2017年9月。
私はある1通の手紙をしたためる。
この手紙に至るまで、実に色んなことがあったことをここに記しておきたい。
2015年9月にさかのぼる。
私は13ヶ月目に突入した絶賛ひきこもり生活を前に、これからどうするんだろう?とそれまでと変わらず同じ質問を自分に投げかけていた。
13ヶ月引きこもろうと思って引きこもったわけではなかった。
気付いたらあれよあれよという間に1年と1ヶ月目に突入していた。
しかも引きこもることも「引きこもろう!エイエイオー!」というような勢いで引きこもったのではなく、気付いたらそういう生活になっていたという感じだった。
ある時自分がいつ人に会ったのかを確認したら、最初のぷー太郎3ヶ月くらいはさておいてもその後から1ヶ月に2人とか3人とかになっていて、しかも1人暮らしだったから、本当に誰にも会わず話さずなんていう日が1ヶ月の90%以上を占めていて…ということに気付いた。
「これっていわゆる引きこもりってやつ??」と自分のことなのに、まるで他人事のように思って、そこで初めて自分がいわゆる引きこもりをしていることにようやく気付いた。
当時のことは割愛するけれど、当時の私にしたら、人に会ってああでもないこうでもないと説教じみたことを言われたり促されるよりも、自分ひとりでいることの方がうんと楽だった。
しかも当時会っていた人たちはものすごく限定されていて、そうした私の状況を知りながらもそれまでと変わらずに接してくれて何も言わず見守ってくれる人たちだけを選り好んで会っていた。
きちんと社会生活を送っている健全な人たちからしたら、私の行動は異常そのものだっただろうし、実際に批難されたことも一度や二度じゃなかった。
とにかく色んなことから逃げたかったのと、それまで走ってきたかのようにはこれから先の人生やっていけないという自分の中の燃え尽き症候群みたいな感じと、色んな負の状況や気持ちが一気に押し寄せたような期間だった。
だから、私の中でその生活を終わらせる目途など全く立っていなかった。
そんな中、2015年の9月に突如転機が訪れた。
ある日突然見知らぬところから連絡が来て、私がやっていることを形にしてみないかという提案だった。
私は最初冗談だろうと思っていた。
なんかの新種の詐欺かとも思った。
どうせ何をしてるわけでもないし、会う場所はコメダだし、昼間だし、まぁ詐欺なら詐欺でその場で警察を呼んだらいいなどと考えて、実際に会うことにした。
会ったら、ビジネスとは少し違うけれど、大真面目に私のしていることを形にしてくことを提案された。
それは正当な評価だということはわかったし、きちんと私のしていることを下調べもしてきていることがわかった。
その上でどうですか?という提案をいただいたのだった。
返事は保留にして、また後日返事しますということでその日は帰ってきた。
さすがに怖くて、ネットでその会社を検索しまくった。
実際に形をした人たちのブログやサイトなんかも探しまくって、本当に安全かどうかを調べた。
何なら、そのうちのお一人には勝手ながら個人的に連絡を取り、聞いてみた。
その人であれば信頼できそうという感じがプンプンしていたから。
その会社とも私とも利害関係のないその人から信頼できる内容の返信をいただき、とりあえず危ないものではないことはわかった。
その後もどうするかさんざん迷ったけど、もうYESで行きなさいと言わんばかりのサインがあちらこちらからやってきて、それでようやくやろうと決めたのが2015年の9月だった。
それはやりたいことではあったけれど、同時にまたそれとは別に食べていくための社会生活も2足のわらじでスタートさせる必要があり、私はそれをきっかけに引きこもり生活を終了させた。
食べる手段としての仕事は派遣の仕事だったけれど、待遇に関しても派遣では有り得ない特例が派遣会社の上層部の人の個人的な働きがけにより実現した。
武士俣さん、このことは絶対に口外しないでください、社内でもそれを知るのは僕ぐらいなのでよろしくお願いします、と言われた位の対応をしてもらえていた。
私のやろうとしていることも知った上で、「これが僕にできる武士俣さんへの応援の仕方です」と言われた。
本当にありがたいばかりで、あとは普通に仕事に行って、それ以外の隙間時間で自分のやりたいことをやれば良かった。
ところがここで私はとんでもなく大変なことになった。
派遣なのにまるで正社員のような責任を問われる体質の会社で、さらには私の能力以上のものを日々求められ、できないと叱責と怒りと色んなものをぶつけられるという状況だった。
さらには、本来フォローする役割の社員の人たちが、私をフォローするどころか蹴落とす、責任を全部かぶせてくる、という社会人になってから一度も体験したことのないことを体験することになった。
私が社会人になってから唯一自慢できることは、どこのどんな職場に行っても、人にはびっくりする位に恵まれていること。
どこに行っても変な人の1人や2人はいるし、仕事できなかったり人間的に「はぁ~?」と思う人もいるけれど、それでも私はどこに行っても本当に良い人たちに恵まれていた。
