2018年7月3日火曜日

冥王星と厄年と毎日の喜び

2月に受けたホロスコープの鑑定書を見た。

今も事あるごとに手に取って、気になる部分を読んで確認する。

今回気になった言葉はこちら。

そしてそれを読み解いて、今私が手にした自分だけの人生のストーリーは後ほど。



【近年の星の流れ
★2016年〜2019年

史子さんの冥王星に、空の冥王星が影響をかけていて、とくに2017年が強く影響していましたので、大きな変化や変容を体験したのではないかと思います。占星術でいう中年の危機といって、厄年のようなものです。
一番頑張ってきたことがひっくり返ってダメになるなど、大きな変容がおこりやすいとされています。死と再生を繰り返すように生まれ変わる感じです。苦しんだけれど、結局は自分の本質だったり、魂の願いに気づかされたりもします。】



冥王星はホロスコープの全10天体中、公転周期248年と1番遅くて、その遅さゆえに影響も1番大きいと解釈されている。

ただ私の中では、厄年とするなら2017年よりも2016年の方がそんな気がしていて、鑑定士さんの文章に少しだけ違和感があった。

そこで私はまたホロスコープ作成サイトで、ひたすら日にちを入れては作って、そして今回は冥王星の角度を確認した。

要らぬ情報だと思うけれど、『史子さんの冥王星に、空の冥王星が影響をかけていて、とくに2017年が強く影響していました』の意味をもう少し解説。

言い換えると、『生まれた時の冥王星の位置に現在通過中の冥王星が影響を与える』となる。

まるでこの説明のために、また図書館から借りたのかと思った本より抜粋。


《冥王星が通過する時の影響》
避けられない変化、変革、精神的重圧、再生、崩壊、衰弱、支配、強制、強迫観念、終末など

《スクエア(90度)の意味》
はっきりと緊張が見て取れるアスペクト(角度)です。問題を引き起こしたり挑戦をもたらしたりすることがあります。エネルギーを強める影響を与えることもあれば、障害を生み出す場合もあります。
(以上、抜粋)
『占星術バイブル』ジュディ・ホール(著)

一般的に、冥王星の通過によって困難とされる角度(90度もその1つ)が生まれる時、十中八九ではなく百発百中、どの占星術家も警告を鳴らすし、絶対に良いことは言わない。

中年の危機と謳ったのはまさに!という感じ。

これを「中年のターニングポイントで、良い方向に物事が動いていきます」とは、冥王星の場合、誰も言わない。

色々予測が立たないのと、破壊と再生の色合いが濃いものだから、それってすなわち一般的には歓迎されるようなものではないから、だから誰も冥王星の影響については良い風には言わない。

ホロスコープの場合、角度を出す時は小数第2位まで機械が勝手に計算してくれる。

そしてこの現在通過中のものと角度を取る時は、誤差1〜2度で見る人が多い。

なかなかピッタリ90度なんてのはなくて、角度で言えば88〜92度の間。

ホロスコープには「アスペクト表」的なものがあって、要は角度の差が何度か見てすぐにわかる一覧表がある。

今回生まれた時の冥王星に通過中の冥王星がどんな角度を取っていたのか、そこを調べた。

数字は90度に対しての差異の角度。

例えば、最初の3.33°は3.33度の差があって、実際は生まれた時の冥王星と通過中の冥王星の角度が93.33度という意味。

2016年1月1日:3.33°
2016年6月1日:1.33°
2016年12月1日:2.39°

2017年1月1日:1.40°
2017年6月9日:0.15°
2017年12月1日:0.48°

単純に見比べても、2016年の方がまだ角度が大きくて、2017年の方がより角度が小さい=90度ジャストに近い数値になってる。

90度に対して誤差の角度が小さい=ぴったり90度に近いということは、その分影響もでかいとされる。

本来なら、鑑定士さんが言われた通り、2017年の方が断然冥王星の影響がでかいことになる。

そんな中、途中で2017年を調べてたつもりが2018年に変わっていて、この秋には0.09°という実にタイトな角度を取ることがわかってゾッとした。

またそんな強烈な中年の危機的なものを迎えるのかと思ったら、もう要らない‼︎‼︎と思いつつ、自分の心の準備をするために、過去にそれよりももっと角度差の小さい日はなかったかを探した。

