久しぶりに猛烈に怒ってた。
コーチングの授業の時、「怒り」について学ぶ時があった。
テキストには、あるアメリカか何かの大学の教授のリサーチに基づくと、「怒りそのものは90秒しかもたない」とあった。
私は90秒と聞いて驚いた。
多分これを読んでる人からしても「えっ⁉︎」となったと思う。
これには続きがあって、新しく湧いた怒りは確かに90秒の寿命ではあるけれど、実際はもっと怒りが長引くのが普通。
じゃあ90秒しかない怒りに対して何が原因でもっと長引くのか。
それは過去の怒りとリンクして、それがきちんと癒されてるならいいけれど、抑え込まれたりなかったことにされたりして癒されてないと、それが同時に湧き上がるとのこと。
だから、怒りのスイッチは本来1つですぐ終わるものが、実際には無意識に過去の別の怒りも出てきてしまっている、そして怒りは長期化するというのが怒りのメカニズムらしい。
私はその時、なんと7時間中6時間は怒り通したというすごい体験をした。
怒りが90秒とするなら、その240倍怒りを持続したことになる。
実際、怒りのスイッチは数箇所どころか数十箇所に及んだから、仕方ない。
私は自分が何に怒ってたのかわかる。
自分が大切だと感じることに対して、ことごとくその真逆のことを言ってくるから、もう怒りのスイッチは常にオン状態だった。
会う前からかなり懸念していた。
大丈夫かな、と。
元々とても仲良くしていた友達だった。
ある時から、私は会う度に、会った後必ず何か言葉に引っかかりを自分が覚えることに気付いた。
最初はその言葉が私に向けられたものだから、まぁ私が単に言われたくないこと、言われたら嫌なことなんだと思ってた。
それは嫌は嫌でも私の個人の捉え方や言葉の好みの問題だから、気にはなっても怒りに発展するものではなかった。
それがいつからか、少なくとも今年に入ってからだと思う、仕事に及ぶ話でその姿勢に私は本気の怒りが湧いてしまうようになった。
仕事と言っても、現在の仕事じゃない。
なんなら私は今働いていない。
そうではなく、ヒーリングとか癒しの方のお仕事。
彼女もあるヒーリングを施す。
私はずっとストップしてたけれど、年明けにオルゴナイトに出逢ってからというもの、人に頼まれる度にヒーリングとは違うけれど、それぞれの人に必要なメッセージを伝達したり、その人のすごい大切なことを聞いたり、そんなことがちょいちょい増えてきた。
相手の心のとても大切な部分に関わる場面が増えてきた。
そういうことに関して、私は自分なりのポリシーがとても強い。
それは自分でも自覚している。
でも私が大切にしているポリシーは、基本中の基本だと思ってる。
その部分はかなりプライバシーが公開されるから、別の例を出したいと思う。
20代の頃、子どもたちが生活する施設(児童養護施設)で働いてた時のこと。
毎年異動のある職場だったから、上司にあたる方たちも1年ないし2年おきに代わってた。
最初の4年は本当にできる上司+その他の超できる大先輩と呼ぶにも恐れ多い方々と一緒に仕事をさせてもらってた。
出世前に通る場所らしく、その大先輩の方々は異動すると皆保育園の園長になる人たちばかりだった。
だから、本気の大御所の中でもエリートのような方々が、「同僚」的な立場で、私はある意味ものすごく恵まれていた。
人格者みたいな方たちばかりで、色々やらかしまくりの新入社員的な私を、色んな形でフォローしてくれてた。
しかも余程のことがない限り、黙って見ていて、本当にやらかしたら言われたけれどそれも覚えてる限り3回、あとは私が自ら相談するしかなかった。
私は当時の私ができてたなんて全く思わない。
だけど、ものすごく優しいやり方で私を育ててくれた、そういう職場だった。
ところが最後の1年半、その最初の4年でお世話になった大先輩は皆異動なり退職されて、なんと現場の同職種内では私が1番長い人になって、上司も当然代わった。
当時の上司とはとことんソリが合わなかった。
私は最初の4年、徹底的に大切なことを周りの方たちの動きを見て覚えていくしかなかった。
そして少しでも気になったら、その都度何でそうするのかを聞くしかなかった。
例えば入ってすぐぐらいのこと。
幼児の入浴タイムの時、私は最初一緒に子どもたちとはお風呂に入ってなかった。
