2018年6月8日金曜日

生きるセンス【続き】

今日は下の3つのトピックについて(アメリカ生活で得た生きるセンスの続き)。

・自己責任
・いつからでもスタートできること
・自ら聞くこと


【自己責任】
今、日大のフットボール部のニュースが連日報道されてる。

いつだったか見ていたら、アメリカの大学との対比がなされてた。

アメリカの大学では、選手も当然すごく勉強するし、文武両道が基本だと。

1人のコメンテーターが「アメリカの大学ではとにかく学生たちがみんな勉強する」とさらりと言っていた。

これは本当にそうなんだけれど、みんなその理由も説明しないとわかんないと思うよといつも思う。

これはアメリカの大学が卒業するのが難しいと言われる理由と重なる。

ちなみに、アメリカの大学が難しすぎるから卒業が難しいんじゃない。

アメリカの大学は、そもそも制度がサボれないようになっているから、それゆえにさぼろうとすると卒業が突然難しくなる。

アメリカは3つのやり方で、生徒に絶対的なものを求める。

1.授業への出席
2.提出物やテスト
3.評定

上の3つを完璧にしないと、単位がもらえない。

>1.授業への出席

日本の大学みたいに代返などと呼ばれるようなことはできない。

授業の出席は基本的に授業中に回ってくる出席表に各自サインをする。

当たり前だけど、サインだから誤魔化せない。

そして大抵どのクラスも何回まで遅刻及び欠席が許されるか回数が決まっている。

遅刻と欠席合わせてその学期で3回までが普通。

それ以上OKのクラスは見たことがなかった。

仮に4回目を記録してそのままにした場合、それだけでそのクラスの単位は落とされる。

私は1つのクラスだけそうなりかけたものがあって、先生に即刻相談に行って、条件を出してもらって(論文1本追加とかだった気がする)それで単位を無事もらえたことがあった。

あといつだったかは、忘れもしない、国際政治のクラスでのこと。

それは月曜の朝8時からのクラスだった。

このクラス、本気でふざけてるのかと思っていたけれど、毎週月曜に2枚程度の論文を提出しなきゃいけなかった。
(確か必須で取らなきゃいけないクラスだったと思う)

しかもその内容というのがとてつもなく難しくて、私は毎週日曜は半泣き状態だった。

世界中の国際政治にまつわるエピソード(例・湾岸戦争とか)を10ページ近く指定のテキストで読んで、その要約を作るのと、さらには各章の巻末に3つ質問があるからそれに自分の意見で答えるというものだった。

私は4年間いた中で、単純に苦手な生物を除いたら、一番難しいクラスだった。

まず、そうした国際政治の基本的な知識が私の場合ゼロに近かった。

インターネットが普及してるとは言え、アメリカから日本のサイトにアクセスしても文字化けしちゃう時代で、基本的に日本語での情報確保はできなかった。

だからそのテキストを読むしかなかったけれど、そのテキストが本当に難しくて10回読んでもまだわからなかったぐらい(×毎週末)。

そのわからない内容の要約文を作って、さらには巻末の質問(も難しくて何を問われてるのかさっぱりわからなかった)にも自分の言葉で答えるなんてとんでもなく難しかった。

で、ある月曜の朝、その論文が間に合わなくて、私は半泣きで教授の元を訪れて「論文間に合わなくて、一応手書きで下書きしたものはあるけれどタイプしてなくて、これを提出するには授業を休まないといけないけれど、論文提出はあきらめて授業に出るか、それとも授業を欠席して論文完成させて授業の終わりまでに提出したらいいか、どっちの方がいいの?」と聞いた。

先生からは、「出席しない方が成績に響くから授業は出てね!論文は本来タイプしてないのは受け取れないけれど今回は仕方ないからその下書きを提出して!次からは気をつけるのよ!」と言われた。

それぐらいに厳しかった。

(超自慢:今気になって成績表を見たら、なんとそのクラス「A」評価だった!)


