2018年5月28日月曜日

【後日談 続き】そして花火

【後日談 前回のブログより】
友達は、1ヶ月前に友達が見た看板を私が見つけられなかったと言ったから、わざわざ見に行ってくれたらしい。

私はそもそもの場所を知らないから、何となくの目星をつけて探すしかできなかった。

だから別に見つけられなくても気にならなかったし、友達の話の流れの方があまりに不思議すぎて疑う気持ちなんて一ミリも湧かなかった。

その友達は看板を見に行って驚いた、と切り出した。

「ねぇぶっしー、ほんとどういうことだと思う?
私あの日確かに休日出勤して、運送屋に商品を搬入するために私の車を出して、そして上司に言われるがままに菓子屋に寄って。
で、帰り道その上司の案内の元、普段通らない道を通って曲がる場所間違えそうになった時、確認のために運転しながら目印となるものを探したんだよ。
ちょうどあの看板があったからそのまま読み上げたんだよ。
あのぶっしーが写真で見せてくれた工事の会社と同じ名前の看板だよ。
なのに、この間見に行ったらもうないの。
別の看板に入れ替わっていて、それがね、変なのがその入れ替わった看板っていうのが別に新品じゃないんだよ。
古くなって新しいのに替えるならまだわかるけど、そうじゃない。
そしてそもそもの看板がない。
私あまりにも混乱して、私はあの日本当にあの看板をこの目で見たんだろうか?とかそもそも本当に出勤したんだろうか?とか、そんなこと考えたよ。
ねぇぶっしー、どういうこと⁇」

友達は最後笑いながらも腑に落ちなさすぎると言っていた。

事の真相は当然わからないけれど、私は勝手に色々予想した。

看板の話の大切なところは、私ではなく友達が見たことと、そしてそれを友達が私に教えてくれたことだと思ってる。

去年の9月の終わりから私はあらゆる形である人を示すサインを目にしたり耳にしたりするようになった。

最初こそあまりにもすごいタイミング過ぎて、何なのかと思った。

あまりにも感情が乱れまくりだった当時、私は仕事が終わってからも真っ直ぐに家には帰らず、1人になれる場所にあちこち行ってはひたすら自分の気持ちを何時間にも渡って整理するみたいなことをしてた。

そんな風だったから、家に帰ってもご飯食べて片付けて風呂入って寝てみたいな、本当に最低限のことしかしてなかった。

当然テレビなんて見なかった。

なのに、一瞬、本当に1分どころか数十秒の話だと思う。

パッと目に入ったテレビ越しにその人と同じ名字の人の名前がテロップに出てたり、ドラマのキャストが同じ名前でその下の名前で呼ばれてたり。

そういう風にして、テレビをはじめ至る所で名前を目にしていた。

それは当時から今もあまり変わりなくて、多少回数は減ったなぐらい。

ただ、友達が見た時期というのは、明らかに目にできる、又は人づてでもその人の情報を耳にすることが完全になくなって2週間ほどの頃だった。

私はもうそれまでみたいに名前や情報を耳にすることがなくなるんだなと思ってた。

実際に回数は減った。

減ったけれど、今度はまた形を変えて見たり聞いたりするようになった。

その一番わかりやすくそして一番摩訶不思議な形だったのが、その友達の看板を見た話だった。

私も当然その起こる意図なんか全く知らないけれど、そこまでしてその情報に行き着く時、「あぁ元気なんだな」と思ったり何かしら別のことをその人のことで思い出したりする。

友達には、最近の面白い現象として、その制服を着たおじさんが我が家に来たり、その人が乗ってる車の宣伝がホロスコープを調べてる最中にでかでかと出てきたりしたよ、なんて話した。

ある時から不思議現象に関しては、何か証拠が残せる時は私は写真に収めたりする。

だからその画面に出てきた車の宣伝は写真を撮った。

同じ日の朝と夕方に全く別の記事で見つけたから、2回とも撮った。

友達が「これは一体何を伝えたくてこんなことになってるんだろうね?」と言いながらも、「何かに繋がるといいよね」と続けた。

私の気持ちをそっと包んでくれてるみたいで嬉しかった。

こんなの見たところで本人に会えるわけでもなんでもない。

本当に元気かどうかも知らない。

だけど、何か繋がってるなら本当に嬉しいし、繋がってなくてもおじさんの制服見りゃ萌えたし、友達の看板話も聞いてて気持ちが和んだ。

心にそっと元気玉を注入してもらえるみたいで、私はそれで元気になるんだからそれもありだと思ってる。

【追記】
ちなみに友達が看板を探しに行ってくれた理由はこうだった。

「ぶっしーに見せてあげようと思って、それで道を確認しに行ったんだよ。
私もそうしたらぶっしーを連れて行きながら、ほらあったでしょ!って証明できるしね!
なのになくなってるだなんて。
まさかの事態で、私自分が夢でも見てるのかと本気で思ったよ」