だけど見ているとみんな大御所の人たちは入ってる。
ある時夜勤で一緒だった先生に聞いた。
お風呂は子どもたちと一緒に入った方がいいんですか、と。
返ってきた言葉を私は今でもはっきりと覚えている。
「お風呂は一緒に入っても入らなくてもそれは個人の自由だから、どちらでもいいのよ。
でもさ、普通の家を考えたら、あのぐらいの子どもはお母さんとかお父さんと一緒に入るでしょ〜。
私はせめてこの子たちが家庭生活のような感じで生活できたらいいなと思って、だから一緒に入るだけよ。
だから、これ聞いたからって、ぶしちゃんが一緒に入らなきゃなんてことはないんだからね(^^)」
私はやっと意味がわかった。
それを聞いて以来、私は残りの5年数ヶ月はお風呂は子どもたちといつも一緒に入った。
ちなみに最後は私以外誰も入らなかった。
またある時に言われたのはこうだった。
「子どもが帰ってきた時は、その時しかその瞬間の顔を見れないから、何はともあれ子どもを出迎えるんだよ」と。
何せ24時間365日稼働してるから、勤務は交代で、夜勤者への引き継ぎの時間というのが大体子どもが帰ってくる時間と重なってた。
それで私がぼさっとして立たずにいたら、何かの折にそれをさらりと教えてくれた方がいた。
私はそれを聞いてからは自分が夜勤や引き継ぎの係にならない限りは必ず子どもを出迎えることを第一にした。
そういう考え方を大切にしていた大御所の方たちはみんないなくなって、いなくなってからの体制は本当にひどくなった。
後から異動してきた人たちは、当時の先生たちと重ならなかったせいもあって、全く動き方が違っていた。
まずは動かない。
子どもが目の前にいても動かない。
子どもがただいまと言って帰ってきても迎えに出ない。
引き継ぎを聞く方が大事だと思ってるようだった。
誰も動かない時は、私は自分が絶対的に引き継がなきゃいけない係でも「ちょっとすみません」と言って席を立って、子どもたちにおかえりを言って私が行くまでにしてて欲しいことを言ったりしてた。
(動き方に)気付いてくれ!と思ったけれど、その上司以下の人たちは全く気付かなかった。
子どもと一緒にいる時間より自分たちの事務的な職務を優先させることの方が大事なようだった。
そして動けないのは動き方がわからないからだと言い出し、マニュアルを作ると言って、動かないメンバーを集めて本当に作ってた。
上司は子どもの動きやリズムを見てないから、しょっちゅう滅茶苦茶な提案をしていた。
他の年配の方たちは、立場を気にして誰も何も言わなかった。
どう考えても現場に混乱をきたすか事故が発生しかねない状態だったから、私はその都度反発して、いちいち文句じゃないけれど苦言を呈し、じゃあこの部分はどうするんですか?と食ってかかっていた。
ある時とんでもない事件が起きた。
そうした表面的なことばかりを何とかしようとした上司は、肝心要の子どもの健康状態について学校に伝達をしてなくて、学校から子どもの様子が急変したから迎えにきて欲しいと連絡が来た(たまたま私が電話を取った)。
大事に至らなかったから良かったものの、私はその在り方にものすごい違和感を覚えた。
もちろん、速攻で男性の私より現場の長い上司(この方は別職種)に事の顛末を伝えて、さすがにペーペーの私がそれを注意したりするのはまずいと思って、対応をお願いした。
その子どもは健康以外の面でもすごく手をかけてもらわないといけない子で、だから学校に上がる前に学校にはその上司が出向いて色々対応をお願いしてた。
私はまさか健康について、しかもそれはその子の命に関わることだから特別な配慮が必要なのに、それを伝達してなかったことに本気で驚いた。
私もまさか伝達されてないとは夢にも思ってなかったから、学校の先生から事の顛末を聞いてビックリした。
とりあえず学校にはこちらの伝達不足を詫びて、その子の健康で留意してもらわないといけないことをまずは口頭でその場の電話で伝えて、また改めて担当よりご連絡しますと言って電話を切った。
迎えに行った時も再度お詫びとお願いをしてきて、また改めてお話に伺いますと言って帰ってきた。
私はこういうことに対して、並々ならぬ怒りが湧く。
人命第一であって、他のことは二の次三の次でいい。