>2.提出物やテスト
上の話に通じるけれど、提出物は絶対だった。

これをすっ飛ばしていいなんていう選択肢は皆無だった。

提出物忘れや遅れも当然マイナスカウントで、提出物の出し忘れなんて人は見た記憶がない。

テストも受けて当たり前、且つ一定の成績を納めることを義務付けられていた。

これらが次の「評定」の話に繋がっていく。


>3.評定
私の行ってた大学は、A.B.C.D.Fの5段階評定だった。
(学校によっては+−があったりもしてもっと成績の区分が細かいところはあっても、基本はどの大学も上の5つがスタンダード、と入学時に説明を受けた記憶がある)

F以外は単位は認定される。

だけど、評定はそれだけにとどまらない。

学校全体の決まりで、評定平均が5段階中2.0以上ないといけなかった。

だから全ての教科をトータルして、評定平均が2を切った場合、1度目の学期は学校から警告文が本人の元に郵送で届く。
(私は届いたことないけれど、友達の友達が届いたようで、あんなの見たら震え上がるよと言ってた。警告と言うより、脅迫に近いらしい。)

評定平均が2を切ってるから気をつけなさいの警告。

それが2学期連続で切った場合、有無を言わさず強制退学になる。

という背景があるから、出席は必須だし、提出物はもちろんテストでも、ある一定以上のレベルが求められる。

そうしてようやく単位が取れるけれど、ギリギリセーフなのはよろしくない。

生物でD(=2)を取って、それがどれだけ評定平均の足を引っ張ってくれたことか。

そしてなんと私はその後奇跡の回復を果たして、成績優秀者の称号をもらって卒業できた‼︎‼︎←本物の奇跡。

だから、アメリカの学生たちがみんな勉強するのは当たり前で、そうでもしないと卒業できないどころか強制退学になるからだよ!と言いたい。

金曜土曜はアメリカ人たちも遊ぶけれど、日曜に遊ぼう!なんて言うアメリカ人は基本的にいなかった。

ネイティブと言えども彼らだって勉強しなきゃ課題をこなさなきゃいけないわけで、日曜は基本的にみんな月曜以降の学業に専念する。

それはアメフトなんかの学生も同様で、たとえスポーツなんかの花舞台で活躍する選手たちも本業は学生だから、同じように勉強しないといけない。

学費の面で特待生的な扱いはもしかしたらあるかもだけど、学業は他の生徒たち同様だから、やらなきゃ当然本人にツケが回ってくる。

そこにプラスして練習もあるから、本気ですごいと思う。


【いつからでもスタートできること】
アメリカの大学では2つのことが象徴的だった。

とにかく色んな年齢層の人たちが学生をしている。

特に州立の大学は学費が安いこともあって、普通に40代50代の人たち、何なら子どもが丁度大学に入るなんていうタイミングの人たちもいた。

私が卒業した年の社会福祉の学部で最後に生徒代表のスピーチをした人は、40過ぎのシングルマザーの人だった。

育児と仕事との両立は大変だったけれど、何とか卒業までこぎつけたことへの感謝と感動を話してた。

そして、それを可能にすべく、その学期で取る取得単位数は個人で決められたことも大きい。

それは時間とお金の調整の両方ができる。

日本の大学みたいに一律同じ学費で、そしてみんながみんな同じ数の単位を取るみたいなのと違っていて、社会人学生なんかは休学したり復学したりを繰り返したり、ずっと在籍はしても1、2クラスだけ取っていくスタイルの人もいた。

学費は取る単位数によって変わるから、その時の懐事情に合わせられる。

学生に優しいシステムが普通にあった。

あと、専攻はいつでも変更可能だった。

私も1年目の最初の学期ですぐに変更した。

それもとっても簡単にできる。

手続きさえ踏んであとは新旧両方の学部に顔を出して、新しい方には自分専用のアドバイザーの教授を付けてもらってそれで終わる。

1日もあれば手続きは全て完了する。

私は忘れもしない、4年の最後の学期。

バイト仲間の同い年の男の子で、教育学部で教育実習も終わって、あとは卒業を待つだけだった。

ところが彼は直前でなんと専攻を変更した。

「ぼく、教育学部はやめて、石を本気で勉強したいから地質学に変更するよ」
そう言って本当に変更した。

しかも現実的な教員の道じゃなく、仕事は何するの?レベルの地質学へ。

でも本人は至って満足していた。

自分はどうしても石について勉強したいから、だから全く後悔してない、むしろワクワクしてるぐらいのことを言っていた。

ここまで極端なのはこの彼だけしか知らなかったけれど、普通にみんな興味の方向が変わると専攻を変えるか、ダブル専攻(アメリカだと結構普通)、もしくは副専攻として登録してた。