2017年を徹底的に調べた。

出てきた。

2017年6月19日:0.02
2017年6月20日:0.01
2017年6月21日:0.01
2017年6月22日:0.02

去年の6月20日と21日がほぼぴったし90度ジャストだった(90.01度)。

すごく前置きが長くなったけれど、そんなに冥王星から強烈な影響がもろにあったと思われた時期に何があったのかをこれから書きたい。

先に結論を言うと、私はこれを知ったことで、自分がものすごく救われていて、これ以上ないタイミングで守ってもらってたんだなと思った。

私の勘違いでも、思い違いでも、何でもいい。

それによって、私は本来なら一番大変なことが起こってもおかしくなかった時期に、一番心が良い風に動かされる体験をしていた。

そしてとても運良く、その当時のことを私は日記に綴ってた。

書くことを止めていた2016年6月から2017年の秋ぐらいまで、私は唯一月に1日でいいから日記を書くことを自分に課していた。

20代の頃、日記も手帳も真っ白だった1年があって、その当時のことがその1、2年後には何も思い出せなくて、それでその時にせめて書きたくない時期でも月に一度は何かしらの記録を残そうと決めた。

私には変なこだわりがあって、何も自分の記録がないというのが怖い。

確実にこんなことがあったとわかる方が私は安心する。

絶対に生きていたはずなのに、その時のことも記憶もすっぽり抜け落ちてるなんてしょっちゅうだから、だからちょっとでいい、自分の軌跡を残したいと思う。

別に誰かに伝えたいとかじゃない。

未来の私に向けて、今の私=過去の私が何を積み重ねたのか、それを知らせるみたいな気持ちで書いてる。

話は戻って、2017年6月20日(火)。

どうやら私は仕事帰りに近くの道の駅に寄って、そこの屋外のテーブルで日記を書いたらしい。

その日の日記より。

【今朝の夢ははっきりと覚えてる。
○○にプロポーズされる夢だった。迎えに来たよって。すごいリアルな夢だった。夢占いをスマホで見たら、それは別れや終わりを意味してるって。そうかもしれない。夢の中の自分は「うん」って言いたがっていた。久し振りに見たよ、そういう夢。
新しいこと、自分を生かすことを、本気で始めたくなってきた。そういう気持ちが徐々に顔を出してきて、そしてそれを怖がりつつも受け入れている自分がいる。】

プロポーズの夢は、どんなだったのか今は全く覚えていないけれど、私は本当に色んなことが終わっていく、と思ったのは確かだった。

そしてその「終わっていく」感覚に対して、私はそれをとても静かに受け止めようとしていた。

それまでは、ずっとずっと抵抗していた。

何年も何年もかかって、私はそれでも自分が笑えてると思った日、それも夏の暑い日で、新札が必要で銀行を探して歩いてた時だった。

初めて行った派遣の仕事で、近くの地理を知らなくて、昼休み炎天下の中、日傘をさして銀行を探した。

今でもその景色が頭に残ってる。

その笑えないことの中で、自分が笑ってる日もあったと気付いて、私はしたたる汗に紛れて涙も流した。

その後も色んなことがあって、全然前に進めない自分が本当に本当に嫌だった。

進みたいのに進めない。

そういう月日をものすごくたくさん積み重ねて、いつしかあきらめの境地になって、そして1年前のその日、終わりに向かうことに初めて静かにでも真っ向から受け止めようとしてた。

もう終わらせて大丈夫、みたいな気持ちでいた。

その約1週間後、私は自分の世界の中に新しい人が入ってきたことを知った。

知ったくせして、そしてその日も仕事帰りに日記を書いているけれど、それよりも私は不慣れな仕事のストレスの方が大きかったらしく、全く関係のないことばかりを書いていた。