でも当時の上司はその辺が本当にズレてる人で、どうでもいいことは大切にするのに、基本的なことや何よりも優先させなきゃいけないことをきちんとできない人だった。
私からしたらマニュアルはいいから、子どもを直接見た方がマニュアルの何十倍もの情報を伝えてくれるよ、と思っていたけれど、全くその辺りの発想がない方だった。
話は戻って、私が6時間近く何度も怒ってたこと、それはその話に近いものだった。
実は前々からやり方に関して、私はずっと違和感があった。
専門的な手法は知らないけれど、それを人に施す際の心構え的なところが、私からして本当にあり得ないことばかりだった。
最初はおかしいと思っても、全然知らない分野の専門について口出しをするのもいかがなものかと思って黙っていた。
多少違和感があるところはそれとなく質問したけれど、全然見当違いのことを言うから、「うん?」という程度でとりあえず流した。
その道の師匠さんもついてるから、そんなの私が言うことじゃないと思って黙ってた。
だけど回を重ねるごとに、それは単なる違和感ではなく、私からしたら明らかなルール違反に近いものだった。
私は何ならストレートにそのおかしな部分を指摘したこともある。
これが単なる仕事ならまだいい。
だけど、人の心や体の中のエネルギーを触るものだから、絶対的に守らないといけないことがある。
そこを教えられてないようで、ことごとくおかしなことになってる。
私は今回もそんな話にならなきゃいいなと思ったら、事態はもっとすごい方向に動いてた。
こういう世界は完全に個人でする分野だから、資格停止処分とかがない。
私から見て資格停止処分に近いことをしてるというか、本来1番大切にするべきことが伝達されてないからしてないというか。
さすがに私は、分野は違うけれども少なくとも自分がこれまで学んできた数々の手法で必ず言われてたことを何回か伝えた。
手法の違いこそあれど、それは心やエネルギーを触るなら絶対に必要なことだと思うから、と言って私は何回説明したかわからない。
だけど今回も聞き流された。
何なら、今回私は全くの分野違いのホロスコープの講座でさえも言われたことだったから、そこでも言われたよと付け足した。
でも伝わらなかった。
もう怒りMAXだった。
自分でも口出しするべきところじゃないのはわかってるけれど、あまりにも酷すぎるのと、そしてそこに関わる人たち、要はお客さんたちに絶対に影響が出る部分だから、これは黙ってたらいいこととは違う風に感じた。
毎回何を習ってるのかは知らないけれど、私が基本的なことを聞いても「それは教えられてない」と言うばかりで、それで私が自分で習ってきたことは絶対にその分野では大事だと思うからと前置きした上で全部情報は提供した。
でも私が言うからなのか何なのか、とにかく「えー、そうなんだ」とかそんな返事ばかりで全く伝わらない。
今回は怒りしか湧かなかった。
もう距離を置くしかないと思ってる。
私はこの1週間ほどでホロスコープの講座以外にも2つほど全く違うタイプのサービスを受けた。
ホロスコープ含め3人のプロたちは本当に素晴らしい方たちばかりだった。
基本的な姿勢は徹底していた。
3人とも全く違う分野なのに大切にしてることは皆一緒だった。
それは私が教えられてきたことと一緒で、その友達にも再三再四伝えたことでもあった。
私は自分が消耗するのがわかって、そして反対にどういうタイプの人と一緒だと心が元気になるのかも今回はっきりとわかったから、もうここはきっかりと自分の中で線引きするしかないと思った。
実はこういうことが想像できてたから私は自分からは連絡取ってなかった。
だけどぽっと連絡が来て会うことになって、もしかしたらこの間に良くなってるかもしれないと少しだけ期待した。
期待は大きく外れ、モヤモヤは想像以上に悪い方向に向かってた。
期待した理由は、何となくという理由ではなく、最後に会った時にさらに上のコースを取って学ぶ予定と言っていたから。
それならもっと丁寧に教えてもらえる風だったから、今度こそきちんと基本の大切なことを伝授してもらえるのかなと勝手に予想してた。
話を聞いて驚いた。
まさか私の怒りが止まらないぐらいに酷いことになってるとは思っていなかった。
しかも何でそんなきちんとできてると言われる上の人が付いていて、どうしたらここまで話の全く通じない感じになれるのか全然理解できなかった。
