2018年7月23日月曜日

川のある場所

重軽の石がある神社に行く前、私は去年の夏から秋にかけて昼休みによく行ってた川のある静かな場所に立ち寄った。

そこには大きな駐車場と和菓子屋さんがある。

今回は寄らなかったけれど(なぜならその後にケーキが控えていたから)、ある時お店に入って生チョコ大福を買って食べた。

それがものすごく絶品で、私はそこの生チョコ大福を何回リピートしたか知らない。

常に誰もいない店内でやって行けるんだろうかと思ったら、どうやらそこは有名な和菓子屋さんらしく、ショッピングモール系のお店の中にいくつか店を出していた。

あんなに美味しいんだから間違いないと思った。

大きな駐車場は4トントラックなんかも止めれるから、駐車場はいつも適度に混み合っていた。

昼時になると、営業マンとか巡回型の電気や配管工事系の車とか、サラリーマンのお兄さんもおじさんもたくさんいた(みんな車の中)。

私1人だけが女みたいなことは常だった。

私は車の中の方が暑いから、いつも川の横にある大きな広場に降りて行って、そこにある小屋みたいな形をした木の椅子とテーブルがあるところでお昼を食べた。

その日もおにぎりを持参したから、おにぎりをそこで食べた。

一応メインはケーキだから、ケーキを美味しくいただくために外食はさけておにぎりにした。

最近、自分で握るおにぎりが美味しくて、ちょっとしたマイブームになっている。

大福だのケーキだのとスイーツの話が続いているけれど、私は基本的に甘いものはそんなに好きじゃない。

ちょっと食べたら十分な人。

ケーキはどちらかと言うと、私の中では「特別な時に食べる」感じ。

自分の誕生日とか、何かしらのお祝いや打ち上げ的な意味で食べる。

だから今回もケーキを食べたくて食べに行ったと言うよりも、もっと別の目的で食べに行っている。

ちなみにそこの大福は特別。

スイーツのリピートなんてほぼほぼしないけれど、そこは名古屋に住んでいた時の最寄駅近くにあった絶品たい焼き屋さん並みにハマった美味しさだった。

そのたい焼きは本当に美味しくて、今でこそ普通なのかもだけど、皮の部分に餅のようなものが入っていて、外はパリッ、中はモチッとした食感が美味しかった。

さらに味のバリエーションもたくさんあるわ、店主のおばさんは朗らかで親しみやすい人だわ、餅の原材料が余ると分けてくれるわ、特売日もあって安くなるわで、とにかく私はそこのたい焼きとそこのお店が大好きだった。

いつかの年の友達の誕生日の日にそのたい焼きをケーキ代わりに出したら「誕生日にめでたいのたい焼きもいいね!っていうか旨っ‼︎」とスイーツ通にも絶賛された一品だった。

なんと友達は相当気に入って、うちから車で30分はかかるようなところに住んでいたけれど、その後しょっちゅうたい焼きを買い求めに来たらしい。

話があちこちに逸れたけれど、その川原の近くでおにぎりを食べて、少し書き物をして、そして読書もした。

外は真夏日で暑いのに、その小屋みたいなところは360度風が通って涼しかった。

アゲハ蝶が小屋に入ってきたり、セミの鳴き声が聞こえたり、ボーッとするのにこれ以上ない良い場所だった。

その場所は、仕事の昼休みに気分転換をするだけじゃなく、大事な決断をした場所でもあった。

その日は雨だった。

だから下には降りず、車の中で色の変わった川を眺めながら、雨がフロントガラスに伝わる様子を見ながら静かに過ごしていた。

午前中の体に重たいものが付いたような1秒1秒長く感じた時間と空間から抜け出して、初めてきちんと泣いた。

声も出さず、静かに、声が漏れそうになってもぎゅっと口を閉じて声を殺したまま泣いた。

世界が終わるかと思った。

仕事中にあまりにも無視されてさすがにそれは私も仕事に差し支えるから(心が折れて仕事に集中できなくなる)、本人に挨拶とかは無視しても構わないけれど、仕事の用事を私が伝える時だけは普通にして欲しいとお願いしようかと考えてた矢先だった。

