2018年7月5日木曜日

癒しのレシピ 追記

最初に、癒しのレシピについて追記。

説明するために、今、例として作った文。

「悲しみ…自分の中で失ったと思っているもの。失ったように見えて実際は失われていません。」

今さら説明が足りなかったなぁと…。

「感情の名前(例:悲しみ)」の部分。

これは感情の一覧表にあった数ある感情の中で、今回ペンジュラムが反応を示したもの。

イコール、その人自身が【自分の中で抑え込んでいたり、押し殺そうとしている感情】と捉えていいもの。

抑え込んだり押し殺そうとしたことを悪いと思う必要はなくて、そういう感情が自分の中にあると気付くきっかけになればいいなぁという感じ。

感情は抑え込んだとしてもなくなるわけじゃないし、本当は何か大切なことを伝えようとしてくれてる。

私は感情はどちらかと言えば、自分の味方だと思ってる。

感情はコントロールするものじゃなくて付き合うもの。

あのビジネス系や自己啓発系の本で、感情をコントロールしよう、なんて提唱されてるのを見ると私はゾッとする。

もちろん、変な意味で言ってるわけではないし、その言葉にはきちんと意図があるのも読んでいくとわかる。

だけど、それはある程度感情とうまく付き合える人には有効的でも、普段から感情を押し殺してる人にはさらなる毒や劇薬になってしまう。

そういう人たちは本来逆なんだけどなぁといつも思う。

この話をすると、本来の目的の癒しのレシピの補足を忘れてしまうから、今日はここで一旦ストップ。

その後の「自分の中で失ったと思っているもの。失ったように見えて実際は失われていません。」の部分。

それは特定された感情(悲しみ)に対して、その奥にあるメッセージを拾ってきたもの。

例えば悲しみ1つ取ったって、「誰かと離れてしまって悲しい」のか「自分の大切にしてたものが失くなって悲しい」のか「自分の手掛けていたプロジェクトが失敗して悲しい」のか、理由は色々ある。

その該当してる感情を抱く理由は私にはわからないけれど、それに対してのメッセージやヒントという感じ。

メッセージやヒントも、私の思考というのとも違っていて、とりあえずいくつかパッと出てくる。

出てきたら、それを書くかどうかを私は選ばず、ペンジュラムに選んでもらう。

ぶっちゃけ、私に向けたメッセージじゃないから、私には実はよくわからない。

だから私には響かない。

モニターをしてくれた人たちを見てると、モニターの人たちにはそれぞれの言葉が響いていたから、それを見て、それが誰でもいいわけじゃなくて本人向けのものなんだろうと私は思ってる。

上の例に書いた悲しみとそのプラスの説明は、頭使って書いたから、時間がかかった。

受け取り手の人に焦点を合わせてる時というのは、情報が私のところに来るのが速い。

基本的に私が考えるわけじゃないから、思い浮かぶのを待ってたらいい。

待つこともなく、基本的に瞬時にやってくるから、その後忘れないようにメモする方が実際は忙しい。

今「悲しみ」を例にして書いてわかったことは、速さを比べた場合、思い浮かぶ(情報がもたらされる)時間>自分で文章を考える時間、となる。

相手の意識から情報が来る時は、私は一切考えなくていいし、とにかく来たままをひたすら忘れないようにメモすればいい。

でも、同じ内容を自分で1から組み立てようとしたら、そもそもの切り口もわからないから、そこをまずは考えて、そして何が必要か検討して、じゃあ次は必要だと思う資料を見つけて、そして次はその中で良さそうなものを読みながら拾って、そして次は文章を考えて…となるんだと思う。