その日はあじさいがたくさん咲いてる隠れ家的な公園に行って、あじさいを見て、そしてなんと私は30年ぶりぐらいにブランコに乗った。

私はその日までブランコ恐怖症で全く乗れなかった。

あの前後に揺れる時の胸さわぎの感じが本当に苦手で、それに気付いてからは乗れなくなった。

その日は何を思ったのか、乗れるかもしれないと思った。

そして実際に乗ってブランコを漕いだらきちんと乗れて、しばらくブランコ乗りを楽しんだ。

私はその時のことを「大人の寄り道」と日記に書いている。

これは私の勝手なこじつけだけど、あの日私の体中の細胞が入れ替わったんだと思う。

たった一瞬のたった1人とのやり取りで、細胞の方がこれまで通りとはいかなくなった。

だから30年近く怖くて乗れなかったブランコに、あの日乗れるようになったのは納得できる。

それぐらいの力を発揮できるほどの細胞の総入れ替えが起こったと思うから。

でも肝心の私の方は、不慣れな仕事に不慣れな職場で頭がいっぱいで、その時でさえも昼間の胸がキュンキュンしたことよりも、子どもの頃の回想ばかりを日記にしたためてた。

さっきのホロスコープの話に戻ると、2017年のしかも夏のあたりが一番冥王星の影響が強かった。

空からはとんでもない強力な冥王星パワーが降り注がれて、「死と再生」の名に相応しく大きな変容の時期には間違いなかった。

「大きな変容」なんて言うのは簡単だけど、実際のその時なんか毎回相当心理的にキツイ。

手放しもさせられるし、執着すればするほど苦しさも増す。

サナギから蝶に生まれ変わる、あの渦中に近いと思う。

私は見たことがないからわからないけれど、蝶になる直前というのは、あの殻の中でサナギの全成分がグチャグチャになっていて、見た目には相当グロテスクらしい。

とてもそれがあの美しい蝶に生まれ変わるだなんて思えないとのこと。

その超グロッキーな状態を次の人生のステップに向けて、冥王星というのは強力に促してくる星なんだと私は解釈してる。

数字だけで見たら絶対に2017年、それも夏のあたりは一番強力になっている。

だけど、そうはならなかった。

たった1人の人が日々私の日常にいてくれたおかげで、私はその強烈な状態を平穏無事に過ごせた。

平穏無事ばかりだけではなく、喜びとかしあわせまでもらっていた。

私の冥王星パワーによる中年の厄年は、無傷に近い形でとりあえず一番強く出た時期はやり過ごせた。

その当時ホロスコープなんてもちろん知らなかったし、私ははっきり言って占いなんかでよくある天中殺だとか厄年だとかは信じてなくて(天中殺なんて未だ意味すら知らない)、そんなのバレンタインチョコや恵方巻と同じで経済界と神社・寺・占い師なんかが結託してやってる1つのお金を稼ぐための戦略なのかと思ってた。

だけど、ホロスコープを知るようになって、ホロスコープはそうした理由が理論的に説明されると知って、考え方が変わった。

個人のホロスコープには良い悪いではなくて、本当に流れがある。

季節と一緒で、春に種まき、夏に成長、秋に収穫、冬は春に向けての準備や冬ならではの楽しみ方、というのと一緒だと思ってる。

夏が良くて冬が悪いなんてことはない。

だけど、どうしても冬の間は、雪や寒波やらがくるから、それ相応の猛威はやって来やすい。

でも猛威がやって来ても、雪の下で土の下で、自然は次に向けての準備を着々と進めてる。

ホロスコープは、私たちに人生のそういう部分も教えてくれる。

そしてそのホロスコープが強力な変容の時期としたものを、私はある意味何事もなく無事に過ごせた。

その後の心がボキボキ折れまくることさえも、今となればそれ以上のものを手にしてたから、苦しくても耐えられた。

苦しいものは苦しかったし、悲しいものは悲しかった。

思い通りではなかったし、こんなにも心が動かされても重ならない縁は重ならないんだと悔しく思った。

でも私がそれでも真っ直ぐ前を向いて日々生きていられたのは、その人がいたから。

朝を迎えるのがあんなにも楽しみだったことは、大人になってから初めてだった。

もちろん何か楽しいこと、どこかに出かけるとか美味しいもの食べに行くとか気の合う友達と会うとか、そういうのがあれば確かに楽しみはある。

だけど、それらとは全然次元が違ってた。

何にもなくて良くて、何なら私は仕事に行くことが、しかも興味のかけらもない仕事をしに行くのがその時の日常だったわけで、朝が来るのが楽しみなんて全く思えない条件だけは揃ってた。

