どうして今まで気付かなかったんだろうと思う。
物事を見る時、常に主観的になってしまうのは仕方ないにしても、今回ももれなくそうで全く気付かなかった。
今さらわかってもどうすることもできない。
気付いたからと言っても、それは単なる私側の視点が少しだけ広がったに過ぎない。
だから大きな意味はないかもしれない。
だけど、知らないより気付いて良かったと思う。
11ヶ月ほどフィルムを戻す。
場所は、私側は階下に降りるためのドアを開けてすぐのところ。
相手側は階段を登りきったところ。
そこが最後の舞台だった。
あまりにも色んな気持ちがありすぎてずっと忘れていた。
私はその時の懸念事項の1つに、全く目を合わせてもらえないんじゃないかというのもあった。
自分の平常心を保つことに全力だったからそんなことさえ忘れきってた。
一度も目を合わせてもらえずに独り言のような挨拶をするのかと思ってた。
それも本当は怖かった。
相手の出方は読めないから、とりあえず挨拶をしたら自分の中の後悔は生まれない気がして、それでありったけの勇気をかき集めて挨拶をした。
声も冷たいわ表情も厳しいわでいたたまれない感じではあったけれど、一瞬だけその人は私の方を見た。
社交辞令的なものだったかもしれないけれど、それでも最後まで目を合わせてもらえないかと思ったらそうでもなかった。
目は怖くなかったけれど、普段の穏やかな感じはなかった。
その目の表情にばかり気を取られていたから忘れていたけれど、確かにその人は私に目を向けた。
良心の呵責で見ただけかもしれないけれど、ほんのわずかな時間、目が合った。
記憶ってすごいなぁと思う。
とても強い感情は記憶にもきちんと残る。
今書きながら、私は当時と同じ感じを体で感じてる。
胸やお腹の中に広がる重たい感じや泣き出しそうな感じはあの時と同じになってる。
もうあの時は今目の前にはないし、同じ瞬間は二度と人生で巡ってこない。
それでも体や心は覚えてる。
季節が一回りしようとしている。
見果てぬ夢はその形態を一度も変えることなく、全ての季節を一巡した。
この1年、悲しみと共に走り抜けた。
生きているのに叶わない…それがもしかしたら私にとって一番苦手な感情かもしれない。
生きてる限り何でも遅くはないと思うけれど、生きていても叶わないことはある。
4度目の東京を明日に控えて、より一層心の奥深いところにある願いと絶望の両方を見る。
ここまで色んなことが起こってさすがに自分の気のせいだとは思わなくなった。
本当に縁があって出逢えたと思っている。
私側の一方的なものでも、確かに出逢えた、とは感じる。
そして人生の転機に現れた人、という意味で、本当にそれ以上のものをもたらしてくれた人だとも思っている。
それでも叶わないことは叶わないし、受け入れたくなくても受け入れる他ない現実は常に目の前にある。
2月の大寒波のいつかの日、もう今あるものしか世の中には出回らないと聞いて、その人に贈るオルゴナイトを買いに行った。
本当は再会できたのなら、その後堂々と見に行きたかった。
でももし本当に再会できたとして、その時にはもうオルゴナイトの方がないだろう…と簡単に予想がついて、それで慌てて買いに行った。
私の手を通じて旅立った30近くのオルゴナイトは、今それぞれの人のところでそれぞれの大切なお守りになっている。
一度も出逢ったことのない人たちの分もかなりな数頼まれて、この間も言われた、あんなに全ての人にそれぞれピッタリのものを選ぶなんて、ぶっしーちゃん本当に凄いことだよ、と教えてもらった。
(私は単なる媒体で、選んでいたのはペンジュラム)
その人のものは、完全に私の直感だった。
見た瞬間、その人の顔がパッと出てきて、一応ペンジュラムにも聞いたらその人の分だというから、即決だった。
そうやって選んだのは、自分の分とその人の分しかない。
それ以外は基本みんなペンジュラムにどれがいいかを聞いて選んだ。
他の人たちの分は、たとえ本人が目の前にいても全くわからなかった。
買った時、店にあった説明書きを読んでも、何でそれなのかな…と疑問に思った。
