2018年8月10日金曜日

料理本・絵・王国・書くこと

図書館であと少しで読み終わるよしもとばななさんの本をゆったりとしたソファーに座って読んでいた時のこと。

60〜70歳ぐらいの女性が何冊か料理の本を手にして、私の数メートル先の同じ形のソファーに座った。

その人が料理のレシピ本を見る本当の理由は知らない。

だけど、多分、家族に美味しいものを食べさせようという気持ちが底辺にある、そんな風に見えた。

もう何十年と主婦してます、料理してます、という雰囲気が漂っている。

気になったレシピは隅々まで読み込んでいる。

読むだけで頭に入る=普段から料理している人だ。

私はその女性を見ただけで涙が出てしまった。

毒出しはまだまだらしく、昨日(8日)の夜からまた一気にドンと落ちた。

手元にあった占星術の本にあった。

・どうすれば、もっと自分の気持ちに正直になれるのか?
・もはや適切ではないような感情のパターンを追っているのではないか?
・どうすれば、これらを解き放ち、自分をいつくしみ育てるよりよい方法を見つけることができるのか?
(『占星術バイブル』 ジュディ・ホール)

コミュニケーションでも、人間関係でも、責任でも、自己主張でも、自己表現でもなく、今の私はひたすら感情らしい。

上の質問は、蝕が起こる時にどの天体に重なるかで変わる質問みたいなもので、私の場合は今回「月」。

11日新月までこんななのかと思うとゾッとするけれど、もう仕方ない。

自分の中の何とかしたい悪しきパターンを前に、もがいてもがいてもがきまくってる。

と言うよりも、もはや何もしたくなく(けど、これは書ける!)、呆然と時間を過ごした。

私は今のこの時間が何なんだろう?と思ってる。



記憶がかなり曖昧だけど、名古屋にいた頃、ものすごく面白いことをしている絵を描く私より少し?多分離れていても一回りぐらい年上の男性がいた。

官製はがきのサイズの個展のお知らせは、畳2畳分ぐらいの掲示板の中ではとてつもなく小さかった。

だけど、私はある夜の日、23時は回っていたと思う、名古屋ドームのすぐ横にあったその掲示板に釘付けになった。

一度は通り過ぎた。

しかも食料品の買い物もしたから、両の手は重たかった。

なのに、私はスーパーの袋ごと数歩戻って、その妙に存在感のあるはがきサイズの案内を見た。

理由は知らない。

見てすぐにその個展に行きたくなった。

私は後日、その人が出ているという日に、電車を乗り継いであるカフェに行った。

その人は今目の前で私の願いや話を聞いて、そこから得たイメージをそのままはがきに絵を描いてくれた。

1枚千円だったと思う。

その人はそれを全額東日本大震災の寄付金にすると言っていた。

で、その時に多分20分前後やり取りしただけの時に、こんな話をしてくれた。

「僕はこうして目の前の人たちからその人の人生のある1ページを聞かせてもらう。1人の人生には膨大な数のページの脚本がある。その中のたった1つのページを僕にシェアしてくれる。その瞬間が僕にはとても特別なものなんだ」

そんな風に言っていた。

その絵はその後の別の個展で使われた後、白黒の船の切手が貼られて私の手元に戻ってきた。

今もその絵を私は自分の部屋に飾っている。



(以下引用)
・いろんな価値観の人がいるからなあ。それはいいんだよ、戦うことはない。自分の世界を怖そうとしないかぎりは。でも、今回はちょっと壊れそうだったんだろう?そうしたら、ゆずれないことがなんだかわかってきただろう?

・人生は短いから、自分のいやすい場所を見つけたらそこをひたすら清めていくほうがいい。

・なんでなにかを決めなくちゃいけないと思っていたんだろう。風も波頭も気持ちも遠くの緑のざわめきも港に見える船も全部がバランスよくそれぞれに動いているその世界の中で…(中略)何も欠けたものなんかないのに、自分だけ狭い気分になって深刻ぶることさえも、許されているのだと。
(『王国④ アナザー・ワールド』よしもとばなな)


返す直前に読んで、心に残った部分。

今みたいな状況は「待つ、動きたくなるまで待つ」と今朝見たネットの文章にあった。

話は少し変わるけれど、こんな時でも文章はつらつらと書けるんだと感動した。

私にとって書くことは、好きだから書くとかそういうレベルとは違う。

書くことに関しては、それが好きかどうかは考えたことない。

だけど少なくとも20代の前半には生活の中にあったし、30代は自分を助けるために書いてるようなところがある。

しかも書く時の手段は何でもいい。

当初このスマホのメモに打ち込むことも苦手だったけれど、今は慣れた。

書くことに関してだけは慣れるんだなと思った。

だけど、慣れないものもあって、予め書き方が決まっているものは書けない。

一時期ネットライターを人から紹介されて登録したことがあった。

それがもう驚くぐらいに難しかった。

まず、スタイルが決まっている。

内容も自由度が低い。

そして、ビジネスらしく、ある程度読者のニーズに応えるような内容でないといけなくて、これがまた極端に規制がかかる。

どこぞのサイトは、私は体験談は持っているけれど、その型にはまった書き方はできないから辞退しますと連絡をしたら、手のひらを返して「貴方のスタイルで自由に書いてください」と来た。

私の中で、何か大切なものがズレてるとわかって、それっきりにした。

私の体験談は、経験者が少ないものだったから、普通なら知識よりもその体験談の方がリアルに役立つ。

私も調べたから知っていたけれど、その体験談を書いて発信してるなんて人は本当に少なかった。

だけど、変な規制だらけで、書けない。

何でこんなに枠だらけなんだろうと思った。

だからそうしたものたちからは早々と撤収した。

代わりに、決まりも何もないこのブログみたいなのは、ダラダラと書いていられる。

普段のメモノートもだけど、あれも決まりがないから書きやすい。

今手帳の使い方からメモの取り方から、本当に様々な本が書店に並んでいる。

そして、ノートや手帳もそれに合わせてたくさん種類がある。

だけどすごい窮屈な感じをそうしたものを見た時に感じる。

実際に買っている人を見たことがないけれど、商品としてあるということは需要があると仮定できる。

私にとって書くことは、子どもが好きな遊びをエンドレスでずっとやるのと似ている。

2歳の姪っ子のアイスクリーム屋さんごっこみたいな(本人にしかわからない謎のルールがたくさんあって、その謎のルール通りに遊ぶのが大好き)。

だから、多分他の人からしたら何がそんなに楽しいのかわからないと思う。

この書く行為、書くというよりも一種の自己表現活動、私はその型もホロスコープに刻まれている。

で、私の場合、それが長い時間をかけてようやく「これが自分のそうした本質に基づいてる」と気付くのが中年期以降とある。

この続きにピッタリな話が今ほど出てきたけれど、長くなりそうだからここで一旦終了。

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