だけど、私は毎朝楽しみだった。

その日1日を無事に迎えることが本当の本当に楽しみだった。

今日もその人に会えるんだと思ったら、それだけで毎日が楽しみで、全ての色んなことに大真面目に感謝してた。

時々変な咳をしてたのは知ってたけれど、それでもその人も元気に基本は職場に来るから、その人が元気でいるというだけで私には特別なことだった。

私には本当にその人がいてくれたら何でも良かった。

興味のかけらもない仕事でさえも、誰がその仕事を生み出してくれたのか知らなくても、その仕事のおかげで私はそこに行く権利を得て、さらにはその人に会える手段を手にしていたから、それはもう仕事様々だった。

私は最初から自分が相手にされるとは全く思っていなかったし、色んな意味で手の届くような相手ではなかったから、しばらくは自分の気持ちの動き方を全力で否定してた。

でも否定しようが何しようが、朝を迎えるのは楽しみだったし、1日の終わりには今日も無事に会えた喜びを感じながらその日を終えて眠りに就いた。

冥王星が効きまくりな頃というのは、そんな風に私は日々を生きていたから、冥王星さえも凌駕する特別なパワーが働いてた。

たられば話になるけれど、もしその人に出逢わず別の道に私がいたとしたら、何となく私の1年前の人生は大変になっていたんじゃないかと思う。

元々強烈なホロスコープの様相があちらこちらに見受けられる、私のもの。

実際、それに相応しいと言っていいか知らないけれど、まぁなかなかの波乱万丈っぷりは否定できない。

例えば、2016年の年明けが角度差が1番大きく、その分冥王星のパワーも弱いと仮定するなら、これまでの中で1番穏やかとなってもいい。

でも当時、私は社会人になってから初めて個人的な嫌がらせ、それも仕事に本気で支障が出るレベルでの嫌がらせを数回受けてた。

今振り返ってもあれは何だったんだろう?と思う。

私の不能さや迷惑のかけ具合で嫌がらせを受けるならまだ理解できたけれど、そういうのでは全くなかった。

周りの仲良くしてくれてた人たちが全力で心配してくれ、さらには辞めた後でさえも私の個人的な仕事の相談にのってくれた子までいたぐらいに、すごくおかしなことになってた。

同じ部署の別部門の超大御所の社員の人までが私に「本当はあそこで何があった?」と聞いてきたぐらいだった。
(社内の内実がわからなくて、私が覚えが悪くてとか適当に言って誤魔化したけれど、逆にその方はそれで察して、今度の飲み会でトップに言うと言ってた)

何なら辞める直前に100人以上の部署をまとめるトップとの面談があって、私は最初で最後ではあったけれど、実際にあったこととなぜ私が辞めると決めたのかその理由も全部そのまま伝えた。

そのよくわからない仕事に支障が出るレベルの嫌がらせ的なことの内容よりも、もっともっと支障が出るような悪しき流れがあったから、それをあくまで私の体験談として話した。

私はその人に謝って欲しいとかではもちろんなくて、それがあると私ではなくても誰が入っても多分続かないからそこをケアしないとまずいという意味での告白だった(そもそも組織改革のための面談だったから)。

トップの人は本当にすごい人で、何回も謝られて(むしろ申し訳なかった)、さらにはその詳しい事情についてももっと突っ込まれて聞かれた。

1番知りたい情報で、でも100人近く面談して誰も口を開かなかったらしく(私は最後から数えて何番目とかだった)、まずきちんと話してくれたことをものすごく感謝された。

そんな中での生活を2016年の年明け頃は送っていて、2月に辞めることが決まっていたとは言え、気が重たくて重たくて仕方のない毎日だった。

あれはまだ冥王星パワー全開ではない頃の出来事で、だから去年の夏、もし違う人生の道に私が立っていたとするならあれよりも強烈な体験をする羽目になったのではないかと思う。

考えただけでゾッとする。

2017年の夏は、「変容」という意味では確かに「大変容」だった。

私はもう自分が誰かを本気で好きになるとかその人を見てるだけでしあわせを感じるとか、そういうことは本当に全部あきらめてた。

結婚よりも、私はそうした出逢いはもうないと本気で信じてた。

そんな気はないけれども、「結婚」だけを目的とするなら婚活パーティーでも見合いでも結婚相談所でも手段はいくらでもあるし、もしそういう形で誰かに出逢ったらなんとなく一緒にいるうちにいいと思ったりするかもしれないし、結婚だけを見据えるならそういうのだってありだと思う。
(多分そんな柔軟な心の持ち主では私がないから、そんなに上手くいくとはとても思えないけれど)

