ブログを休んでいた間、実は全く書かなかったわけじゃない。
ちょこまかちょこまかと書いては、USBに残した。
といっても、それは最初の3か月ほどの話で、こうしてキーボード叩いて文章を書くのは多分1年ぶり…。
当時、今住んでいるところにどの位住むのか想像もつかなかったから、ネットを引かなかった。
そうしたらあっという間に1年4か月も過ぎていてびっくりした。
ネットがなければないなりに、生活にそこまで不自由さを感じなかった。
テレビなし生活を10年もしたわけだから、ネットもなければ何とでもなった。
どういうわけか、今の職場では、私だけメールアドレスもなければ、そうしたチェックの煩わしさからも解放されている。
iphoneも最低限の連絡用にしか使わず(さすがにネット検索はそれでするけれど)、それですべて事足りてる。
この超スーパーネット社会の中で、昭和のような生活を送っている。
それはそれで私にはとても心地よい。
ないと不便だと思うのはそのものがある時だけ。
ない生活が始まってしまえば、体も心もないことに慣れて平気になる。
平気にはなるけれど、やっぱりこうして久しぶりにキーボード叩いたら、こうして書くことは好きだなと再認識する。
書かない間も、いろんな形で私は書いていた。
日記や備忘録的なものが多かったけれど、手書きであれやこれやと残していた。
ネットはいつ再開させるかはさておいて、書くことは再開するだろうなぁという予感がする。
息をするように、私の指はひたすらキーボードを叩いていく。
考えて打ってるんじゃなくて、出てきたものをぽんぽんとキーボードに打ち込んでるだけ、という感じ。
1年4か月、実に濃密な時間がやってきた。
「働く」ことそのものが楽しいと思える経験をした。
興味のない仕事にも関わらず、働くって楽しいこともあるってことを、この春先までしていた仕事から教えてもらった。
人との出逢いもあった。
望む方向にはいかない結果が今の現実にはなったけれど、それはそれはものすごい体験が雨あられのようにやってきた。
生活の環境も、生きる道も、住む街も、あれもこれも変更した1年4か月だった。
色々先延ばしにしたこともある。
自分の選択に納得できないこともある。
これで良かったのか?なんて思うことも数えだしたらきりがない。
それでも私はたくさん笑って時々は怒って、時には泣いて気持ち吐き出して。
おいしいもの食べたり、きれいな風景に出逢ったり、人の優しさに触れたり、「生きてる」時間を過ごしてる。
今月に入ってから、1つ思い出したことがあった。
30代の中で、1年くらいに渡って「生きたい」と思えなかった時間が2回、だからトータルしたら2年は確実にあった。
きちんとカウントしたら、もっとあったのかもしれない。
その「生きたい」と思えなかった頃の自分の気持ちは今でも憶えている。
朝がくると「また朝が来てしまった」と毎朝思っていた。
死にたいとは思わなかったけれど、なぜならうっかり自殺したら次の人生ではもっと大変な人生を送ることになると聞いて、もうそれまで何とか乗り越えた数々の苦難よりきついものは体験したくないから、自殺願望だけはきれいさっぱりなくなった(10代の頃はそういうのもあった)。
先の見えないことに不安ばかりが押し寄せて、自分の力のなさに泣いて、逃げることさえ許されなかったような状況に本当に絶望していた。
例えば、10回ほど退職届を出しても辞めさせてもらえなかった仕事には、本気で逃げられないと恐怖しかなかった。
例えば、本当に何もかもと断絶して、引きこもりのような時間を13か月した時は、ひきこもることに違和感はなくても、そこから先の人生の再生の仕方がわからず1日1回は絶望すると計算したら何百回と絶望していた。
色々強烈なことがあっても、私はそれでも心ある人たちから何度も助けてもらい、そしてたくさんの色んなものたちに元気をもらっていた。
でもやっぱり心はどちらかというと弱っていた。
人生を楽しむ力が圧倒的に不足していた感が、今は当時を振り返るとそんな気がする。
例えば今。
自分の望んでいない現実もしっかりとある。
こんなの望んでいません、私が望んでいるのはこれこれこういうことです、と何度自分の中で宣言したことかわからない。
何ならこの3週間弱、毎朝の日課になった墓参りという名の願掛けの時なんか、もう自我丸出しの願い事をお墓の前で何度も何度も心の中で唱えている。
ちょっと不思議なことを話すと。
私はそのお墓参りの時間、雨の多い新潟で、実は一度も雨に当たったことがない。
1日を通じて雨の日だって確実にあった。
それでも本当にお墓参りのその数分だけ、雨の日でも雨がなぜか上がっていた。
その直後から大降りになったことだって一度や二度じゃない。
守ってもらえてるんだなぁと何度も何度も感じた。
そしてもっと不思議なことを言えば、別れと呼ぶようなその日、ものすごく雨が降った。
初めてお墓までの道すがら傘をさした。
私がきちんと泣けない分、空が泣いてくれてると本気で思った。
あほみたいなことを言ってるようだけど、そういう体験の1つ1つが「生きてる」ことをものすごく感じる。
そしてそれに勝るぐらい楽しいことも体験した。
1日の終わりにその日にあった出来事を思い出してはすごくしあわせになって、そして次の日もまたそれ以上の楽しみがあって夜眠ることが楽しみだった。
朝がきたら、その楽しいことを体験できるんだと思うと、それだけで心が躍った。
人生にこんなにも楽しいことがあっていいんだ!って感動した。
それは、生きたいと思えなかった当時の自分ががんばったことへのご褒美みたいだった。
過去の自分に何度も感謝した。
がんばったね、がんばってくれたおかげで今の楽しみがあります、って。
そしてその頃の感覚も知ってるから、今色んなことをもっともっと楽しめるようになったような気もする。
「生きたい」とかそんなの考えなくても、「今日もこれから楽しいことが待ってる」って感覚が先走る。
40代を1年半後ぐらいに控えている今、こんな感覚を自分が持てるなんて思ってもみなかった。
喜びとか希望とか、そういうものを人生で持つってすごいことだと私は思ってる。
もうそれどころじゃない日々がたくさんあったから、そういうことを人生で持てるようになった自分、もう一度持てるようになった今、感動する。
思い通りの現実じゃなくても、そういうことはあまり関係ないらしい。
思い通りじゃない部分に対して「奇跡が起きてくれないだろうか」と大真面目に思ってる。
その現実は非常に受け入れ難いけれど、それでも人生を楽しむ力が私にはあるんだということが今はわかる。
過去の苦しみや理不尽な出来事は、私に人生の楽しみ方を教えてくれる良薬に今はなった。
当時は七転八倒して、先の見えないことや目の前の悲しみや苦しみに泣くか塞ぎ込むぐらいしかなかったけれど、それでも今の私は笑ってる。
色々やらかしたことも、誰かの迷惑になってしまったことも、反省や恥ずかしさや色んなものがあったけれど、それでも今日も私は生きてることを許されてる。