実はその子の先の繋がりで、実際に被害のようなものが出た人がいる。
それこそ私もそんなことを被害に遭った当人から話を聞くことになるとは思わず、聞いて驚いた。
それを紹介したのがその友達だったから、私は4月に少し時間を作ってもらって、その被害に関して彼女に伝えた。
そういう危険をはらんだものだから、そのサービスを紹介するのはアフターフォローができるならいいけれどできないなら私は勧められない、私なら自分の近しい人には絶対に紹介しないと言った。
今回被害に遭った人は分別ができる人だったから良かったけれど、これ一歩間違えたら人を深く傷つけてしまう、しかも傷なんか本来つくものではない部分なのに施術者側のミスでついてしまうと伝えた。
そのサービスも基本のきができてないからそういうおかしなことになってた。
それも基本について知ってることは全部伝えた(友達本人のことではなかったから、言いやすくてここぞとばかりに言った)。
話はわかってくれたけど(と言うより、誰が聞いてもおかしな話のレベル)、その時にその子から発された言葉がとことん視点がズレてた。
私はそこで気付いて、だからもうあまり深入りしない方がいいなと思ってた。
その話をした時に、すでに違和感満載だったから、私は距離を置くことにした。
それ以来に会ったのがこの週末だった。
そして今回は決定的になった。
正直、私は自分でも時々この厳しさや完璧主義みたいな部分が嫌になる。
だけど、やっぱり譲れない。
私は人の命に携わることに関してだけは、絶対に初心を忘れたり基本を履き違えたりはしていけないことだと思ってる。
それは心や体を触るヒーリング系も含めて、私は同じように思ってる。
私は色んなところで色んな人たちから色んな教えを受けたけれど、どこでも基本はみんな一緒だった。
福祉の世界もスピリチュアルな世界もコーチングやカウンセリングの世界も教育の世界もホロスコープの世界も、みんなみんな一緒だった。
人の人生に関わるということはそれだけ重大なもので、生半可な気持ちではやれない。
そしてそれらの世界ではみんな共通して守られてる線がある。
足を踏み込んでいいことと踏み込んではいけないこと、自分の個人的な私情だけで判断してはいけないこと、相手の人生はあくまで相手のものだということ、誰にでもその人自身を生きる力があるということ、自分を整えること、自分の内面をしっかり見ること、自分の感情だけで動かないこと、とにかく色々とある。
そういうものがことごとく無視されてるその姿勢に私は怒ってた。
そして全力で伝えても伝わらないことにも怒ってた。
今回のことでわかった。
私はどういう人たちとこれから関係を作りたいのか。
私はどんな風に癒しに関わっていきたいのか。
まさかこんな展開になるとは思わなかった事態に発展した。
でも私はこの自分の大切だと感じてることが共有できない友達と一緒に過ごすのは、もうやりたくないんだとわかった。
ちなみに6時間近くも怒り続けるというのは非常に体に悪い。
私は別れた後、頭が痛いことに気付いた。
話してる最中も自分の怒りが尋常じゃなくて、それが爆発したらどうしようかとその心配もしてた(苦笑)。
家に帰ってきてからも、あまりにも怒りが収まらず、風呂に入っても収まらず、とうとう大学ノートを出してきて思ったこと感じたこと実際の会話と思い出す限り書いた。
4ページも書いた(普段は書いても1ページ)。
↑上の状態から1日経過。
怒りは収まった。
書いてるうちに大方収まり、そして次の日の今日別の友達に会って話したら一気に鎮火した。
私は今日会った友達と話していて、自分の価値観を再確認した。
同じ話をしたから余計とよくわかった。
私は分かち合える人たちと共にいられたらそれで充分満たされるということ。
私の大切にしてることはやっぱり変わらない。
絶対的に譲れないところ。
その譲れない部分に対して、私も変わらなくていいし、他の誰かも変わらなくていい。
それぞれの人たちが変わらない大切なものを持ち寄った時、そこで「それいいね」と感じ合う人同士が集えばいい。
そういうのが好きなんだと、今日会った友達と時間を過ごして再確認した。
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