でもそういうことじゃなくて、ある人に出逢って、それだけで、その人の存在そのものだけで、心がものすごく動く、そして相手に惹かれる、そんな体験はもう完全にあきらめてた。

30代の私は、とにかく至る所で同年代の男性に出会う機会が多かった。

中には人間的に超魅力的な人だって何人かいた。

いたけれども、あくまで「人間的に」超魅力的なんであって、異性としては全く見ていなかった。

野球のイチローを見て、その生き方が考え方がカッコいいなというのと似てる。

でも、もっと個人の内側の気持ちが動くような出逢いは本気でゼロだった。

気持ちが動くと言うよりも、勝手に動かされる、なんてのはとにかく皆無だった。

私自身ももうそんなことで傷付くのも嫌で、とにかくそういうことは起こらないもの、として定義していた。

だけど、その人が人生に現れたら、流れは完全に変わった。

そう思ったら、確かに冥王星パワー全開だったかも(笑)。

よくわからない激情に飲まれてた。

なるべく相手のことを考えないようにしようと、「考えない努力」をしないといけなかった。

ボーッとしてると、気持ちはどんどんそちらに向かってしまうから、私はそれはそれは全力で否定して阻止した。

この人が私のことを相手にするわけがない、あの時はたまたま普通に人としてさりげない気遣いをしてくれただけだと考える方が自然だった。

そして、たまたまだとかあの人は私のタイプじゃないだとか、私は自分に何度も何度も言い聞かせた。

だけど、もうどうにもこうにも止まらなかった。

私に人を好きになるって気持ちを思い出させてくれた人だった。

そして手が届くとか届かないとか関係なしに、私が自分自身に誰かを好きになっても大丈夫だと自分に許可できた、その大きなきっかけをくれた人でもあった。

さらにはこの自分の色んなことをその人には知られてもいい、と最後はそこまで決断してた。

知られてダメになるとしたら、それまでの縁だったと思うことにしよう、と私は自分の中で腹を決めた。

これは私が20代の終わりぐらいから思って、特にこの2、3年は特に強く思っていることだけれど、私はそもそも色んなものを持っていすぎる。

持っていすぎるものは、プラスの方じゃない。

基本的には「それ持ってるだなんていいね」と言われる類のものたちじゃない。

本気で思う。

そうした余計なものを持っていすぎる私を選ばない方がいいって。

逆にそれを知っても私といたいなんて思ってそうしてくれる人は、人間としてものすごーくできた人だと私は自信を持って言える。

自分が他の人には言わないようなことを、例えば付き合うとか結婚するとなれば言わないわけにはいかないと思う。

そういう部分が私の場合若干多い。

しかもますます増えてる(汗)。

ペンジュラム使って物と話すとかもそうだけど、はたから見たら変人のレベルだと自覚してる。

そんなことがいくつもあるから、私はそれもあって積極的に自分から誰かと関係を持ちたいとは思っていない。

でもその人と何とか接点を持つために動こうと決めた時、私は本当に2人で会えることになれたとしたら全て伝えようと実はそこまで決断してた。

隠してはおけないし、それはフェアじゃない気がした。

その人と一緒にはいない今の最大のメリットは、その部分を言わずに済んだことだとさえ私は思ってる。

なぜなら、そんな決断をしたくせして、私は最後の最後まで言わずに済むなら知られずに済むならその方が私も気持ち的に楽だと思っていたから。

色々持っていすぎる中の1つのことは、私はごく数人のとても信頼している友達には話したことがある。

その1人はとても仲良くしてる10年来の男友達だったりする。

その男友達が本気でお互いに好き合った人と結婚できなかった理由は、その私が持ってることと同じものを彼女が持っていたから。

男友達は決断を迫られた。

自分の生まれた家族を取るか、彼女を取るか。

家族からは、もし彼女と結婚するなら家族とは絶縁を迫られていた。

それは2人の結婚を絶対的に許さない、そういう変な人間が作った価値観で判断され阻まれてしまうものだった。

しかも当の2人には全く関係のない、それが理由で2人の関係を解消しなければならないなんて、何ともアホくさい話だった。