それは私が正社員だろうが契約社員だろうが派遣だろうが関係なくそうだった。
だから聞いたことはあったけれど、本当にそういう変な職場に行ったのはその時が初めてだった。
それで結局私は、食べていくのに必要なその仕事を自ら手放した。
契約を更新せず、契約を結んでいた5ヶ月過ぎた時に期間満了で辞めた。
その後私はまた普通に何かの仕事に就きながら、本来のやりたいことをやっていく予定でいた。
ところがその後からとことん不採用をくらった。
派遣なのに不採用、何ならすごく得意な分野でも不採用、急募で派遣会社から太鼓判もらうような会社でも不採用。
明らかに何かがおかしかった。
しばらくは次の仕事を探すことに躍起になっていたけれど、不採用がいくつか来た時に、「この道じゃありませんよ」のサインなんだろうなぁとおぼろげに思った。
かと言って何かを始めるような気持ちなんか微塵もなかったから、正直どうしたいのかどうしたらいいのかさっぱりわからなかった。
仕事を多少は選んでいるにしても、自分が選んだものからは選ばれない。
ある時は手当たり次第とはいかなくても、それに近い形であちこちにコンタクトを取ったりもした。
それでもどこにも繋がっていかない。
イコール食べていく術がなくなる。
かと言ってのたれ死ぬわけにもいかない。
辞めてから3ヶ月になろうとしていた頃、絶対に選びたくなかったけれどこのままでは本気でまずいということで、恥を忍んで親を頼って新潟に戻ることにした。
それが2016年初夏のことだった。
新潟に戻ってきてからも、私の不採用は続いた。
当時のメモを見るだけでも最低10か所は落ちた。
それも契約社員やアルバイト、パートでも落ちた。
履歴書に希望を書く欄があるけれど、私は一切希望を書かずに出していた。
それでも落ちるから、もうどこにも行けないんじゃないかとさえ思っていた。
その頃から「本当に行く必要のある場所にしか運ばれない」とかなり本気で思うようになった。
なぜなら、超マニアックな経験を必要とするところでも3社不採用だったから。
自分が受かる素質があるなどとは思わなくても、少なくとも未経験者より経験者の方が絶対的に欲しいところだろう…というところで落ちたから「おや?」という感じだった。
それで10社以上不採用が続いた後、最終的に就いた仕事というのが今年の春先までしていた仕事だった。
そこは申し込んだ日から3日後には仕事開始と言う、信じられないぐらいにあっという間に決まった。
いきなり何でこの仕事に決まったんだろう?と疑問に思ったぐらいだった。
ここは興味のない仕事にも関わらず、働くことの楽しさを私に教えてくれた。
そして私の何の統一性もないこれまでの色んなジャンルの経験を存分に生かす、そんな仕事に抜擢された時はとても嬉しかった。
ただ期限付きの仕事だったゆえ、2017年5月に強制終了となった。
仕事が強制終了ということではなく(なぜなら一部の人たちは残って仕事を今も継続しているから)、私にとって次の流れに行かなければならないことが水面下で起こっている、という意味での強制終了だったと思う。
正直、なぜこのタイミングで仕事が終わるんだろう?と思っていた。
私が抜擢された仕事というのは、45人近く人がいて、私以外誰もすることのない仕事だった。
当時の上司が最後の方に教えてくれたことは、
「この仕事は誰でもいいんじゃないんだよ。
そして誰でもできるわけじゃない。
まずそれに対してジャッジしないこと。
抵抗がないこと。
それによってメンタルがやられないこと。
そして理解した上で仕事に取り組めること。
さらに対応力が必要だから、お客さんが何を言ってきたとしてもこちら側の意図を伝えて言い切れること。
咄嗟に迷ったりお客さんのペースに巻き込まれて話があらぬ方向へいかないように、きちんと軸を持っていること。
そして本来意図していることをお客さんがそうしてくれるように仕向けること。
それら全部できる人っていないんだよ。
だからぶっしーがやってくれるってなった時は、ようやくそれをしてくれる人が自分のところに来たんだな、って思った」
というようなことを教えてもらった。
ものすごく特殊な仕事をしていたし、やり残したまま5月末を迎えたけれど、私は契約通り5月末で終了となった。
だから「強制終了」という言葉が頭に浮かんだ。
そして次の仕事は、これまでその前の10数社不採用をくらった人とは思えない位にあっさりと決まった。
他にも紹介されていた仕事が3つ程あったけれど、それは何かしら条件が派遣会社か私の方で一致せずに断ったり断られた。
そして実際に決まったところは、なぜかすぐに決まって内心驚いた。
正直なところ、何でこの仕事に決まったんだろう?と腑に落ちる理由が1つもなかった。
その仕事(事務)は、私は未経験で尚且つ自分が得意とすることを1ミリとして発揮する場面がない。
だから、「何でこの職場に行くんだろう?」と当初から不思議で不思議でたまらなかった。
後々今の職場の人に聞いたら、面白いことが1つわかった。
今の仕事は人員不足で急遽増員になったところだった。
その人いわく
「派遣会社の人(Xさん)に、次に来る人はどんな人が相応しいか聞かれたことがあってね。