何でそのオルゴナイトだったのかは、もっと後になってから知った。
春先だったような気がする。
自分の今年の誕生日プレゼントで買ったチャクラヒーリングの本に、その答えが書いてあった。
私が選んだものは、まさにその人にピッタリの意味合いのものだった。
ほとんど話したこともないその人なのに、その少ない情報からよくぞピンポイントで当てたな!とビックリするぐらい、その人にピッタリのものだった。
本人の元へ旅立つ可能性が限りなくゼロに近いのに私はそれを家に持ち帰ってきた。
今はオルゴナイトご本人(人じゃないけれど)の希望で、いつも私の目の届くところにある。
私のオルゴナイトのすぐ隣りに一緒に置いてる(場所や置かれ方も希望があるから、その通りにしている)。
ただ、私のオルゴナイトと違って、まだ発動していない。
持ち主の元へ行ってからでないと発動しないというオルゴナイト。
今もまだ発動前の状態らしい、ペンジュラムいわく。
この間お盆の時も改めて聞いてみた。
このまま本人の元へ行かないのなら、それをとっても気に入ってる2歳の姪っ子にあげてもいいなぁと思った。
それは何度となく思っていて、今回も姪っ子が勝手に手の上にのせて「メイこれしゅき♡」と言ってたところにペンジュラムをかざして聞いた。
「この子、メイのところに行きますか?」と。
今回もスーパーNOだった。
10月以降どこかのタイミングでオルゴナイトの作者さんにまたお会いする予定になっている。
私はその時に聞いてこようと思っている。
今行き先は確定してるけれども、その人の元へ行くか行かないかわからないオルゴナイトがあること。
本当に行かない場合、そのオルゴナイトをどうしたらいいのかを聞こうと思ってる。
このまま持っていることもできないわけではないけれど、オルゴナイト側が私が持ち主じゃないと知ってるから、私のために発動はしない。
物は喋らないけれど、私はこうして物と対話するようになってから、物の方が人間よりもうんと深く道理を知っていて筋をきちんと通していることを知った。
だから本人の元へ行かないなら行かないで、最善の策を採りたいと思う。
私の勝手な暴走で持ってきてしまったものだから、そこは最後まで責任を持ちたい。
ちなみにオルゴナイト本体は、持ち主の元へ行く気満々になっている。
毎回「どうやって行くの?」と思うけれど、オルゴナイトは一貫としてその人の元へ行く気でいる。
オルゴナイトを用意したことは全く後悔していない。
でも、絶望的な現実は現実で、目を背けたくても背けるなんてできないぐらいにアピールしてくる。
もちろん願ってる。
それを無事に渡せるだけの状況が訪れますように、と。
絶望しつつもあきらめてはいない。
意図を放つ。
空に向かって、届きますように、と放つ。
冒頭の目の話。
今になって思ったことはこうだった。
本当に嫌だったのなら、目なんて見なかったと思う。
どういう意味だったかなんて本人じゃないから知らないけれど、その人はものすごくわかりやすい形で私を避けようとした。
私が目の前で用事を伝えてるにも関わらず、絶対に目を合わせないことを徹底していた。
なんなら声さえも耳から遮断してるんじゃないかというぐらいだった。
そんな風だったから、その人が最後の時私に目を向けたことに少なからず驚いた。
避けることも目を合わさないこともできただろうにそうはしなかった。
行き場のない想いややり切れなさは1年間とくと味わった。
叶わない現実を前に絶望感も半端なかった。
それでも私は望みを断ち切れず、ミクロみたいな可能性を真剣に祈ってる。
今窓の外ではバケツをひっくり返したかのような雨が降っている。
雨も雪も散る桜も一瞬で消える花火も、幾つもの消えゆくものたちを見てきた。
どれだけそうしたものを見て、同じ日が二度とない毎日を過ごして、それでも残った。
その人の存在はずっとずっと残った。
もう同じ空間にはいないのに、その人は毎日毎日変わらずに私の中にいる。
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