私はそれも全部知っていたから、だからその彼女が結婚した時に私に連絡してきた意味もわかった。

男友達に、その彼女が幸せになったよ、良い人とめぐり逢えたよって、それを伝える役割が回ってきたとすぐにわかった。

文面からも彼女が男友達を意識して書いてるのはわかった。

彼女の彼への最大限の思いやりと幸せの報告がそこにはあった。

当事者の私からすると、好きでそうなってるわけではない。

そんなのは、私は手放せるのであれば手放したい。

だけどそうするための現実的なステップは相当な段階を踏むだろうこともわかってるから、私はあえてそこには関わらないというスタイルで何とか「ないこと」にしている。

だけどないわけじゃないから、完全になくなりはしない。

そんな風に、人の人生をそれだけ左右してしまうような付属品が私にはいくつかある。

病気と共存するような感じに近いと思う。

別に普通に生活は送れるし、友達レベルなら相手に迷惑かけることはないから大丈夫のライン。

現に私側の積極的に言いたくない個人的なことを話しても、その後私と関係を絶った人は今のところ1人もいない。

みんな言ってくれる。

ぶっしーはぶっしーのままだから、何も変わらないよと。

でもこれがパートナーとなると話は変わる。

もちろん私は相手に迷惑をかける気はないけれど、人によっては受け入れられないことは容易に想像できる。

だから、私はその全てを言うなんて、私にははっきり言って自殺行為にも近いような怖さを持っているものだったりする。

自分の大切な人を失う、それらのことで大切な人が離れてしまう可能性も覚悟の上じゃなきゃ言えない、そうしたものを私はもしその人と個人的に会うような関係になったら、失うの覚悟で言おうと決めた。

そうした意味で、なんだろうなぁ、その人は私の人生の根底を変えるような、そういうものを私にもたらした。

本人はそんな気さらさらなくても、私にはそういう人だった。

しかも人相手の仕事ばかりしてたから余計と思う。

そして、色んな共通の関心を持った人たちが集まるセミナーだのワークショップだの読書会だのも出たから余計と。

そんな人に人生で出逢えるのは、本当の本当に神がかり的な確率でしか起こらないこと。

しかも私はその人のおかげで、本当に毎日が楽しかった。

生きてることに、相手も私も生きていて元気でそして共通の場所にお互いが会することができる、その全てに本気の本気で感謝してた。

何に感謝してたのかはわからないけれど、そんな奇跡みたいなことを起こしてくれてる全てに感謝してた。

仕事に興味がなくても問題なかった。

私は仕事やお金のために仕事に行ってなかった。

単にその人に会うために仕事に行ってた。

私はそんな理由で自分が仕事に行くなんて思ってもみなかった。

相手は重い責任に重要なことばかりを担当する人だったから非常に申し訳なかったけれど、私は自分の私利私欲でひたすら仕事に行ってた。

最後の方にその人のルーチンを乱すようなことを仕掛けたのは本当の本当に悪いことしたなぁと猛省したけれど、それでもその人は仕事を回していたし何とかなっていたから、それだけは良かったと思って見てた。

気のない人から来られても相手もさぞかし迷惑万来だったと思う。

人に好かれたら嬉しいなんていうのは、あんなの嘘だと思う。

私のように単なる迷惑にしかならないこともある。

相手の視点から考えると私もしんどくなるから、もうそこはなるべく考えないように今の日常はしている。

だけど、私の視点で私の人生だけを見つめた時、その人は私の人生においてとても大切な人で、本来は大変だった時期にひょっこり現れてくれて、そしてたくさんの大切なものを私に残してくれた。

その人はそういう役割の人だったんだろうなと思ってる。

その人は自分に厳しそうだから、私がその人がただ存在してるだけでいいなんて言っても全力で否定してきそうだけれど、本当にそういう人だった。

ただただいてくれるだけで、生きて存在してくれてるだけで、尊い人だった。

私は本気で一緒にいたいと思ったけれども、私が相手の人にあげられるものは何もなかったから、そして自分の色んなことを見た時に何もそんな不良品みたいな女ではなく、その人には絶対にもっともっと素敵な人がいる、もっともっと相応しい人がいるとも思ったから、この今の結果で結果オーライなんだと思う。