あと、日本では考えられないことだけど、アメリカでは編入は普通にあった。

特に3年生あたりで編入する人が結構多くて(何人かに1人はそうだったし、周りにもけっこういた)、要は自分の専門分野を学ぶのに他の大学の方がシステムやカリキュラムが整っていれば、それに合わせて編入する。

もしくは単純に別の地域に住みたいという理由で編入する人ももちろんいる。

その辺りは詳しくないからわからないけれど、テストはなかった気がする。
(学校によってはあるのかもしれない)

留学生に関してはTOEFLと呼ばれるテストで各学校が定めてる基準点さえクリアしてたらあとは手続きだけという感じ。

どの学校も寮を完備しているし、寮に入らなくてもアパートを探すのは大都会は別にしてもそうでなければ日本ほど煩雑な手続きもなかった。

私の住んでた町は敷金礼金のならわしもなかったから、余計と引越しは費用面でも簡単だった。

学ぶことに関して、大学は本当に広く門戸を開けていて、誰でも自由に学べるよう、ありとあらゆる制度が整っていた。

そういう意味でアメリカというのは、本当にいつでもスタートできる環境が普通に整っている。

それを選ぶ選ばないは個々人の選択であることがはっきりとわかる。

最初の自己責任とも合わせて、「自分のことは自分で責任を持つ」という意識をものすごく持たされる環境だとも思う。


【自ら聞くこと】
これはほぼほぼ全ての教授のところに行って話してきたと記憶している。

学期が始まってから最初のテストの前までのどこかのタイミングで、教授を訪ねてテスト中に辞書(英和辞典)を使っていいかを聞きに行った。

一応余計なものなわけで、でも私には絶対に必要な道具だから、現物を持って行って必ず確認をした。

当たり前だけど、駄目という教授は誰もいなかった。

あと授業でわからないところは直接オフィスを訪ねて聞きに行ってた。

わからないままにしても今度は自分が困るから。

向こうではそれが普通だったから、日本に帰ってきて気になったら仕事やお店であれこれ質問するクセはそのままになった。

ちなみに帰国してから母や妹からは私と買物に行くのが恥ずかしいとよく言われた。

すぐに店員を呼んで聞いたりするし、特に割引でおかしなことになるとそれも確認するから、他人のフリをしたくなるらしい。

これは派遣の仕事に行って思ったことだけれど、中には質問しない人がいる。

わかって質問しないのは別にいい。

でもわからないのに質問しないのは、私にはわからない。

後でこっそりでもいいから確認しないとわかんないじゃんと思う。

たまに私に確認してくる人がいたけれど、私はおかしいと内心思ってた。

私の解釈で合ってるとは限らないから、きちんと聞こうよ!と思った。

質問の機会はみんなに平等に開かれてるんだからさ…と言わないけれど思ってた。

あと、ノートが授業中取りきれない時は、クラスメートにノートを見せてもらうようお願いすることも時々あった。

いつだったか、私はアメリカ人の全く喋ったこともない女の子からノートを貸して欲しいと言われたことがある。

私は構わないけれども私のノートは若干内容が怪しいのと、それ故に他のクラスメートの方が確実だと思うけれどいいの?とは聞いた。

アメリカでは先生たちはほとんど板書しない。

全部口頭で説明するから、それをノートに書いていくしかない。

外国人向けの英語の最初のクラスではそれこそノートの取り方のいろはを学ぶ授業だった。

そんなこんなの私のノートだから、貸すのはいいけれど嘘の情報が紛れてる可能性もあったからそう申し出た。

でも彼女は「いや、あなたのノートを借りたいの。あなたなら絶対にきちんとノートを取ってるってわかるから」と言われた。

これはめちゃくちゃ嬉しかった。

私はもっぱら聞くこと専門だったけれど、アメリカ人たちも質問する・尋ねるという意味ではそれを普通に日常的にやってた。

そしてみんながみんなそうだから、聞くことにも聞かれることにもみんな慣れていた。