2日ほど引きずったら、今度はいなくなると聞いて、そんなお願いは一気に吹っ飛んだ。

気持ちはどこをどう駆け抜けてるのかわからず、私はその日の昼休み、とりあえずその川を目がけて車を走らせた。

どこにも行きようのない気持ちと絶対的に変えられない未来を前に、私はようやく自分の気持ちと向き合う場面を作ることができた。

私はその車の中で、賭け事をした。

その賭け事は、100%起こらないことだというのは知っていた。

だから賭け事と言っても、明らかに起こらないとわかってることが起こるなんてあり得なかった。

絶対に起こらないと確信していた。

だけどその絶対に起こらないことがもし起こったら、私は自分の心に従ってみようと決めた。

あまりにも色々ありすぎて、私の中ではもう全てから離れるつもりでいた。

だから、小さな気持ちはもう無視の予定だった。
(当時私の中では、それはまだ「小さな」気持ちだと思ってた)

私は賭け事をしたことが起こるわけないと思っていたから、あと残り少ない日々は静かにひっそりと過ごすことになるだろうと思っていた。

あと少しなら、当初言おうかと考えていた仕事上のお願い事もしなくていいかなと思ったし(そんな機会あとあっても1、2回だと思ったら我慢したらいいと思った)、自分の心の声は心の中だけにそっとしまってあとは終わりの日を迎える、最後は何事もなかったかのように見送ったらいい、そう思った。

賭け事を始めた。

嘘だと思った。

あの瞬間、時間が止まった。

100%起こらないことが目の前で起こった。

何で?と思った。

ありえないことが起こった。

ただ、それを見て私は決断した。

自分の心に正直でいようと。

あれから何ヶ月もして、結局今もあの時に何が起こったのかはわからない。

でも、「ありえない」ということはないんだとわかった。

そして時に人生の中で重要な局面を迎える時ほど、通常では絶対にないことも起こりうることがわかった。

これもそうだった。

この時の決断の変更がなければ、おそらくだけれども、私は今全く別の体験をする人生にあったと思う。

いつの時もそうで、たった1つの決断はとてつもなく小さい。

その時の決断(理性よりも心を優先)はすごく大きかったけれど、そんなのは例外中の例外で、毎日は小さな選択の集合体で成り立っている。

例えばその場所も最初に知ったのは、10年以上前の話。

小児精神科医の先生が主催する勉強会があった。

上司に恵まれて、行きたいと言ったら行かせてもらえることになった。

本来なら大御所の人たちが行くものなのに、上司は私が行けるように裏で手配をして、それで数回通った。

その時に通った道すがら知り得た川原で、それがまさか10年後の私の昼休みスポットや美味しい和菓子屋さん、はたまた大きな決断を下すために奇跡を目撃する場所になるとは思ってもみなかった。