1つだけ嬉しい報告があった。

その人と仲良くしてた人が教えてくれたことだった。

今年のバレンタインの翌日のこと。

私はその仲良くしてた人の隣りで仕事を手伝ってた。

その時に何の話の流れか忘れたけれど、仲良くしてた人の方から教えてくれた。

私が仕事に最初行ったその日。

私という人間についてる名前が、その人にはちょっとしたツボだったようで、それをその仲良くしてた人がそうだったんだよと教えてくれた。

その仲良くしてた人はその時は私の気持ちは何にも知らなくて、何かの話のついでにたまたま聞くことになった話だった。

その仲良くしてた人は、「ほらこれですよ」と言ってわざわざその人とやり取りしたラインまで見せてくれた。

そこには確かに私が仕事に行った初めての日の小さな小さなやり取りが残されてた。

そんなことその人ももう忘れてるだろうけれど、きちんと私がプレゼント?できるものもあったんだなと知った。

それが超絶くだらないと言われそうなことでも、私が持ってるものにも意味があってそれでふとラインしたくなるようなことだったら、それはそれで御の字だと思った。

後々の迷惑量を考えたら、そんなものではカバーしきれないほどのものを与えてしまったけれど、それでもたった1つでもその人にちょっと心が和む?見えない緊張感の中で日々重責な仕事に就かないといけない中で気が緩む?そんなものを渡せたとしたら、それはそれですごく光栄なことだった。

与えるのと与えられるのとがあまりにもアンバランス過ぎたけれど、もうそんなのは私の采配で今さら修正もできないから、私は私が受け取ったものをきちんと見てそして感謝しよう。

それに尽きる。

ちなみにネットで見たところの冥王星からの影響は、誰1人として良いことを書いてた人はいなかった。

鑑定士さんが書いてくれたみたいに、「苦しんだけれど、結局は自分の本質だったり、魂の願いに気づかされたりします」ということに繋がっても、渦中は強烈な印象しかネットの情報からは感じられなかった。

そんな中私は、生まれた時の冥王星の位置×現在運行中の冥王星が90.01度の角度になった時、要は一番緊張が強いられたり葛藤の配置が一番強まってた時、私は大切な人がここにいますよのサインを受け取っていた。

そして私はその人から生きる喜びをもらってた。

人を好きになる気持ちや、それができる自分のことも思い出させてもらった。

だから私はもう疑わなくていいんだと思った。

勘違いや思い違いでもいい。

他の人から何て評されてもいい。

私1人だけは知ってる。

起こったことが全てで、そして私は外の世界からもたらされた情報ではなく、自分のことを自分の人生を丸っと信じて大丈夫だということを。

そして自分の人生にはまだまだたくさんの喜びが存在していることを。

まともに話したこともない人に惹かれるとは、最初私もとうとういかれたのかと思ってた。

色々狂ってると思った。

中学生や高校生ならいざ知らず、アラフォーの独身女がこんなで、ものすごく痛々しいと当初私は思ってた。

しかも本気で酷くて、私は「これはイケメンがしたからこんなにも絵になるだけで、だから自分も相当痛い勘違いをして気持ちが浮ついてるだけじゃないか」と。

勘違いというのは、イケメンにちょっとよくしてもらったからというだけで相手に好意を抱いたそのものに対してのこと。

そんな風にされていちいち良いなどと思っていては、私は生涯エンドレスで誰かに好意を抱くことになる。

これは気の迷いとか、そうしたことが日常的になくて久しぶりな出来事だったから、その人ではなくその出来事に胸がときめいてるんだと思ったりもした。

そう、私は相手じゃなくて行動にトキめいただけで、本当は何とも思ってないんじゃないかと、否定するための理由だけは山ほど探してた。

だから私はなるべく深入りしないように細心の注意を払ってた。

私は時々その人のことでガッカリする場面を見てた。

何と私は、そのガッカリする場面を見て自分の気持ちが冷めると喜び、でもそんなの一瞬でまたすぐに気持ちが復活するととても残念な気持ちになってた。

ガッカリのままで良かったのに…と記憶にある限り、3回そういう場面があった。

忘れそうだから箇条書き。
・内ばき兼外履き
・格闘技
・町内会費

格闘技に関しては、私は今では考えを全く改めていて、当時は無知とは言え非常に失礼なことを思ったなと反省している。

履き物と町内会費については、はっきり言ってどうでも良かったこと。

だけど、私は何でもいいから、気持ちを冷まさせる理由が欲しかったんだなと今になって思う。

自分でも微笑ましい葛藤だったと思う。

なぜなら2016年の年明けぐらいの仕事中の葛藤は、私はその当時何ヶ月も毎日のように夢の中でも仕事をしていて、トイレにも行く時間すらないぐらいに仕事が立て込んでて、そこにさらに人的な嫌がらせと来て、葛藤なんてレベルではなく、精神疲労が半端なかった。