私は友達が私にその看板を見せてあげようと考えてくれたことがそもそも嬉しかった。

しかも連日残業プラス休みの日曜日は仕事も家に持ち帰ってくるぐらいに忙しいのに、その合間を縫って道をわざわざ確認しに行ってくれたんだなと思ったら感動した。

その人にまつわることは、こんな風に人の優しさを運んでくる。

去年の夏の花火の日、その人は定時で帰った。

花火に行くんだって、と誰かが言ってた。

私もその日急遽その友達と花火を見に行けることになった。

しかも私も定時で上がったけれど、花火に行くって決まったのはその1時間後だった。

だから行く予定になかった花火に急遽行くことになった。

その人がどこで見てたかなんて知らないけれど、多分互いに半径1、2キロぐらいのところにいたんじゃないかと予想してる。

友達の家は花火会場の観覧席のすごく近くで、これまでにも何回か一緒に見に行った。

その日も有料の観覧席と無料の観覧席のちょうど境目の辺りに2人座れるスペースがあってそこから見ていた。

でもその時は友達には何も言わなかった。

自分でもよくわかっていなかったし、私はまだその時は色々自分の勘違いかもしれないと全力で否定もしてたから、他言するなんていう段階に全くなかった。

何も言わなかったけれど、もしかしたらあの日あの花火の上がる空の下で何かがお互いの間を交差したのかもしれない。

秋が深まって、季節は半袖から長袖になった頃。

私は1つ前のブログに出た最初の友達にその名前をよく見たりとかその他諸々のおかしなことを話してみた。

完全なる見えない世界の話だから、スピの知識がある子なら少しはわかるかなと思ったから。

だけど予想に反して、「えー、そんなことある⁉︎」みたいに言われた。

あるとは聞いたことあるけれど、それってぶっしーの気のせいじゃなくて?みたいなことも言われた。

だから私はもう自分でもおかしいのはわかってたからその話はしなかった。

私は色々起こっていても、「気のせい」とか「たまたま」とかと片付ける部分もかなりあった。

「えー、そんなことある?」と言った友達の言葉は、当時全てが半信半疑、むしろ疑いの方が強かった私には十分な説得力があった。


年が明けて、その花火の友達に会った時、実はねと話した。

秋に入った辺りから自分のスピの力みたいなのもわけわからないぐらいに変化したことや色んな不思議なこともたくさん起こってることを前置きした上で話した。

気のせいかもしれないとも言った。

気のせいと言われても仕方ないようなことばかりだから、私は信じてもらえなくてもそれが普通かなというぐらいの気持ちでいた。

友達は話を聞いて即刻言った。

「ぶっしー、私それ本当だと思う」

普段は絶対に自分が納得するまで調べ上げたり徹底的に考えたりしてから決断するその友達がそんな風に言い切ったことにも驚いた。

「ぶっしーの今話してくれたことは本当だと思うし、本当に縁のある人なんだと私は確信に近いレベルでそう思ったよ」

受け止められたことも嬉しかった。

反対に彼女がなぜに断言したのかはその時わからなかった。

3月に入って、6日違いの誕生日の彼女と私は誕生日会を開いた。

その時に彼女が断言した理由を初めて教えてくれた。

ちなみに彼女も私に教えよう!なんていう意気込みは全くなかった。

私が超興奮しながら1ヶ月前に受けたホロスコープ鑑定が良くて彼女にも「本当に興味あったら受けてみて!」と言った話の中で、突然彼女が
「うわっ、いきなり思い出した」
と言って教えてくれたことだった。

だから、そもそもホロスコープ鑑定を受けに行かなければ、そんな話は引き出される予定さえもなかった。

彼女が教えてくれたことは、本当に驚きの内容だったけれど、彼女はそれ故に自分でも断言できたと続けた。

「ぶっしーわかると思うけど、私は普段見えたりしない人だからね。
だからあれは私が見える能力があって見えたんじゃないと思う。だって現に後にも先にも他のことは何にも見えないし。むしろ、そっちじゃなくて自分の人生のヒントくれ!と思ってるぐらいなのに 笑。
だからあれは見えたんじゃなくて、『見せられた』と私は思ってる」

「私は自分の思考のパターンも何かを感覚で見る時のパターンも知ってるから余計そう思うんだけど。
あの見せられた時は、はっきりと私の思考でも私の感覚でもないっていうのだけはすぐにわかった。
だって普段はそんなの見えたことないし、あれ以来何も見えないよ、相変わらず。
それがあったから、私は何の疑いもなく『本当にそうだと思う』と言い切れたんだよ」

だから看板の時も友達は「何で私が土曜出勤してまでこんなの見てこなきゃいけないの?って思うけど、ぶっしーに伝える役割だったとするなら仕方ないね」と笑って言ってた。

「しかもさ、まるで私とぶっしーが次の日に会うって知ってたみたいに仕組まれてるよね。
うちら看板の話をするために会う約束したわけじゃないのに。
っていうか、ぶっしーが写真見せてくれなかったら私もそんな出来事忘れてたのに!
そんなことさえ仕組まれてたのかと思うくらいに変なことだらけだね!」

あの花火の日、磁場みたいなのが動いたのか何なのか、とにかくたまたまお互いに近くにいた人同士の間で点のように不思議なことがその後起こるだなんて思ってもみなかった。

そんなの証明のしようがないし、私の得意な妄想が暴走してるだけかもしれない。

でもどういうわけか、あの花火の日、私の隣りにいた友達の口からは、時間を経て不思議な情報たちと一緒にやさしさまでもたらされる。

私は2日前6時間以上怒り狂ってたから、余計と比べて見えることがある。

その人にまつわる様々なことは、本当にやさしいものが運ばれてくる。

過去には聞きたくない情報も時々耳に入ってはきたけれど、それでも私は圧倒的にやさしいものや人の心が伝わるような素敵なものをたくさんもらってる。

どう考えても私の方が自分の内面を見たりとか浄化とかそういうことたくさんしてるし、その人がそんな類いのことをしてるとは全く思えない。

これは私が勝手に思ってることだけど、その人は人としての徳が高い気がしている。

だから運ばれてくる様々なものが優しいのかなと思っている。

仮に全てが私の思い違いで単なる偶然がいくつも重なっただけのことだったとしても、私が色んな形でやさしさに触れたことには違いない。

今気付いた。

「目に映るすべてのことがメッセージ」のタイトル。

『やさしさに包まれたなら』

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