また土地柄もあったかもしれない。

ロッキー山脈の田舎町は、基本的に人々は穏やかだったし、緩い雰囲気を携えていた。

でもアメリカ国内の他の都市でも、そんなにも質問するのに構えなければいけない場面はそうそうなかった気がする。

唯一気をつけなければいけないのは、宗教とか家族関係、銃、人種、性的なこと(ゲイとかレズとか)、とにかくそうした個人的なことは立ち入ってはいけないのはわかった。

でもそういうものでなければ、ましてや日常生活に支障が出るレベルのものは、普通に聞いてた。

時と場合によっては、質問することが悪みたいな捉え方をする日本とは違ってた。

これはどこで言われたことか忘れたけれど、一度私はそっと注意を受けたことがある。

「相手に質問するというのは、『その人の言ってる意味がわかりません』と相手に言ってるようなもので失礼にあたる」と。

私は驚きすぎて声も出なかった。

そんなことが失礼になるだなんて、その時まで考えたこともなかった。

相手の言ってることがわからなくて、でも大切なポイントだから説明を求めて何が悪いのかと思った。

私は自分が馬鹿だと思われても全く意に介さないから、ただ答えを知りたいだけだったのに。

私はそう言ってきた人の真意は今もわからない。

もしかしたら本当に私が失礼な聞き方をしていて、それを見て注意されたのかもしれない。

でもその当の本人、私が質問した人は、そんな不快になってる風には見えなかったけどなと思った。

質問する時のTPOと言えばいいんだろうか、それはアメリカで相当鍛えられたし、そして質問をする時の相手との距離感なんかもこの辺りでだいぶ学んだ。

30代で何社か行った派遣の仕事は、私の質問のレベルをさらに磨いてくれる良い機会だったと思う。

アメリカ的な感じではなく、日本的なと言えばいいんだろうか。

今書いていて気付いたけれど、私の質問力はほぼほぼ全て、「自分が知りたいこと、疑問に思ったこと、知らなくて困っていること」のいずれかで成り立っている。

コーチングのスクールでは質問力を褒められたし、スクールの外でも個人的対話の際やセラピーをする人たちからも「どうやって質問を考えるのか」と聞かれることが度々ある。

でも先に書いたように、私の質問は自分個人の知りたいや困ってるから解決したいが大元だから、質問自体は考えてるわけじゃない。

これも慣れの問題だと思う。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とは本当にその通りで、私は聞かずに知らないままにしておく方が恥ずかしいと思ってる。

ましてや仕事のことなら尚更で、質問せずに間違えたやり方で取り組んだら後からもっと面倒くさくなる。

だからそれを回避するためにもとにかく聞く、聞いて確認するの姿勢は大学の4年間で散々やったおかげで自然と身に付いた。


私の生き方そのものは相変わらず不器用だと思うけれども、大切なことは異文化のところに自分の身を置いたことでたくさん学ばせてもらえたと思う。

自分でも書きながら、そう言えばこんなこともあったな〜とか、あんなことあったっけ?なんて思い出しつつ、その1つ1つがとても貴重なものだったとわかる。

そして今回アメリカでのことを公にしたことで、私の中でも1つわだかまりが解けた。

私は当時のことをほとんど人前で話したことがない。

聞かれたら答える程度で、あとはほとんど語らなかった。

語らない理由があった。

でももうそんなこと気にしなくて良くなって、それで自然と語れる自分を今回見つけた。

その辺りも後続の回で書いていけたらいいなと思う。

関係ないけれど、書きたいことがあれこれ出てきて、今携帯のメモにはいくつか下書き途中のものが保管されたままになってる。

でも明日は明日で、絶対に明日に書きたいことがあるからまたもや下書きたちはまた今度…。

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