2017年の一文字。
「逢」
それは突然もたらされた。
何の前触れもなく、もちろん準備も計画もなく、本当に突然不意打ちのようにやってきた。
私の知らないところで、本当は準備ができていたのだろう。
私の人生に現れたその人は、ただそこにいるだけですごい存在感を示している人だった。
最初私は、そんな風になっている自分を全力で否定した。
頭がおかしいと思った。
たった一度ちょっとしたやり取りが交わされただけで、私は自分が勝手に物語でも作り上げて舞い上がってるのかと思っていた。
どう考えてもおかしいから、もっと冷静になろうよと何度も何度も思った。
否定と打ち消しとに脳内はいつも忙しかった。
私はその人に会えることが本当の本当にうれしくて仕方なかった。
それは単に会えることがうれしいというのではなかった。
私も生きている、相手も生きている、命があるということに対してこんなにも感動したことは過去に一度もなかった。
命があって今日も元気に心臓が動いてそれで会いに行く。
そんな奇跡みたいなことが毎日のように起こっていることに私は何度も目を見張った。
「出逢う」というのには、必ず条件がある。
それも絶対の条件。
それは「生きている」ということ。
お互いに生きていなければ逢えない。
今日ある命が明日もあるとは限らない。
だから会えてうれしいというのは、今日もあなたの命に出逢えてうれしいです、というのと一緒だった。
過去に色んな人たちに出逢って、色んな人たちと心を交わして、感動する瞬間もたくさんたくさんあった。
出逢ってくれてありがとうと思う人たちもたくさんいる。
だけれど、もうそのどれとも違う感じだった。
とにかく毎日の中にその人がいる、その人の命が存在している、それだけで本当に感動してしまうレベルだった。
私も至って健康だし、相手も特保のお茶とか飲んでいても見た感じはすこぶる調子良さそうだったから、今にも死にそうな状態というわけじゃない。
そんなにすぐに命の心配をしなきゃいけないわけではないのに、私は命がある奇跡を感じずにはいられなかった。
そんな風に感じる人が自分の人生に現れてくるとは全く思っていなかった。
そんなの夢物語だろうぐらいに大人になって心が若干汚れてきた自分は思っていた。
でもそんな奇跡のような出逢いが本当にあった。
「好き」とか「愛」で表せるのであれば、そうやって表現する方が簡単だしわかりやすいからそうしたらいいと思う。
だけど、もうそういうレベルのものとは一線を画していた。
私は相手に文字を使って伝える時も、そういう言葉を一切使わなかった。
なぜなら、何かが違っていたから。
そういう言葉で限定されるようなものじゃなくて、もっともっと今世の中に存在しているありとあらゆる言葉を使っても表せないような、そういうレベルのものだった。
だって、今の社会の中で「あなたの命に今日も出逢えてうれしいです」なんていう挨拶もなければ、そんなこと思って生活する人なんてどれだけいるんだろう。
ましてや病気とか余命宣告を受けてるとかで命の限りが見えてるわけでもない。
なのに、とにかく自分の命と相手の命とが同じ時代の同じ土地の同じ空間でかち合う、その奇跡に毎日毎日感動した。
墓参りに行くようになったのも、我欲全開のお願いの時間が9割を占めてるものの、そうして命を繋いでもらってることに感謝もして手を合わせるためにしている。
これは人生のご褒美だと思った。
色々過去にがんばってきた自分の上に今の自分が成り立っていて、その過去からのがんばりに対するご褒美だと思った。
冷たくされたり無視みたいなこともされた。
もちろん心も傷んだし折れた。
だけど、その瞬間でさえも愛おしい時間だった。
それは命がないと、生きていないと、絶対に交わせない、持つことのできない瞬間だって知ってるから。
心が沈んでも嫌いにはなれなかった。
とにかく他の何にも代えられない唯一無二の存在で、そういうものに出逢わせてもらえたことがどれだけすごいことなのか、それは会えなくなってからもっともっと感じるようになった。
今日もあなたの命に出逢えてうれしいです、という奇跡のような時間は終わってしまった。
それは終わってしまったけれど、そして色々と自分の中でうまいこと消化できないものは数限りなくあるけれど、やっぱりどうしたってこの奇跡のような時間を人生の中で一度でも持てたことはとってもうれしい。
何にも持ってなくても、生きているだけでしあわせってすごいことだった。
本当に生きているだけで、そして相手も同じように生きているだけでしあわせだった。
一連の「今年の一文字」シリーズを書いていて気付いたことがある。
「出逢い」って「出愛」だということ。
これは私の超個人的解釈になるけれど。
過去のどこかの地点で出逢った人たちみんなから、私はたくさん愛をもらっている。
わざわざ口に出して言うようなことはしないけれど、間違いなく愛をもらっている。
人と人が出逢うと、愛が勝手に溢れ出てくるんだと思う。
もちろんみんなに出てくるわけではないけれど、特別に仲良くなる人たちとはそういう風に愛を出し合うんだと思う。
恋愛の愛の話ではなくて、もっと人間がそもそも持っている情という部分の話で、そんな風にできている気がする。
命に感動しているのもそれは愛を別の形にするとそうなるんじゃないかと思う。
その究極のような形が「今日もあなたの命に出逢えてうれしいです」という感覚なのかもしれない。
こんな哲学めいたことを考えることさえも、何か色んな生きている感情に触れて、自分の命も相手の命も感じる、しあわせな瞬間だったりする。
そして、私のこの一方的なものは最後まで一方的ではあったけれど、相手に届く届かないというのはもうあきらめも手伝ってどちらでも良かった。
それよりもやっぱりそういう人に人生で出逢えたことがうれしかった。
そんな折、私はある方のブログに行き着いて、そしてこの言葉に泣いた。
「もしも(これから先)逢えなかったとしても長い人生の中の半年と言う短い間だけど宝物のような時間でした」
まさに宝物のような時間だった。
私は半年どころかさらに時間は3ヶ月半と短くて、もし元気に100歳まで生きたとしても、やっぱり同じように宝物のような時間だったとおばあちゃんになった自分も思うだろう。
こんなにも自分の命や誰か別の人の命を思い続けるなんていう時間もそうそう人生では起こらないような気がする。
そういうものすごく特別な宝物のような時間、それはすべて「出逢う」ところから始まっている。
だから今年の一文字は「逢」以外には考えられなかった。
(引用文について:ブログを書いた方から引用させてもらうことを快諾してもらっています。今回は私側の事情で引用元を非公開とすることも了解を得ています。どうしても引用元を知りたいという方がいらっしゃいましたら、コメントか個人的に連絡をください)
~今年の一文字シリーズ~
良いお年をお迎えください☆ Wish You A Very Happy New Year!
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