そんなことしてたら1日あっても終わらないし、相手に1から100まで情報をまずは喋ってもらわないと私もどうにもできないだろうことも予想できる。

まぁまぁまぁ、だから、昨日公開した癒しのレシピも、あれは完全に私の思考や考えとは関係なかったなと今になってわかる。

私の感覚からしたら、完全に受け取り手の方から情報が来てる。

私はその情報を単に受信して、それを言葉にして見えるように作業をしただけ。

大事なのは、「武士俣が書いてる」という考えは一旦脇に置いてもらって、「自分自身からもたらされてる自分へのメッセージ」として見てもらうこと。

私が知る必要があって見てるというのも、その詳細を理解することではなくて、もう少し別の理由だと思ってる。

真っ先に思ったのは、この一連の癒しのレシピを通じて、受け取り手に対しての理解を深めるとかなのかな…と。

あとは、その人に「1人じゃないよ」と伝えることなのかな…と。

その辺りはよくわからない。

よくわからないけれども、私も目にする必要があったとのことだから、もう少しその癒しのレシピに私は私で向き合ってみたいと思う。

大事なのは、
「抑え込んでるとされる感情が何かを知ること」
「その感情に対してのメッセージを自分のために心で読むこと」
という風に理解してもらえたら幸いです。

もう1つ補足説明。

「泣く」のメッセージの部分。

いざ泣こうとしても泣けないのが普通。

で、泣くことを目的とするのは抵抗あるかもしれないけれど、それをすることで泣かせてもらえるのであれば、例えば感動的な試合を見て心が震えて涙が出るとかでもOK、という意味で具体的なメッセージに繋がっています。

とりあえず「涙を出す」行為を自分のためにしてあげる、涙を出すことで心の中に溜まっている感情を外に出してあげる、そんな風です。

今回の癒しのレシピについては、私もかなり半信半疑だし、今も本当に本人が必要としていたのかわからない。

だけど、情報は来てしまうし、今さらそれを知らんぷりもできない。

そもそももって、私は何で冥王星について調べたのかはわからないけれど、それだって変と言えば変だった。

たしかに自分のホロスコープの鑑定書を見たけれど、何がどうしていきなりあんなにもその内容が響いたのかはわからない。

私の日々の生活の中は、変わったことがあちこちに散らばっているから、冥王星の調べ物だってその一環として見たら何ら不思議じゃない。

だから私は自分のしてることを深く考えはしなかった。

でも冥王星を調べたことで、2日前の冥王星の文章が生まれて、ブログにアップして、そして多分あれがトリガー的な役割となって私の昨日の腹痛に繋がっていると思う。

そして最終的には癒しのレシピに繋がったのかな…と。

ここからは完全に私の超個人の主観的な話。
(上は、癒しのレシピの追記と分析。ここから下は私の個人的な思いオンリー)




もう十分苦しんだから、それを1人で全部抱え込まなくても大丈夫だよ。





と言えるものなら言いたい。

私は今回の癒しのレシピは、本当に本人からのSOSだと思ってる。

きちんと仕事をして社会的役割もしっかりと果たして、ぱっと見何の問題もないと思う。

表面だけ見たら、よほど今の私の方が社会的に問題なわけで、そんな私が言うのはとんでもなくおこがましいと思ってもいる。

そういうことではなくて、私が訳もわからずキャッチするぐらいということは、それだけ本人の限界に達してるのかな…と思った。

もしかしたら本人はまだまだ大丈夫、と思ってるかもしれない。

1人で全部抱え込むのが当たり前で、それ以外の方法なんてこれまで考えたことさえないのかもしれない。

だけど心的にはもう限界そのもので、だからたまたま私みたいな体質のところにその情報がやって来たんじゃないかなと。

私は基本、誰でも彼でもの情報はキャッチしない。

きちんと私もその人の何かをキャッチしようとしないと、その不思議な感覚でやって来るあの情報たちはやってこない。

来てたとしても私側が閉じてるみたいな感じなんだと思う。

でも昨日、全く予定もしてなかったのに、情報やヒントが一気に渡されて、それって相手の意思もあるんだろうなぁと思った。

本人の自覚はなくても、深い意識の方から発信されて来たと思う。

ちなみにモニターをしてくれた人を見た時もそうで、本人はそのタイミングで癒しのレシピを受け取る気は全くなかった。

その人には、限界と思った時にモニターの連絡を私にして欲しいとお願いしていたから、本人はその時自分では限界と思っていなかったと思う。

だけど、その人が別件で私に連絡して来てそこについでに自分の近況をさらっと書いていただけだったのに、そこからどんどんメッセージが来るから、それを私は全部言葉を拾い上げて文章にして急遽癒しのレシピとして送った。