その川原に寄る予定はなかったけれど、ケーキの前に重軽の石があった神社に立ち寄る予定も組み込んだ関係で路線変更となって、それで一緒に立ち寄ることにした。

その川原の場所を通過点にすることは可能だから久しぶりにそこに行こうと思った。

振り返ると、私は当時の仕事の休憩場所や、仕事帰りに立ち寄る場所として、川が見える場所ばかりを選んでいた。

そこの川原もそうだったし、もう1つ職場の近くに道の駅があって、そこの川沿いのほとんど車の停まっていない駐車場も私は好きだった。

川の見える風景を好きこのんでいたなと思う。

静かに自分と向き合えるのが好きだった。

そういう場所は人も少なく、たとえいたとしてもみんな思い思いに過ごすからいても気にならない。

私が自分の世界に没頭するように、他の人たちもそれぞれの世界に没頭する。

だから、色んなことがありすぎた去年は、昼休みや仕事帰りにその川の見える風景に自分を連れて行って、そこで自分の気持ちを眺めたり整理したりしていた。

私が川のある風景にばかり行っていたと気付いたのは最近で、気付いた時顔がニコッとしてしまいそうだった。

無意識のうちにその人と色んなことが繋がっていたんだなとわかる。



ちなみにその心への影響大だった態度は後から意味が変わった。

確かに心はボキッとなったし、立ち直る間も無く次の爆弾が投下されて、私には何がなんだがわからなかった。

でもその人がそういう姿を誰でも彼でも見せるわけではないことはわかってたから、そういう姿を見れたのはちょっとだけ特別感を感じた。

基本的に物事は平和の方がいいし、余計なゴダゴダとか心が苦しくなるようなのは極力避けたいと思う。

大人になればなるほど、一般的にその傾向が強くなる気がする。

色んな子どもや大人と関わった中で私なりに学んだことの1つに、嫌な部分の自分をさらけ出せる関係というのがある。

もちろんそれにも2種類ある。

1つは、本当に相手が嫌で不快感を露わにし、相手を遠ざけるため、自己防衛のために、あえて冷たくしたり突き放したり素っ気なくする。

もう1つは、無意識の中でそういう自分を出してもいい、その人に見せてもいいという、ある意味相手と一線を超えた関係があって初めて成立するもの。

その人の場合は、前者の線が濃厚だけれど、それでも普段感情を外に出さない人がものすごくわかりやすい形で出していた。

私に気を許してそんな風だったとは考えにくいけれど、それは少なくとも私以上に平和主義そうなその人が見せた唯一のものだった。

それは私の心を突き刺すものすごくマイナスの力に満ち満ちてはいたけれど、でもいつからかそれは特別な感じにも見えるようになった。

みんなに見せるものではない、多分その人が人生で生きている中でもそうそう表に出さない自分の姿だろうから、そういう意味で特別感があった。

贅沢を言うなら、もっと別の形の特別感が私は良かったけれど、でも平穏無事ですべてをまあるく収めたとするなら絶対に見ることのできない姿ではあった。

知らない方が平和に時間は流れたと思う。

知ったことで、平和の代わりに痛みに悲しみにやり場のない思いに色々てんこ盛りではあったけれど、それと同等にその人が大切だと感じている自分にも気付けた。

何にも代え難い、かけがえのない存在であること、そういう人に私は出逢えたことを知った。



賭けが想像もしていなかった方向に動いたことで、私はその後突拍子もない行動に出た。

自分の重たすぎる行動や、相手の迷惑を省みない自分勝手な振る舞いには、自分でもありえないと思っていた。

だけど、私がそこまでしつこくそして絶対的に自分の意思を貫いたのは、繋がりとも呼べないような繋がりを断ちたくなかったから。

今繋がらないともう二度と人生がどこかで重ならないことはわかっていた。

私はそれが本当に嫌だった。

黙っていたら相手から来てくれるようなそんな上手い具合にはいかないことも知ってた。

だから私は動いた。

今振り返ると、怖いもの知らずとはあの時の私のことを言うんだと思う。

私は、永遠に重ならない人生の方が怖かった。

だから動くしかなかった。

そしてあの時の私は、本当に全てに対して全力だった。

理性とかそうしたものたちは一気にぶっ飛んで、あとは非常に動物的な感じで、本能というか体の内側から湧く力でひたすら動いていた。

動いて重ならなかった結果は仕方ない。

今も色々納得できない自分がいるけれど、それでもあの時動けたのは、自分の中の全部の気持ちを1つにしたからだと思う。