こういう職場だから、若すぎる子だと他の人たちとの年齢差プラス職場の体質的にかなり厳しいと思う。
だからある程度社会人経験のある人。
あと、この職場ゆえ、メンタルが強い人じゃないと絶対にやっていけないので、そういう人がいいと思います、って伝えたらね。
武士俣さん来て、『あぁぴったりな人が来た!』って思ったんだよ」
というとても嬉しいことを教えてもらえた。
「メンタルが強い」というのも、実はすごいキーワードだった。
3つ条件が合致せずに行かなかった仕事のうちの1つは、「メンタル的に平気な人じゃないと」という話が実際にあった。
どういうメンタルの強さを求められているのかを聞いて
「あぁそれなら私は平気です。
そういうのは基本気にならないし、そんなの自分じゃなくて仕事がそうだから私のせいじゃない、って割り切って仕事しますから」
と担当者に返したことがある。
その会話を交わした担当者(Xさん)が、実際に今の仕事を持ってきてくれたのだった。
それで始まった仕事が、まさか手紙の相手と出逢う舞台に繋がっていくとは当時ゆめゆめ思わなかった。
もっと言えば、私はその仕事を通じて出会いも求めていなければ、おおよそ年度いっぱいの契約になる予定と当初から言われていたから、それまで自分の今後の生き方を決める上での猶予をもらったんだ位に思っていた。
今仕事しながら次の方向性を定めなさいってことなのかなぁぐらいにしか思っていなかった。
そして実際に今の職場に行ってみて、自分がその組織的な体質にいよいよ合わないということもはっきりすれば、自分の持っている力を使わないことにも違和感を覚えたし、事務仕事について言えば本当に不向きだと日々痛感している。
何もかも予定外の流れがきて、最初頭でわかったことは今書いたみたいなことだった。
今ならわかる。
もちろん今の仕事から学ぶことはいくらでもある。
でもそういうことを学ぶためにそこに行ったのではないこと。
どちらかと言えば、「運ばれて行った」場所だった。
そこに行かなければ出逢えない人がいたから。
本当にそれが目的だったんだと思う。
そしてそれは論理的に設定した目的ではなく、自分自身でさえもそんな目的が潜んでいたなんて知らずにいた、そういう類いのものだった。
ふと思い出したことがあった。
不採用になった3つの会社は、どこも全部「1年以上の長期就労」が大前提の募集だった。
そうとは書いていない場合でも、基本的にはそういう人を求められていた。
実際に面接でも聞かれた。
だからもしそのどれかに採用されていたとしたのなら、私は絶対に今の職場にはいなかった。
とにかく流れのすべてが色々おかしかったし、何でこんなことになっているんだろう?っていうようなことがこの2~3年ずっと続いていた。
20代の半ば位から始まったことだけれども、自分の意志とは関係ないところで何かが水面下で動いている。
少なくとも30歳になるまでの私は、「成せば成る」と信じていた人間だった。
自分の努力で何かを手に入れること実現することは可能だ、ということを実体験としていくつも積み重ねてきた。
だから人生とはそうやって生きていくものなんだろうなぁと認識していた。
ところが、自分が努力しようが望もうが、その通りにならないことも人生にはある、ということを20代の終わりで体験した。
自分の行動や意志ではどうにもできないこと。
そういうものが人生には存在すること。
とにかく色んなことが起きまくった30代だったけれど、今わかるのは、今という人生の通過点において、やっぱり過去のピースどれ1つとして欠けてはダメだということ。
もし今の仕事やこの1つ前の仕事が、2足のわらじ開始当初の仕事であれば、私は100%新潟に戻ることはなかった。
なぜならどちらも隙間時間というものを十分に持てるから。
そして前回も今も人間関係は良好だし、良くしてもらっている。
そういう意味で不満はない。
辞める選択なんて頭に浮かばなかったと断言できる。
だけど、なぜかあの時だけは「新潟に帰りなさい!帰らなければ無理矢理にでもそういう状況を作りますよ!」と言わんばかりの状況だった。
私の中でも「何でこんなことになっているの??」と思ったことがたくさんある。
でも色々おかしなこと満載の中で、結局出逢うべくして出逢うようになってた人に繋がるのであれば、もうそれが流れなんだと思う。
たった1通の手紙には、そうした過去から脈々と続いている一連の流れがあった。
まさか2年前の9月に、2年後の私は新潟にいるなんて思ってもいなかったし、予定にも組んでいなかった。
なんなら私は、生涯を通じてもう新潟に住むことはないとさえ思っていた。
そして新潟に戻ったことで、その1通の手紙が生まれることも当然知らずにいた。
手紙を書くということは、当然手紙を渡す相手がいるわけで、そんな相手と人生でかち合うなんて、もっともっと想像できなかった。
手紙の舞台裏は、自分自身でさえも今この地点に立たなければ見えないこと知らないことだらけだった。
~手紙シリーズ~
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