多分その時もそうで、本人はまだまだ大丈夫と思っていたけれど、多分実際は限界だったのではないかなと。

だから見えない部分でその人の意識と私の意識が合意して、それでメッセージが交わされたんじゃないかと。

話がまた逸れた。

昨日の癒しのレシピに話を戻す。

私の中では、昨日の人はものすごく純粋な人だと思ってる。

そう思う理由がきちんとあって、私はその人の普段の目を見た時に過去最高に目が澄んでいたから、とにかく驚いた。

大の大人がそんなにも目が澄むというのは、何をしたらそうなるのかと真面目に疑問に思った。

大人になるとどうしても社会的な顔があるから、目の純粋な輝きが減ってしまう。

あの小さな子どもたちの目がキラキラした無垢な感じを思い浮かべたらわかりやすい。

大人はあの目が基本できない。

ちなみに子どもは目は無垢でキラキラしてても、空気読まなくて大人をイラつかせたり、とどめの一言を平気で口にするのは、彼らの常套手段。

ただそれだけ純粋無垢だということ。

その人の場合、その子どもの目とも少し違っていて、あれは本当に本人の人格の高さなんだろうと思う。

目にあれだけの純度を保ったまま何十年と生きてるわけだから、しかもガチガチの日本社会の中で、それであの澄んだ目だから、私は相当何かすごいものを持ってる人だと思って見てた。

少なくとも私が見た成人の人何百人の中で、1番目が澄んでる人だった。

ちなみに最後にその人と言葉を交わした時、その目はどこまでも色んなものをシャットダウンしていて、私を絶対に寄せ付けようとしなかったこともわかった。

それもあったから、正直な気持ち、昨日の癒しのレシピは私の方も「私でいいのかな…言っていいのかな…」と不安だった。

もう今さら書いてしまったしアップもしてしまったから、どうにもできないけれど。

でももし私が今その人のすぐ近くで何かをできるとしたら、ただただそばにいたいと思う。

別に話したくなければ話す必要もないし、これまで通りその人のスタイルで全部1人で抱え込むというのも全然ありだと思ってる。

私はそのそばにいる係をやりたくて仕方ないけれど、それは私でなくて他の誰でもいいからその人が残りの人生の中でそういう人と出逢えたらいいなと思う。

その人が私みたいなヘンテコな体質の人のところにSOSなんか出さなくても、そのSOSをすぐ近くで出せる誰かがいたらいいのになと思う。

その純粋さゆえ、その分傷つくことも気がついてしまうこともあると思う。

だから、もう無理しなくて大丈夫だよ〜、と言ってあげたくなる。

私は一体何様だと思わないでもないけれど、本当にその人が少しでも楽になったらいいなぁと思ってる。

外に出せない分、自分の内側で相当葛藤してるだろうことは想像できるから、その人がほんの少しでもその出口を探せたら本当にいいなと思う。

だから、あんな目のきれいな人の癒しのレシピ、それもかなり勝手にやらせてもらえたのは光栄だった。

私で良かったとは全く思えないけれど、それでも予期せぬ形でなぜかさせてもらえることになって、本当に光栄だった。

しかも出てきた感情たちを並べて見るとわかる。

本当に気持ちのやさしい人なんだろうなぁと。

自分以外の誰かに向けた負の感情が1つも該当しなかった。

そんな聖人君子みたいな性格なんて誰しもがなれないけれど、その人だって色々感じることもあると思うけれど、それでも昨日出てきた感情たちは全てその人が1人で持つものばかりだった。

自分以外の誰かに負の矢を向けていない。

あの純粋さはそういうところからも来てるのかもしれない。

そう言えばその人の後輩もそう言ってた。

○○さんは本当に穏やかな人で、絶対に人に対して変なもの向けない人ですよって。

時々機嫌悪そうな時もあるけれど、人を攻撃したりとかそういうのは一切ない人ですって。

聞いた時の言葉通りではないかもだけど、そう言えばそんな風にも言ってたことを今思い出した。

バカだと思われそうだけど、すっごい効果のあるやり方をこの間見つけたから、それを1つ紹介。

【負の感情たちにあだ名をつける】

「不安」って日記につい昨日の朝だったかに書いた時、もうその文字だけですごい圧がかかって気が重たくなった時のこと。

ふざけて、「不安」じゃなくて「ふあちゃん」にしたらどう?とそのまま書いてみた。

「不安」と書くと重たいだけだったものが「ふあちゃん」と書いたら、ギャグみたいで笑えてきた。

これいいなと思った。

同じように不安でも、不安と書くより「ふあちゃん」の方が私はなじみやすいし付き合いやすい。

他の向き合いたくない感情たちも、こうして名前を変えたらいいかなと思ってる。

怒りだったら、「いかりん」とか。

良かったら試してください。

昨日の癒しのレシピ、色々心許なくて、今日の午前中、得意の墓参りで願掛けをしてきた。

その人が少しでも楽になれますように、と、決してその人に変なものを与えていませんように、と。

Wish you the best! de mi corazón
(心からあなたの最善を祈ってます)

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