った時、色々とOさんが見えたまま(視えてはないとのこと)に伝えてくれたことの中で、1つ私ではわからないことがあったから、それを聞くためにその方に連絡をした。
変なこと聞いてもいいですか?と前置きした上で聞いた。
返ってきた答えは、Oさんが言った通りだった。
Oさんの見通す力の凄さを改めて知り、何でそんなことまでわかるの?と思った。
このブログには書かなかったけれど、Oさんは、組織の売上についても言及した。
そういうタイプの人がいると、組織の中で起こりやすいこととその理由を教えてくれた。
そんなの私は自分がいない時の話でわからなかったから、それで聞いた。
その確認のために連絡をしたわけだけれど、ついでに違う話が出てきた。
その人が持っているクセ?仕草?空気?そんなのがついでに伝えられて、その姿を鮮明に思い出した。
そんなのすっかり忘れていたけれど、相手の一言で思い出して笑った。
笑いを引き出す空気っていいなぁと思った。
2人で本人は絶対に認めないだろうけれど、癒し系だという話になった。
(癒し系は私じゃなくて相手の人が先に言った)
ミクロの世界の話をしてたはずなのに、どんどん話がズレてる。
すぐ上に書いたことも出てきたから、ついでに書いた。
このミクロの世界の話と上の話の共通点はわからない。
だけど、出てきた=今言葉として出す時なんだろうと思っている。
結局何が言いたかったのか書いてる本人さえもわからなくなる文章に付き合うというのは、忍耐力や集中力を求められる。
それに対して時間をもらい続けてるだろうことを認識した時に、もうそのままそれは書こうと思った。
そのミクロの世界の繋がりみたいなところに、私は陰ながら支えられている。
それは私が最も大切にしたいもので、そして勘違いであったとしてもその勘違いで元気をもらっている。
おめでたいぐらいに、それで私は元気をもらっている。
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