理性よりも心を選んだ私は、あの時自分の人生そのものをそこに対して懸けた、そんな気がする。

その人といられるなら、私はもう本当に他は何でも良かった。

そして何となくだけど、あの時にありえないことが起こったのは、私をその道に進ませるために、要は黙るのではなく相手に伝えるために、そうなったような気がする。

私からしたらあの賭け事は、人間が勝手に雨を降らせたり止ませたりできない、そういう天の采配レベルのことだった。



今回のケーキは、わざと去年と同じ店にした。

その方がこの1年がどんな風かわかると思ったから。

今年は自分が食べたい!と思ったケーキにしようと思って店に入った。

入口付近ですぐに目に飛び込んできたのは、苺のショートケーキだった。

ショーケースまで結構距離のあるお店だけれど、それでも真っ先に目の中に入ってきた。

去年もそうだったから今年は違うのにしようと思ったけれど、結局ショーケースを見たらやっぱり苺のショートケーキが一番その時の気持ちに合ってた。

冷たい飲み物よりもホットコーヒーと思って頼んだら、なんと去年と全く同じ組み合わせのケーキセットになってた。

去年、私はケーキを食べた店で自分がものすごく葛藤しながら日記を書いたことをとてもよく覚えている。

その時の私は自分の中にある気持ちをないことにしようとしてた。

だから名前を絶対に書かなかった。

すぐ隣りのページは8月10日(木)で、私は仕事に行く前に朝マックに行ってさらに駅で用事を足してから行こうとしてた(時間配分間違えて、遅刻した気がする)。

その日の日記にある。
「本当はここに残しておこうかと思った」

その一文に全ての気持ちが入ってた。

私はその人の名前やその人との間であったことを残そうとした。

だけど、それを書いたら、自分の中だけにあったものが形を持ってしまいそうで、それが怖かった。

まだまだ私は葛藤してた。

自分で気付きながらも、その人の名前や自分が何を思ってるとか書けなかった。

文字にして出す、そうしたら認めることになりそうで、私はそれに対してものすごく抵抗した。

色んな種類の葛藤と、そして私は多分そこまで葛藤した理由は、怖かったからだと思う。

人と関係を持たないことで得られる心の平穏に私はすっかり魅せられた。

失う怖さや自分1人で生きていく時間の中に常にある喪失感、私はそういうものが本当に嫌だった。

ましてや可能性があるなんて思えない人に自ら声をかけるなんて、そんな博打みたいなことしたくなかった。

だから知らないふり気付かないふりの方がそういう意味で楽チンだった。

その時の私は、その1ヶ月ぐらい後から七転八倒するなんて当然知らない。

七転び八起きじゃなくて、七転八倒。

その葛藤してた頃の自分を思い出しつつ、今年のケーキを食べた。

川のある風景も、重軽の石も、たった1年で新しく仲間入りした思い出だった。



去年の夏、私は立場もわきまえず、本当に自分の気持ちのままに突っ走った。

計算も計画もできない私は、本当にそのままの自分を呈する他なかった。

手紙には書かなかったけれども、私は1つだけどうしても勘違いされたくないことがあった。

何をどういう風に捉えられても、それは相手の捉え方だから、私がどうにかできるものではなかったけれども、勘違いだけはされたくなかった。

相手の社会的な立場や外見というようなものには一切気持ちが動かなかったということ。

純粋にその人というものに私の気持ちが動いていたこと。

その部分だけはどうしても相手に伝えたかった。

私はその人の何に惹かれてるのか最後まで言葉を持っていなかった。

それでも社会的なものや外見という、婚活なんかでは超重要視されることは本当に何1つ私には関係なくて、むしろそれが私には弊害でもあった。

特に立場的なものは、分不相応過ぎて余計と近寄りがたかった。

ネットの記事でも読んだことあったし、男友達から聞いた実体験もあった。

結婚したくて言い寄ってくる女たちがいるということ。

しかも結婚したいのは、その人じゃない。

その人の社会的地位とか収入とかそういうのを目当てに結婚したいのだと言う。

もちろんそんなこと声に出して言うわけではないけれど、そういう意味で寄ってこられるのはわかるとのこと。

モテ男の男友達いわく、そういうのは雰囲気でわかるし、本気で幻滅するし、相手の人間性を疑うと言ってた。
(実際に男友達の社会的立場に惚れ込んでアタックしてきた女の人も少なくとも2人以上いて、私も話聞いて一緒にドン引きしてた)