派遣が社員の仕事して、社員が派遣の仕事を取るという、歪んだ力関係によりおかしな逆転現象が勃発していた。
(だから、トップとの面談の時に、手が足りなくて派遣がするのであれば意味がわかるけれど、ハイリスクの伴う、何なら会社の看板背負ってすごい繊細で重責なやり取りを顧客としなきゃいけない時に、知識のない私みたいな派遣がするのが適当だとは思わないと言った←実際にそうした際どい案件をじゃんじゃん振られてた。断ってもまた回り回って戻って来てた。で、社員はなぜか私がせっせと下準備した仕事を横取りして、私には超細かな対応力が求められる新規の超危険対応を振るという…)。

現実的に大変だったのは確かに2016年。

だけど、自分の本質的な変化とか、魂の意志を汲んだ体験をしたのは、まさに2017年だった。

まだ書くのか!という感じだけれど、書きたいから最後に1つだけ。

私は先週東京に行った後、正しくはヒーリングセッションを受けた後、1つ心変わりしたことがある。

普通に伝えられないのであれば、せめてここではあったままに伝えようと思った。

この場だけが唯一今私が自分の意思でコントロールできる場所だから。

消すことは考えていないけれど、何か不都合なことがあれば、最悪消すなり非公開設定はできる。

最近特に思う。

何で肉体を持っているんだろう?って。

肉体がない方が絶対的にコミュニケーションという面ではスムーズだとされる。

だけど、あえて肉体というそれぞれの個人がそれぞれの体をまとっている。

それは、肉体があって初めてできることがあるからじゃないかと思う。

例えばこうして文章をひたすら打ち込む作業だって、携帯ももちろんだけれど、そもそもの私の手がないと成り立たない。

そうやってでもわざわざ伝えること。

それって今しかできない。

自分がものすごく救われていて、これ以上ないタイミングで守ってもらってたんだなと思った、そのことを伝えるのは、こうした手作業しかない。

守ってもらってた、というのは何からかは知らないけれど、そんな冥王星の影響が最も強く出て中年の厄年的な2017年に、それが最小限というか、私にとってはとてもありがたい形でもたらされたこと、そしてそこに関わった人には感謝しかない。

その人も単なる気遣いがこんな面倒なことに発展するとは思ってなかったと思う。

まさか自分の行為が、他の誰かの中年の危機の緩衝材どころか突破口的な役割を果たすなんて思ってもいないだろう。

だからその人は自分で自分の身に振りかかる迷惑の種を植え付けたのかもしれない(苦笑)。

まぁだけど、その人は上手に避けられたと思うし、私もさらなる迷惑だけは与えずに済んだと思ってる。

いずれにしても、私は伝えたい。

自分の伝えたい意志だけははっきりとわかったし、何せ他の伝えるための手段が今はない以上、ここでせっせと綴るしかないなと。

私が綴っているのは、命の叫びに近いと思ってる。

だから溜め込んだままにはできない。

不特定の人が見ることも承知の上で書いてる。

色んな事情を差し置いても、私の願いは唯の一点で、その人に伝えたくてそしてその人に伝わって欲しい。

だから、そこを選ぶのと同時に生まれるリスクや諸々のことは仕方ないと割り切ってる。

とても今さらだけど…。

今日は本当に朝から今の夜の23時過ぎてもこの下書きにひたすらかかりっきりで、ダラダラといつも以上に思いのまま綴った。

これ長過ぎて、結局何が言いたかったのか…ということになってないかな…?と。

1番のポイントは、冥王星という1番強い影響力を及ぼすとされるものが、その中でもさらに強い影響力を存分に発揮してた去年の夏、私はその時に知り合えた人のおかげでその一番強烈とされる時期を平穏無事に過ごせたことへの感謝。

そして、その人がいてくれたおかげで、私は毎日毎日生きてることが嬉しくて、そして生きてその人に会えるのが嬉しくて、そんな次元違いの喜びを日々受け取っていたこと。

ありがとう。

その一言に尽きる。

私の人生に現れてくれてありがとう。

伝わりますように。

大切な人にきちんと伝わりますように。

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