私はそんな風にだけは絶対に思われたくなかった。

しかも結婚を前提にその人に近付いたわけじゃない。

だけど、私の方はそう思われても言い訳のできない立場や状況にあったから、それだけは本当に勘違いされたくなかった。

きちんと話したことない人が誘ってきたら、そんな風に思われてもおかしくなかった。

たとえ私にそんなつもりがなくても、そう捉える人だっているだろう。

だから私は、何か自分の中でうまく言い表せないものでも、なんとか言葉にしてその人に伝えたかった。

自分の中にあるものや、その人に出逢えて本当に良かったということを、そのまま伝えたかった。

面と向かっての時間がもらえない以上、私は他の策を取るしかなく、それが手紙に繋がった。

正しくは、策を練るような精神的余裕はなく、思い付いたままに動いたらそれが手紙だった。



この文章自体、3日か4日ぐらいに分けて書いている。

自分でも毎回驚くけれども、この人についてこうして文章を書いたり過去のある場面を鮮明に思い出したりすると、理由のわからない涙が出てくる。

心の深いところに到達しないと見えない景色だったり、感じられない感覚だったりするところから来ている感じはする。

失恋してボロボロ泣くのとは違っていて、言うならば、10年以上前に亡くなったばばちゃん(母方祖母)との思い出を思い出す時や、2歳の姪っ子の全身全霊で表現する「大好き」や、友達が言ってくれた「ぶっしー、生きて!」や、そういう状態の時に流す涙と似ている。

「ぶっしー、生きて!」は私が死のうとしたのでは全くない。

友達の友達が自殺したらしく、それで友達は悔しい悔しいと言って電話をかけてきて、当時プー太郎だった私に「ぶっしー死んじゃダメだよ!ぶっしー、生きて!」と言った。

私も友達の言葉を聞きながら泣いた。

泣こうと思って泣くんじゃなくて、勝手に涙が出てくる、そういう感じの涙を流す源のところにその人はいる。

時間が解決してくれるわけではないみたいだから、それはこの数ヶ月で期待しなくなった。

だから私は、この状態に飽きる時まで自分に付き合い続けようと思っている。

今はもうその人に迷惑をかけることもないから、私は私のペースでその人とのことは何とか自分の中で良い感じで昇華したいと思っている。

言葉を間違えた。

「昇華したい」は多分次の段階。

今はまだ昇華したいとさえ思っていない。

どう扱っていいかもわからないから、野放しに近い。

今日私は一度だけ外に出た。

東京に行く前にどうしてもコピーしておきたかったデータがあって、コピーのために徒歩3〜4分のコンビニに歩いて行った。

うちのすぐ近所にあるお店がある。

お店の前にブラックボードがあって、最近のお店のウリを紹介していた。

普段歩いて通ることなんかないし、そもそもボードがあることさえ知らなかったから、初めてそれを見た。

私は探してもないし、求めてもないし、引き寄せてもない。

だけど、そのボードにはその人の名前がひらがなで書いてあった。

毎回何でこんなところに⁉︎というような場所で遭遇する。

常々こんな風だから、何とかしよう!なんて力むと余計におかしくなりそうだから、放置している。

まだまだ普通に私はその名前に反応するし、昇華からはずい分と遠いところにいる。

だから私が飽きるか、新しく誰かに出逢うか、そんなことでもない限りしばらく大きな変化は望めそうにないからあきらめている。

心の深いところで響くものがあっても、それは今の日常に差し支えないから、そのままでいいかなと思っている。

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